現代における漢詩の詩風・詩法観の相違について

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 中国における詩作の歴史において、唐代に近体(今体)と呼ばれる詩体が確立して古体も含めて隆盛を極め、それを受け継いだ宋代にはまた独自の理知的な詩風が盛んだったことは大抵の漢詩史に書かれている。さらに元明以降に、唐代の詩風を真似るか、それとも宋詩派になるか、はたまた折衷派を志向するかといったことが時に論争を伴いつつ進展していったこともやはり概説書の類に記されている事柄である。そしてそれは江戸時代以降の日本の文人世界においても同様であったことは、やはり日本漢詩文の概説書類に書かれてある。
 尤も、近代以降は唐詩派か宋詩派かといったような形式的な区分けや詩客ごとのえり好みはあまり見られなくなり、またいずれかの優劣を論うようなこともなくなったように見える。しかしそれでも皆無ではないようだ。
 例えば、太刀掛呂山『漢詩作法入門講座』(名著普及会、昭和60年)の中での孤平について論じている箇所を見ると、井土霊山の荻生徂徠の詩風に対する称賛を否定的に論じて「(徂徠の作品は)京都や江戸の詩がまるで長安の大道で、完全にシナ風の模擬詩ばかりなので失望して見ぬことにした。」云々とある(262頁)。
 徂徠の詩について太刀掛はこれ以上何も述べずに、本題の孤平について徂徠門下の太宰春台の所説を経由して述べている。
 太刀掛はあくまで「シナ風の模擬」に否定的なだけであるから、明の古文辞派(復古派)は認めていたのかもしれない(李何李王については何も語っていない)。尤も、中国人が過去のある時代の作品を模擬するのは構わないが、日本人はそれをすべきではないと考えていたとしたら、それはおかしいであろうが。
 私は明の復古派も日本の古文辞派も結構好きなのだが、一方で詩作する際のお手本として宋詩や公安派の作品を忌避するといったこともしていない。
 唐詩と宋詩とでは俯瞰的に見ると異なる特徴を有していることは中国文学史の概説書で説かれている通りであろう。しかし宋詩派あるいは反復古派が唐詩風の作品を一切作らないかというとそういうわけでもない。また、日本の宋詩派が「シナ風の模擬」を一切しないということもあるまい。
 宋人某の詩を換骨奪胎して田舎の風景や何気ない日常の出来事を描いたところ、偶々それが「日本人らしい詩」に見えるということもあるだろう。
 太刀掛は明言していないが、日本の漢詩人には日本人らしい詩、日本人の気質に合った詩の作成を心掛けるべきといった言説が間々見られる。そういう人が屡々高評価を与えるのが頼山陽である(この点は太刀掛も共通する)。私も別に山陽を忌避しないが、山陽の詩に中国人の作品の字句からの流用が少ないかどうかはきちんと調査する必要があろう(盛唐詩の割合が圧倒的ということはないにしても)。有名な『日本外史』は散文であり、修辞上の簡潔さが詩より劣るため(例えば官職名を含む固有名詞の扱い)いかにも日本風の漢文に感じられるだけかもしれない。
 前述の太刀掛の所論に戻ると、京都や江戸を長安のように描かない方がいいというのは、リアルな都市描写を心掛けよということであろうか。それはそれでいいと思うが、反古文辞風の作詩も恐らく時間が経てば千篇一律の傾向を有してくるのではないか。
 私は太刀掛とは詩風の好みを異にするものの、作り手が自分の好き嫌いを予め表明しておくことは悪くないことだと思っている。
 私は近い将来AIが漢詩を作れるようになる日が来るのではないかと考えている。少なくとも絶句については、そういうソフトを作ろうという技術者がいれば割と簡単に完成するのではないかと無根拠ながら推測している。
 もしそうなった場合、人間にできることは何であろうか。漢詩を実際に作る前に多くの作品に目を通し、自分の「好み」をはっきりさせておくことではないだろうか。そしてたとえAIより下手な出来であっても、自分の好みの詩風に仕上がることを優先させればいい。
 そのためには荻生徂徠にせよ頼山陽にせよ、彼らの方法論に関する研究をより進展させる必要があるだろう。
