国語講師のひとり言「国語で学ぶのは書き言葉の日本語」

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コラム
『個別の授業で面と向かっては言いにくい話をコラムにしています。ですのでタイトルも「ひとり言」。日々の指導で気づいたあれこれを綴ります。』
私が講座で担当している科目は「国語」です。

決して「英語」ではありません。

日本で教えていて「国語」ですから、これはすなわち「日本語」とイコールでしょう。

ただひと口に「日本語」と言っても、これには大きく分けて2つあります。

「話し言葉としての日本語」「書き言葉としての日本語」ですね。

そして私が教えているのは、「話し言葉としての日本語」ではありません。

なぜなら、誰だって小学生にもなれば、すでに話す方の日本語は完ぺきだからです。

目上の人に対する適切なしゃべり方、初対面の相手にもよくわかる理路整然とした話し方…こういうのまでマスターしているとはもちろん言いません。

話す内容はまだまだ未熟かもしれませんが、文法、発音など言語の基本的な部分は早い段階で完成されています。

ですから、話す方の日本語については、私ごときがあらためて付け足す部分などひとつもないことになります。

教科としての「国語」が難しいのは、それが「書き言葉としての日本語」だからなんですね。

ひらがな・カタカナはまだいいとして、そこに大量の漢字が加わりますから、文字を覚えるだけでひと苦労。

文法だって、ふだんあまり意識しない「主語・述語」から始まり、「話し言葉としての日本語」とはずいぶん勝手が違います。

おまけに読まされる文章は、言語芸術である小説や詩のたぐい。

詩は本来朗読して味わうべきものでしょうが、中学受験で出される詩は、初めから書き言葉として書かれ、そう読まれることを想定した現代詩ですからね。

論説文では、言葉そのものが考察の対象となることさえあります。

具体的な話ならまだなんとかついて行けていたのに、書き言葉を駆使した抽象的な話が始まって、もう降参お手上げだ…そんなケースもありそうです。

ちなみに書き言葉の原点は文字ですが、無文字社会では100階建てのビルは作れないそうです。

ナスカの地上絵はナスカ文明(紀元前後~800年頃)の遺産で、ナスカ文明の人々は文字を持たなかったと言われています。

ナスカの地上絵はいまだにもてはやされていますが、文化人類学者の西江雅之さんによれば「あんなのは簡単」で、だから文字なしでも行けたんでしょう。

…話がそれましたが、言いたいことは「国語は書き言葉の日本語しか扱わない」教科であるということ。

いまだすっかり解明されてはいない母語習得のメカニズムとは異なり、「気づいたら話せるようになっていた」などという"奇跡"とは無縁です。

さんざん苦労して字を覚え、イディオムに慣れ、抽象語を理解し、多読を通して要旨把握の精度を上げる──そんな涙ぐましい努力が欠かせません。

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