今までどんな校則を経験してきましたか? それは今でも、あなたを拘束していませんか。
もう40年ほど前ですが、私の中学には理不尽な校則がありました。
男子は丸坊主。
女子は肩までそれ以上なら結ばないといけない、前髪は眉にかかってはいけない。
男子は髪を指で挟み、はみ出たら「切ってこい」と言われました。
それを受け入れない選択肢は、認められませんでした。
当時の私は、伸ばせば切られる。伸ばすなら学校に行かない——そんな極端な二択に追い込まれているように感じていました。
さすがに今はそこまで露骨な校則は減ったのかもしれません。
それでも、生徒にとって意味のないルールは残っていませんか。
では、上に立つ側にとっても無意味かというと、そうでもない。
理不尽でも言うことを聞かせる練習だと考えれば、役割は重要と言えます。
どれだけ理不尽でも、守らない人は「悪」とされる。
そこに意味はなくても、秩序はある。
秩序を保つために、あとから理由を付け足す。
「清潔感のため」「規律のため」「平等のため」——
そうして、意味のないものに意味を与え、納得していく。
やがて私たちは、会社の社則や不要な慣行も、疑わずに受け入れてしまうようになります。
理不尽よりも、「みんな同じ」に安心するからです。
そもそも誰のための秩序なんでしょう。
学生時代から、私たちは考えない訓練を受けてきたのだと思います。
「みんな同じ方向を向くこと」が善とされる構造。
和を乱すなの合言葉で、個を押し殺す。
そのとき、私たちは誰の人生を生きているのでしょう。
たとえばマスク。
エビデンスという言葉を盾にしつつ、実際には安心のため——つまり同じであることのために着けていた人も多かったはずです。
それ自体が悪いわけではありません。
ただ、「なぜ自分はそうしているのか」を忘れた瞬間、他人の命令に従って生きはじめます。
学校で刷り込まれた同調は、社会で形を変えて続きます。
上司の意見、流行、世間の正しさ——考えずに従えば、いくらでも「いい人」でいられる。
けれど、その「いい人」は、誰の人生を生きているのでしょうか。
校則の核心は、「禁止」や「命令」そのものではありません。
自由意志を手放す練習——そう捉えると、点が線でつながります。
だからこそ、問い直したい。
「私は今、何を望んでいるのか」
「なぜ、それを選んでいるのか」
瞬間ごとの選択に意識を向ける。
それが、自分のハンドルを取り戻すということです。
拘束を解くのに、誰の許可もいりません。
眠っていた「私の意志」を、もう一度、表に出すだけ。
浮かれているのが学生気分ではありません。
何も疑問を持たず、言われたことに従うこと——それこそが学生気分です。