「この人は正しいのか?」
「善なのか、悪なのか?」
そう問い続ける人は少なくありません。
けど、その問いの立て方自体が、一定の枠の中にいる証かもしれません。
それは、「教祖を探すスタイル」です。
■ 正しさに全部乗っかりたい
かつて宗教の世界では、教祖の言葉が絶対とされてきました。
たとえば仏教なら、お釈迦さまの言葉はすべて正しいと信じられていた。
迷ったときは「お釈迦さまならどう言ったか?」を基準に考える。
それは一見、安心できる構造です。
けれどよく考えれば──
何億人もの人々が、たった一人の言葉を完全に正しいと見なすのは、
極めて不自然です。
しかも、その言葉が本当に本人のものだったかどうかも、検証されないままに。
実際、お釈迦さまが亡くなってから作られた経典は数多くあります。
そこで、何が正解か選ぶのはあなたの自由です。
■ 学問の世界にもある「教祖構造」
宗教だけではありません。
学問の世界でも似たような構図が見られます。
「○○学派の創始者がこう言ったから正しい」
「この理論は、偉大なあの学者が唱えたから間違いない」
でも、その人が前提にした最初の理論自体が
もし歪められていたとしたら?
そのあとに続く「正しさ」は、全部崩れます。
正しいとされることにすがりたくなるのは人間の性ですが、
思考停止の温床にもなります。
■ ファン心理と同じ構造
これは、音楽やアートにも似ています。
たとえば、あなたが大好きなミュージシャンがいたとして──
全部の曲が好きなわけではない、ということもありますよね。
この絵は素晴らしい、でもあの絵はちょっと合わない。
それでも「ファンであること」には変わりないし、
だからこそ、自分なりの感性で向き合えているのです。
全部を肯定する必要なんてない、嫌いな人の作品を全部否定するのもおかしい。
それは、思想や言葉でも同じことです。
■ 教祖のいない世界へ
これからは、「自分で選ぶ時代」です。
「誰かが全部正しい」と信じるのではなく、
「この部分は共感できる」
「この点は違うと思う」
という切り分けを、自分の手でやっていく必要があります。
すべてを飲み込むのではなく、
自分のフィルターを通して選び取る。
それが「洗脳されない思考」であり、
「支配構造に組み込まれない態度」なのです。
■ 「救世主」を待ち続ける人たちへ
「この人は正しいですか?」と問うことは、
誰かに「考えること」を委ねたい、という願望の表れかもしれません。
誰かを絶対的に正しい存在にしてしまえば、
もう自分で判断しなくてよくなるから。
──それって、すごくラクです。
でもそれは同時に、
「自分で自分の世界を作る力」を放棄しているということでもあるのです。
■ 自分の世界を、自分で描く
誰かの言葉に全面的に従うのではなく、
「ここは参考になる」「ここは違う」と自分で決める。
そうして、自分だけの世界を編んでいく。
たとえば私が何かを語っていたとして、
「全部正しい」と思う必要はありません。
合わないところは、どうか遠慮なく捨ててください。
誰かの思考のコピーではなく、
あなた自身の目で、耳で、感性で、感じて欲しいです。
「この人は正しいか?」と探し続けても、答えはいつまでも外にあるままです。
たとえ後で「違った」と気づいたとしても、
その言葉を選び、それを信じたのは自分です。
誰かを信じて失敗したとき、相手を責められる人は、
ある意味では楽なのかもしれません。
自分の責任を感じずに済むからです、
でも実際には結果で責任を取らされています。
誰かの言葉に全てを預ける時代は、終わりを迎えています。
誰かの正しさではなく、自分の違和感を信じてください。