いつくしみ深き 友なるイエスは、
罪とが憂いを とり去りたもう。
こころの嘆きを 包まず述べて、
などかは下(おろ)さぬ 負える重荷を。
いつくしみ深き 友なるイエスは、
われらの弱きを 知りて憐む。
悩み悲しみに 沈めるときも、
祈りにこたえて 慰めたまわん。
いつくしみ深き 友なるイエスは、
かわらぬ愛もて 導きたもう。
世の友われらを 棄て去るときも、
祈りにこたえて 労りたまわん。
長々と引用いたしましたが、これは『讃美歌』312番という讃美歌で、おそらく一番人気があって、一番有名な讃美歌ではないかと思います。クリスチャンでないかたの、ホテルのチャペルの結婚式でも、よくこれを歌うと思います。これはクリスチャンのあいだでも絶大な人気を誇る歌です。私はいわゆる「小さいころから教会に行っていました」というタイプではなく、20歳のときに初めて教会というところに行った人間です。この歌は、「讃美歌でない歌詞」でメロディを知っていたのですが、教会に行くようになって「じつはもともとこの歌は讃美歌であった」ということを知った次第です。
あるとき、私より若い牧師とその集まりの会話で「聖書の登場人物の誰と友達になれるだろう」という話題になったことがありました。「ドルカスとは友達になれそう」というかたもおられました。「ドルカス」とは聖書通読マニア(?)にはおなじみの新約聖書使徒言行録の9章36節以下に出て来る女性です。私は「イエスさまは?」と申し上げました。この意見にはさまざまな反応がありました。「たしかにイエスさまは友達だ」とおっしゃるかたと「イエスさまが友達というのは何だか恐れ多い。『イエスさまファンクラブ』ならわかるけれど」というかたもおられました。でも、この歌によると「いつくしみ深き友なるイエス」すなわち、イエスは友達なのです。聖書のなかでもイエスは「わたしはあなたがたを友と呼ぶ」(新約聖書ヨハネによる福音書15章15節)と言っています。イエスは友達なのです。私の知人に将棋の藤井聡太さんの友達だという人がいます。それはなかなかすごいなあと思ってしまいますが、なんとわれわれは、世界的超有名人であるイエス・キリストと友達なのです!
「この味がいいね」と君が言ったから七月六日はサラダ記念日
有名な俵万智さんの歌です。私は2020年に1年間だけツイッターをやっていたことがあります。その、まさに7月6日に、あるツイートが流れてきました。作者の俵万智さんによるツイートでした。どういうツイートであったか、だいたい覚えているわけですが、ウィキペディアに詳細が載っていることに気づきましたので、ウィキペディアから引用しますね。「2020年7月6日には俵がTwitterで『サラダ記念日』の一首を引用した上で、『今は「いいね」の数を競うような風潮があるけれど、これはたった一つの「いいね」で幸せになれるという歌です』とツイートし、18万の『いいね』が付いている」。つまり、このサラダにはひとつしか「いいね」がついていないのですが、じつは理解者ってひとりでいいのかもしれません。
「あなたがいれば あなたがいれば 陽はまた昇る この東京砂漠」
これもまた有名な歌です。私はこの歌に詳しくありませんが。あるとき、ある年上の友人が部屋飲みでこの曲をかけたのです。彼は「いい歌だなあ。『あなた』がひとりいてくれたら、この東京砂漠を生きていけるのだからなあ!」と言っていました。やはり究極的に理解者はひとりでいいという話かもしれません。
マルセル・モイーズという20世紀前半に活躍したフルート奏者がいます。「フルートの神様」と呼ばれています。皆さんの多くも、たとえば中高時代にやっていた部活で、「その道の世界的な超人」というのがいたことを思い出されるかもしれません。フルート界ではそれがモイーズだと言えると思います(ほかにもすごいフルーティストはいますけれども)。学生時代に読んだモイーズの言葉で、次のようなものがあります。記憶で引用します。
「100人の人がいて、ひとりがわかってくれる。それで充分だ」。
学生時代の私は、大きな衝撃をもってこの言葉を受け止めました。モイーズと言ったら世界中のフルート吹きから尊敬されているフルート界の巨人です。そのモイーズが、「真の理解者は、100人のうち1人で充分だ」と言っているのですから。
そこで、ようやく先ほどの讃美歌に戻ります。「世の友われらを棄て去るときも 祈りに答えて労りたまわん」。世の友に棄て去られたら、どれほどつらいでしょうか。しかし、この歌は「私はイエスさまひとりに分かってもらえたら、それで生きていけます」という歌です。やはり、真の理解者は、究極的には「ひとり」でいいのかもしれません。