 ところで、太刀掛呂山のリアリズム志向とおぼしき文章に対して埒もないことを論ったのは、私自身が余りリアリズム志向ではないからに他ならない。
 例えば中国近代の文学革命の旗手であった胡適は、「文学改良芻議」の中で俗に八不主義と呼ばれる次のような主張を展開している(太刀掛の詩風・詩論とは関係はないが)。
  ①内容のあることを言う
  ②古人の模倣をやめる
  ③文法にかなう文章を書く
  ④理由もなく深刻がらない
  ⑤陳腐な常套語はできるだけ避ける
  ⑥典故を用いない
  ⑦対句を考えない
  ⑧俗語俗字を避けない
 私は大体において、漢詩を作る際③を除いて八不主義の逆を行くことを心掛けている。また、③にしてもあくまで日本語の文法に従わず漢詩文の語法に従うという意味であり、胡適が言う意味での「文法にかなう」云々とは意味が違う。
 そこで改めて、「文学改良芻議」を逆手にとった私なりの作詩観(漢文を書く場合でも同様)を開陳しておこう。日本と中国の差はあれども、我々は近代的文学観に慣れてしまっており、中国古典文学的手法に馴染みは薄い。現代日本と近代黎明期の中国とでは状況は大きく異なるが、文学革命を目指す徒輩が目の敵にした方法が、伝統文学的手法を身につける上で却って役に立つのではないかと考える次第である。
  ⑴現実に即した内容でなくとも構わない
  ⑵できるだけ古人を模倣せよ
  ⑶古漢語(文言文)の文法に従う
  ⑷理由がなくても深刻ぶった詩を作って構わない
  ⑸陳腐な表現の使用を恐れるな
  ⑹典故を極力用いよ
  ⑺対句使用を常に念頭に置け
  ⑻俗語俗字を極力避けよ
 この内、⑶や⑸や⑺は日本人からすれば異論が出にくいのではないかと思う。特に⑸は、初心者が漢詩を作るのにいきなり独創的な内容にすることができるはずもなく、詩語表頼みにならざるを得ない以上認められるべき主張であろう。
 さらに、律詩を作るのに対句が必要であることは言うまでもないが、そもそも詩語表や対句用例集は概ね先人の作品から採られているのであって、作詩者は知らず知らずに典故を入れた内容になっている可能性があり、⑹・⑺を否定するわけにもいかないであろう。
 また⑻は⑶とも関連するが、要するに現代中国語的語彙をできるだけ避けよということである。なまじ中国語に精通していない人にとってむしろ受け入れやすいであろう。
 残る⑴・⑵・⑷は異論の生じるところかもしれない。但し⑵は⑸に通じるところがある。また、前述した詩風に関する自らの「好み」をはっきりさせておくという点とも関係する。つまり、主としてどの時代の「古人」をお手本にするかはっきりさせておくということである。
 最後に⑴と⑷だが、理由なく深刻ぶるというのは現実に即した行動ではないと解釈するとすれば、⑷は⑴に包摂されることになる。そもそも①の「内容のあることを言う」というのは、胡適に言わせると文学には情感と思想がなければならず、声調や字句にのみ汲々とするのは誤りだということである。散文に限れば胡の言うことも分からなくはない。しかし、日常生活を送る上で必ずしも必要のない詩を作るという作業を古人を模倣することによって遂行しているとすれば、その時点で「思想」はそこに含まれているはずである。加えて、古人を模倣することは歴史好きにとっては情感の発動そのものである。何か非日常的な出来事ー旅行に行った・子供が生まれた・本や競技を見て感動した等々ーによって心を動かされた時だけ詩を作るべきだと考える必要はない。
 漢詩を作るに当たって、ともすれば日本人初心者は大袈裟な修辞や事実と少しでも違う事柄を詠むことを躊躇する傾向がある。しかし現代日本人的感覚で漢語の大海から言葉を見出そうとしてもなかなかうまくいかないことの方が多いのではないかと思われる。古典的思考に従うという意味において、初心者は上述の「反八不主義」を念頭に置いて漢詩を作ることを試みてはいかがであろうか。
【参考文献】
荒井健・田口一郎訳注『荻生徂徠全詩』(平凡社東洋文庫、2020年~未完)
揖斐高『頼山陽詩選』(岩波文庫、2012年)
増田渉編『中国現代文学選集3 五・四文学革命集』(平凡社、1963年)
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