(先週の続きです)
『ものに執着しすぎている時、或いは怒りにとらわれている時、“空(くう)”を思うことは、心を安定させるのに大きく寄与するはずである』(ダライ・ラマ)
空の心とは般若心経が説く概念で、ダライ・ラマはそれを踏まえて上記のメッセージを日本人に向けて発しています。
私なりの解釈で説明すると、怒りとは、こちらが怒る判断して決めただけのこと。怒りの原因となっている事象は自分の感情とは無関係。怒りの原因は自分の中にあり、それをコントロールすることで怒りと上手に付き合うことができることを空の心と言います。
釈迦の伝記に次のようなものがあります。
ある男が釈迦を罵倒しました。釈迦はその男に「あなたの家にお客が来たらご馳走をす出しますか?」と尋ねました。男は「ある」と答えました。釈迦は質問を続けます。「ではそのご馳走を客が食べなかったらどうしますか?」男は「それなら自分が食べるしかないい」と答えました。すると釈迦は「今、あなたが私に向けた悪口を私は頂かない。だからあなたの言った悪口はあなたのものになるしかありません。」
悪口を言われれば普通は腹が立ちます。しかし腹を立てるかどうかは自分が決めたことで、受け取らなければ自分の問題ではなく相手の問題でしかない。そのようにしてアドラー心理学で言うところの課題の分離にも通じるものを感じます。
心が三毒に冒されているとき、私達は怒りの感情に駆られて冷静さを失ってしまいます。それによって失敗した経験は誰にでもあります。釈迦のように空の心で向き合えば、怒りの原因が自分の中に存在しないため、そのような失敗も起こり得ないのでしょう。
しかし空の心を会得するには、それなりの修行が必要になりそうで、一般ピープルの私にはちょっとハードルが高い感じがします。
そこで心のコントロールには体を使います。目に見えない心よりも目に見える体の方が扱いやすいものです。そして心と体は繋がっています。心が怒りに侵されていれば表情は曇り、背中は丸まり、足取りもトボトボとなります。だから反対に多少強引にでも「大丈夫」と表情を作り、背筋を伸ばし、丹田に気を巡らせて、ハムストリングスにしっかり力を込めてグイグイ歩く。これだけでも心がスッキリすることもあります。
それでも足りなければ全力で走ったり、思いっきり汗をかいてみることで、脳のリソースを運動に集中させます。そうすると怒りに振り向けられていた邪念が薄れ、人為的な、あるいは擬似的な空の心が発動します。
このように見えて触れられる体を使って形の無い心の状態を調整をすることは誰にでもできることです。皆さんも怒りを感じたら試してみるのはいかがでしょうか?言うまでも無く怒りに任せて暴れて他の人や物に当たるような体の使い方はNGです。それは怒りを他者にぶつけ、怒りの連鎖を生むだけです。こんなことは先週からの話をここまで読んでいただいた方には“釈迦に説法”というものですね。
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