国語講師のひとり言「"…いなく"はもうスタンダード?」

国語講師のひとり言「"…いなく"はもうスタンダード?」

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コラム
『個別の授業で面と向かっては言いにくい話をコラムにしています。言いにくいワケは、生徒さんは1人1人状況が異なり、一般論のアドバイスがつねに当てはまるとは限らないからです。
ですのでタイトルも「ひとり言」。本コラムの内容に有効性があるかと問われれば、私自身の中学受験や長年の指導で実践を心がけ、結果を出してきた事実を挙げるのみです。』

仕事柄、小学生が書いた記述答案を見せてもらうことは日常茶飯事です。

作文や小論文ではありませんから、大事なのはあくまで内容。表記や文章表現に関する指摘は最小限にとどめています。

ところが最近、小学生がよく使う言い回しの中にどうしても気になる表現が。

それが記事のタイトルにも挙げた「…いなく」という言い回しです。

これだけではちょっとわかりにくいと思うので、1つ実例を紹介しましょう。
「わたし」は辞書を引きなれていなく、国語が苦手であることをこの時点で読者に分かってもらうことが話の展開上必要だから。
こういう使い方ですが、少なくとも私には違和感があります。

「辞書を引きなれておらず」とした方が良いのでは、と感じずにはいられません。

しかしことばは時代とともに変わりゆくもの。

私が尊敬する言語学者の西江雅之氏は、かつて「ことばの乱れはアタマの乱れ」と喝破しました。

したり顔で「ことばの乱れ」を指摘する知識人に対して、「乱れているのは、あなたがたのアタマの方ですよ」とはっきり通告したわけです。

最近はいわゆる「ら抜き言葉」をやかましく指摘することもだいぶ減ってきましたよね。
さっき親子丼食べたけど、ケーキならまだ食べれるよ。
はい。まったく違和感ありません。

しかしひと昔前の文法の本に従うなら、「ケーキならまだ食べられるよ」が正しいとなるでしょう。

「れる・られる」は、受け身・可能・尊敬・自発の4つの意味を持つ助動詞ですが、可能の意味のときだけ見事にら抜きに変わってきた経緯があります。

まさに「乱れ」などではなく「変化」、それも可能の意味限定という規則性が感じられる変化なのがわかる良い例です。

だとすれば、生徒さんが書いてくる「…いなく」にもとうぜん寛容であるべきですが、ただ問題はそこで終わりません。

なぜなら学校という場は、ことば遣いに関してきわめて保守的なのが通例だからです。

しかも私が指導しているのは、学校の活動の中でもとりわけ厳粛な、"入試"に備える勉強。

選択肢問題はいざ知らず、記述問題の採点はさすがにAI任せとは行かないでしょう。

採点官の目に映る「…いなく」は、くだけた表現と受け取られかねないのでは…。

モヤモヤしたままで、私の中でもどう指導すべきか答えは出ていません。

ただものすごくぶっちゃけて言えば、「…いなく」と書いたから大幅な減点になるというものではないことも重々わかっています。

最後に、昭和生まれの私にとってジェネレーションギャップを感じた衝撃の事実を1つ。

一番最初に引用した以下の文。
「わたし」は辞書を引きなれていなく、国語が苦手であることをこの時点で読者に分かってもらうことが話の展開上必要だから。
これはじつは、生徒さんが書いた記述回答ではありません。

出典はNN早稲田中オープン模試で、その設問の1つにあった選択肢の中の文なんです!

やっぱり世間は、もはや「…いなく」がスタンダードなんでしょうか。
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