アイデアを出す時に「これは正解だな」というのでネタを集めたり、「これは正解っぽいな」ということでアイデアを考えたり、「これは正解だな」・・・もうこれくらいにしておきますが、そうやって考えることはありません。
では、正解を考えずにできるか?というと、これについては僕らの癖というか教育を疑う必要があるわけです。
そして疑うが仕事というか、アイデアを考えることと認知できればアイデアは出せるかなと。そんな疑う余地がないものしかなければ、また疑いたくない、全て世の中が正解で構築されている人にはアイデア出しはきついという話です。
正解はない
正解はない話は何度も書いていますが大事なのでこれもくどいくらいに書いています。という前フリがあるものは実は言葉を変えてやっているのですが、それでも少ないかなと。毎回これでもどうかなと思うのですが、実はそれでもいいかもしれません。人ってなかなか覚えられないですから。学ぶとはその繰り返しですから。
正解とはここでは、アイデアとして何か具体個別的なやり方が決まっていてそれを当てるというゲームのようなものです。歴史も正解はないですが、おそらくこういえるというのを正解としてテストや問題や勉強で扱われている。別に歴史でなくても、知識におけるテストとはそういう類ですよね。なので入試問題での国語の正解があるか?は、シンプルに出題者が考える正解となると。そこが分かれば国語の成績は格段に上がるはずです。
それはおいておいて、正解はないのがアイデアです。アイデアにおいて、正解はない。アイデア自体は新しい工夫や新たなやり方、問題を解決するとかそういう今までにないこと、を指すからです。今までにないというとハードルが上がるのでそれは気分の話で、実際は今までにあることを一人の人が認知できないので、他でもやっていたことが生成されることはありますよね。というか被らない方が怖いくらいです。かぶるということは考えているからともいえるかもしれないと。これは良い気づきかもしれません。どこかで検索して事例を出すだけなら、考えていないので、その違いに留意したいところです。
正解がないので、出すアイデアや頭に出てきたアイデアが「良い」か「悪い」かはあっても、それは正解ではないと。正しい間違いではないということですね。自分の話なら、自分が使えると思えばそれがアイデアが良いということです。そんなアイデアどこがいいのか?というものがあることはよくあるのですが、それは僕がであって、その人が良いならそれでOKとなる。こういうところが面白さがあるんじゃないかと。
正解を考えてしまう人向け
これはトレーニングの話です。正解を考えてそこから不正解的な考えを探る人はそれはまた違うと。そもそも物差しが違うんですね。正解/不正解の軸が必要なところもあったのでしょうが、まあアイデア出しにおいてそれは要らないです。
といって消せるならいいのですが、軸がそれ以外にないと出来ないんですねよ。よって、発想法みたいなものがあるんですが、これは非日常感が強すぎてきついと。つまり、どこか使いづらい道具でなじまないって感じが多いです。少なくとも僕は。なじませることが発想法の考え方であれば、発想法自体は全て批判されて、残るものが残るので、まずはやってみてどうかというのが一番早いですね。
正解や不正解は合理的ゲームといえるので、感情ゲームにすればいいというのが僕の説明です。つまり、面白い、面白くないってことを日常に入れていますか?入れてないなら今すぐそれを入れて下さいと。
金融経済のニュースでもなんでもいいのですが、面白いのかどうか?分かるとか、何が正解とかでなくて(笑)エンタメは面白いかどうかだけともいえるので、そっちが分かりやすいですかね。でも、エンタメのアイデアも別に正解はないわけですよね。面白いかどうか、心が動くかどうか、自分がどう思ったかどうか。正解とか不正解ではないところで、自分の主観で考えるのがまずは最初のトレーニングかなと。
これをやれていない人はロボみたいになりがちなので、正解がないので禁断症状のようにイライラしたりするかもしれませんが、そういうものかなと思います。実際に出した面白いアイデアも、面白いことも全部正解ではないし、不正解でもない。分からないんですよ。
正解がないからこそアイデアはアイデアたり得る
括弧付きの「正解」だけ示します。というのは、これは正解が大好きな人の表現でしかなく、僕は使うことはまずありません。
というのは、アイデア出しが依頼であれば「クライアントが良いとか気に入ったアイデア」が「正解」となります。ただ、正解はわからないので、これも正解が好きな人が「正解」ではないですよね?つまり、A、B、C、Dと4つ選択肢があった。Aが正解であるのはすでに決まっている。わけではないんですよ。
確かに選択肢は4つあったら、4アイデアとできる。ただ、Aが気に入るかもしれないしそうでもないかもしれない。気まぐれといってもいい。故に確率程度でしかないので、正解はAでもあるし、Bでもあるし、Cかもしれないし、Dのときもある。正解好きな人はこれ納得しないですよね?だから正解なんてないんですよ。
頑張って「正解」がこれですから、正解というのも意味が違うというか、異なるよねというのがここでの意見です。正解ですらないものを「正解」と言っているのですから。
正解を考えなくて思考してアイデアを出せるかですが、これは答えというか、僕は出来ます。あとなぜできるかですが、僕ができるからということもありますが、僕の思考法に「正解」はセットされてないからです。また正解を考える価値は全くありません。
ではアイデアだけの話かというと、そもそも正解なんてないことが多いわけですから、僕の考え方次第がそもそも疑っているし、信頼できる部分はどこかで、そこがあればいいなくらいです。ないことのほうが多いですから。
というわけで、正解を考えなくても、感情や面白さなどの物差しがあれば誰でもアイデアは考えられます。ものさしを得るのが難しいかもしれませんが、思ったよりも手軽にまたは誰でも手に入れられるものではないかなと。そういう意味ではアイデアには希望はありますが、正解には希望も何もなく固定的な決められたものでは限界があるんだろうなと。
ちなみに、理論や理屈を否定するわけでなく、それはその仕事があるので、実践としては統合していくのが良いですね。これらは発散の話で、収束するときに現実に寄せるので、ここでは本来の「正解」が必要です。ただそれは社会の認知や理解をしているという意味で、社会的にどうか、自然かどうか、実現できそうかという意味でのかなり狭い意味での部分的な「正解」です。これも正解と言わなくてもいいわけです。
今回は言っていませんが、正解を探したくなると、発散せず、発散行為を否定したり、無駄だと思ってしまうということです。効率的ですからね。そして、収束だけするので、未発散領域で絞るので見たことあるようなものしかないし、それは自分が思考していない=発散していないからですね。これらがまさに正解思考であり、発散=間違える思考であり、収束は絞り込みで現実性を考えるというところとなると。
正解思考でいくと、発散が効率的ではない故に否定できるわけです。当然これは僕は批判するのであって、そうしろでなく、それではアイデアは出せないと。ここを「騙されたと思って」なんていってもしょうがないので、正解思考のロジックで発散がアイデアをだせるのはなかなか難儀なんですね。だから、違和感発想法とか僕は言っていますが、それですらなかなかという感覚ですね。ふんばります(笑)