北九州市の奥田知志(おくだ・ともし)牧師がよく言っている話で「問題解決型」と「伴走型」の話があります。いきなり難しそうな言葉が出ましたが、ちょうどこの讃美歌を例にとるのがふさわしいように思えますので、ここでこの話を出します。奥田さんと奥田さんが理事長を務めるNPO法人「抱樸(ほうぼく)」は、長いことホームレス支援をはじめ、困っている人を助ける活動をしてこられました。そのなかで「問題解決型支援」も大切だけれども「伴走型支援」の大切さに気がついてこられたそうです。たとえば、食べるもののない人には食べ物を。住むところがない人にはアパートを。それはとても大切なことです。しかし、まさにその奥田さんの本に、元ホームレスの北野孝友さんというかたの書かれた文章があり、次のように書かれています。「ホームレスをしていたときは、食べるものも心配でしたが、人と話すことがほとんどないことがしんどかったのです」(奥田知志『いつか笑える日が来る』より)。人は「食う寝るところに住むところ」がなければ生きていけませんが、「話す人がいない」というのはそれ以上にしんどいことであるのが、この北野さんの文章からわかります。
イエス・キリストは「奇跡的な」人です。お酒の足りなくなった結婚披露宴で水をぶどう酒に変えた話から始まり、目の見えない人を見えるようにし、足の立たない人を立たせ、重い皮膚病(規定の病、ツァラアト、らい病)の人を癒やし、死人をもよみがえらせました。これは「問題解決型」と言えましょう。ところが、さきほどの讃美歌には、このようなイエスの「奇跡的な」姿はまったく出て来ず、ただ「イエスさまは友達ですよ」「イエスさまはともにいてくださいますよ」「それこそぐちも聞いてくださいますよ」ということを言っている歌です。「伴走型」です。ともに走ってくれるイエス。この歌の絶大な人気は、みんな無意識に「問題解決型」よりも「伴走型」のありがたみに気づいているということではないでしょうか。
これも最近、私が思いついた例です。のび太は学校では先生に叱られ、ジャイアンにはいじめられて、家に帰ってドラえもんに不平不満を言います。そこでドラえもんはポケットから何か「奇跡的な」道具を出すわけですが、じつはのび太にとってドラえもんの真のありがたみは、「ドラえもんは奇跡的な道具を出してくれる」こと以上に「ドラえもんはのび太のぐちを聞いてくれる」「家に帰ればドラえもんがいる」ということではないだろうか。この話をある小学生にしたら、私の言いたいことはスッと通じました。奥田牧師の「問題解決型支援より伴走型支援」という難しい言いかたでなくても、このたとえなら、小学生でも理解できる、と感じています。
(ドラえもんがなんの道具を出さず、ただ、あぐらをかいてどら焼きを食べているだけのネコ型ロボットに過ぎなかったらどうなるか。少なくとも漫画としては成立しなくなると考えられます。あるいは、のび太にとってドラえもんがいなかったらどうなるか。彼はママもけっこう厳しく、兄弟もいないし、不平不満を言う相手がいなくなってしまいます。やはり、ドラえもんの最大のありがたみは、道具を出すこと以上に、「のび太のぐちを聞いてくれる」ところにあると思えてなりません。このような例は、その目で世の中を見ていると、たくさん見つけることができます。)
先ほどの「サラダ記念日」「東京砂漠」「マルセル・モイーズ」の例と並んで、のび太にとっても、「ドラえもん」という「理解者がひとり」いればそれで充分ではないか、という例であるようにも思えます。私たちはイエスさまひとりの「いいね」で生きていけるのです。
「自立とは依存先を増やすこと」という話もよく聞くようになりました。たしかにそうです。なるべくたくさんの人にちょっとずつ助けてもらうというのは名案です。ある人は「甘えの分散」と言っていました。ある障害を持った女性の知り合いの話ですが、その人は彼氏1本に強烈に甘えていて、それで彼氏に別れられたときダメージが大きく、それ以来、なるべくたくさんの人にちょっとずつ甘えているそうです。決してその話と矛盾する話を書いたつもりはありません。でも、もしかしたら、真の理解者というのは、ひとりいれば充分なのかもしれません。
(もろ宗教まる出しの記事を書いてしまいました。このような記事がココナラのブログで果たして皆さんにお読みいただけるのかわからないとは思いつつ、せっかく書いたので投稿いたします。なお「『発達障害クリスチャンのつぶやき』にそっくりではないか」と思われたかたもあるかもしれませんが、あれは私自身ですから、同じような文章を書くのは当然ですよ。)