作品サンプル

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小説
出品サービスのサンプル用に書いた1800文字程度の短編です。

あたしの居ない世界

今日は8月16日の金曜日。

昨日は夏らしく台風がやってきた。しかも数年に一度の大型の台風だったようで、まさに嵐がやってきたのだ。
―――もともとここら辺りは川も近い。少し雨が降れば川は簡単に増水する。古い家の中は雨で水浸し。柱は水を吸って乾いたぞうきんのような悪臭を放つときた。代々家の者が受け継ぎ、両親と共に過ごした家であるとは言え、こんな家では虫も簡単に出てくる。苦労だったなあ?

曲げるたびミシミシと鳴く腰に苛立ちを覚えつつも、玄関と勝手口の土嚢を除け、外に水が流れていく道を作る。流れていく水は幾度となく水溜まりを作り、夏の匂いを嗅ぐわせていた。チリンチリンと、夏の鈴を鳴らす風は生暖かく、とてもではないが...とてもではないのだが、額の汗を乾かすのに不十分だ。止んだ雨が今もなお空気を飽和させているのだ。
―――こんなに雨が降ってはしばらく乾かないな。どうしたものやら...

ぞうきんの家に一日中、こんな年寄りが留まっていては腐ってしまう。外で聞こえる、近所のばあさんの声がした。それに誘われるように、あのじじいも行くのだ。

家の敷地外に出ると、ややでこぼこなアスファルトが熱を持っている。老いた目を凝らさなくてもわかる、黄色と黒の大きい甲虫。顎を弱弱しくカチ、カチ、と開閉していることから、死にはしていない。時間の問題なので、せめて一人で安らかに逝かせてやろうとこの場を立ち去った。この爺もあと何度の夏で、後を追えるのだろうか。

「お、修造さん。どうしたんだい?外に出るなんて珍しい。」
「ああ。私はね、昨日の嵐で家が臭いんだ。避難だよ避難。」
「そうかい。うちも家はいいんだけど、ほら、この前言ったろう?庭でトマト育ててるって。」
「ああ言ってたね」
「実がまだまだ生ってたんだけど全部だめんなった。腐ってて虫が湧いとるよ!」
「もったいねえなぁ。」
「もったいねぇんだ。」

誰だったかなあの人は。もう顔もわからん。

あれだけ緑が多かった道沿いの田んぼも、今じゃ泥水をかぶって醜い有様だ。首に布を巻いて麦わら帽子を深々と被り、それでも眩しいのか目を細めながら稲を一つずつ面倒見ていく。嵐が明けた昼から、よくやるもんだと感心するばかりである。爺はそれを横目で見るが、ばあさんに話かけることはせず、またまっすぐ道を歩んでいく。

爺はコンビニに辿りついた。この田舎では珍しく、家から徒歩で行ける距離にある。浸水していても店はやっているようで、商売熱心なことこの上ない。
この爺の目的は氷菓だ。具体的にはアイスキャンデーと呼ばれる棒アイスだ。しかも抱えているそれは三本。この爺、あたしが何度口を酸っぱくしてもアイスキャンデーはいつもたくさん食いやがる。年寄りがそんなに食ったら何かの拍子に逝っちまうよ。あたしにも寄越せって言ってんのにさ。

名残惜しそうに涼しい店内を出る。余韻が残っているうちに買った三本のうちの一本の袋を開き、口に突っ込んだ。すぐに一本目を食べ終わり、二本目も口に突っ込む。そして口に加えたまま、三本目の袋を開け、アイスキャンデーをあたしの方へ突き出してきた。

「まったく、不器用で愛想のない爺よな?」
「京子、帰って来とったんならすぐに顔を出せい。いつもそうやって祖母ちゃんの真似しよって。」
「ごめんねお祖父ちゃん。でも、約束だから。」
「いつまでも死んだ祖母ちゃんの真似しとらんで、盆に父ちゃん母ちゃんと一緒に帰って来んかい。」
「約束だから。」

はァ、と溜息。

「お前が祖母ちゃんっ子で俺は悲しいよ」
「ごめんねお祖父ちゃん。」

わたし、陣内京子はお盆休みには絶対帰ってこない。祖母、岩舘京子との約束を守るために。
「で?その約束ってのは今度こそ教えてくれるんか?」

『あたしね、爺とはお見合い結婚だったけど、一目惚れなのよ。爺には言ったことないのだけれどね』
「んーん。」
「もう祖母ちゃんは居ないんだから、言ってくれてもよくないか?」

『京子はあたしと本当によく似ているからね。祖父ちゃん、取っちゃだめよ?』
「わたしはお祖母ちゃん子なの。約束は絶対に守らなきゃ。」
「最近の若いもんは本当によくわからんな。」

『祖父ちゃんが死ぬまで、あたしの代わりに見てあげなさいな』
「もしかしたらお祖父ちゃんはお年寄りのこともわからないかもね。」
「何がわからないと言うんだ」
「お祖父ちゃんはこれからもずーっと、幸せ者だってことだよ!」
「ついに俺も年寄り扱いか。」

盆は帰ってくるのだ。終わったら、わたしが会いに行く。これならいいでしょ?
『いいねぇ。こいつは幸せ者だわな。』
「俺が幸せ者だなんて、わかりきったことを今更言うなんぞ、青い、青いわっ」

サンプルは小説ジャンルごとに追加していく予定です。気になった方はぜひお気軽にご相談ください。


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