初めて聖書をお読みになるかたへのガイダンス

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 このような記事に需要があるのかどうかわかりませんが、初めて聖書をお読みになるかたへのガイダンスを書こうと思います。何かのお役に立ちましたら幸いです。
 最初に、自己紹介をいたします。クリスチャン(キリスト教信者)です。聖書は、通して17回、読んだことがあります。私は信者になって21年がたちますが、「聖書を通して17回、読んだことがある」という人に出会ったことはありません。それくらい「17回」は多いです。(あとで詳しくご説明いたしますが、「旧約聖書続編」を含めれば7回で、新約聖書のみならば34回です。)さらに、これも少しあとで述べるつもりですが、聖書にはさまざまな翻訳があります。私は世の代表的な日本語訳聖書は最低1回は通読しています。たとえば、『新共同訳』4回、『聖書協会共同訳』2回、『口語訳』3回、『新改訳2017』1回、『新改訳(つまり「2017」の前のバージョン)』1回、『フランシスコ会訳』1回、『文語訳』1回などです。新約聖書のみであれば、英語の聖書も1回の通読経験があります(Revised Standard Version)。いきなり専門用語の羅列でごめんなさい。ようするに、私はある程度、聖書には詳しい、ということ、とくに「聖書の通読」ということにかんしては信頼していただいていいと思いますよ、ということのためにこのような自己紹介をしたまでです。聖書って、クリスチャンであっても、一生に1回、通して読むかどうか、というのが普通だと思います。(ただし、私は聖書学や神学は専門ではなく、あくまで一介の「聖書オタク」に過ぎません。)

 それから、なるべく、宗教の教義の押し売りにならないように気を付けながらこの記事を書こうと思います。皆さんが、どのようなニーズで聖書をお読みになりたいのか、私にはわからないわけですが、少なくともAmazonのレビューなどを見ておりますと、聖書を読んでおられるかたは、意外とクリスチャンでないかたも多いことに気づかされるわけです。私のあるクリスチャンでない友人は、中学の社会の先生ですが、「勉強のために」聖書を全部、読んだそうです。それはたとえば私が勉強のために『古事記』を全部読むくらい「偉い」ことです!(かく言う私も、じつは『コーラン』の日本語訳の通読の経験なら1回だけあるのですが…。)とにかく、宗教の押し売りにならないようにだけ、気を付けて書きますね!

 お手元に聖書があって「これを読みたい」と思っておられるかたは、それをお読みになればいいわけですが、「聖書を読みたい。まずは本屋さんかAmazonとかで買うところから」というかたのために、「まず何を買うか」というところから書きますね。(すでに聖書をお持ちのかたは、この記事、少し先まで飛んでだいじょうぶですよ。)まず、リアルの本屋さんに行ったときの場合を書いてみますね。そもそも「聖書って普通の本屋さんで売っているの?」という疑問があるかもしれませんが、普通の本屋さんで売っております。手に取ってみると、大小さまざまな聖書が売っています。翻訳もさまざまであることに気がつかれたかと思います。さきほど私は、だいたい代表的な日本語訳聖書は最低1回は通読していると申しました。聖書というのは、旧約聖書はヘブライ語から、新約聖書はギリシア語から翻訳されており、日本語の聖書というものは「翻訳もの」なのです(当たり前のことを書いてすみません)。しかし、どの聖書の翻訳も「原典に忠実」とか「読みやすい日本語」とか「最新の研究の成果を反映」などとうたい文句が帯に書いてあって、どれを選べばよいのか、迷われると思います。ここで、私が、どの翻訳を選べばよいのか、思い切ってズバッと断言してしまいますね。日本聖書協会の『聖書 新共同訳』を選びましょう!理由は、私もたくさん聖書の通読をして参りましたが、これが最もスタンダードな感じがすることと、実際、世の中の教会で最も多くの人に読まれている聖書もおそらくこの『新共同訳』だからです。もっと新しい翻訳の聖書も出ており、私はそれらも読んでおりますが(『聖書協会共同訳』を読んでたくさんの誤字脱字を見つけた話は、以前、このココナラブログでも書きました。私の「校正」の賜物は間違いないと思います。どうぞ皆さん、「校正」はお気軽にご依頼ください!きっとご満足いただけると思います!)、どうもまだ評価がいまいち定まっていなかったり、ひどいのはまだ誤植や日本語の誤りなどが残っているという状態なのです。『新共同訳』の評価は定まっています。そのようなわけで、お求めになる場合は日本聖書協会の『聖書 新共同訳』をおすすめする次第です。

 さて、つぎに気になるのが、その聖書の「ぶ厚さ」と「値段の高さ」だと思います。これについても私なりのおすすめの方法がありますので、少し私のちょっと饒舌な文章にお付き合いください(笑)。まず、なんでそんなにぶ厚いかと言いますと、あれはそれでもかなりがんばって「うすく」しているのです。通称『岩波訳聖書』と言われる、岩波書店から出ている学術的な聖書の翻訳がありますが(私は岩波訳も2回の通読の経験があります。学術的なことがわかったとは言いませんけれども)、あれの分冊版は、大学の「線形代数」(理系の学生さんが大学1年生で習う基礎的な数学です)の教科書の、だいたい20冊ぶんになるのです!どれだけの分量でしょうか!それを、いわゆる普通の聖書は、「辞書」とか「薬の説明書き」など(小説『舟を編む』参照)に用いられるような、極めてうすい紙を使い、特殊な製本をして、ようやくあれだけのサイズにおさめているのでありまして、だからあんなに高いのです。加えて言いますと、大学の線形代数の教科書を1冊2,000円としますと、その20冊ぶんならば、4万円になるはずです!じつは、聖書というものは、「あんなにうすくて、あんなに安い」ものだったのです!「聖書って、こんなにぶ厚くて、しかも3,500円もするなんて、高いな」と思っておられたかもしれませんが、じつはそのようなことがあるのです。

 それにしてもやはり「ぶ厚い」し、「高い」とお感じになるのは確かだと思います。とくに、大きめのサイズのものを買うと重くてがさばりますし、小さめのを買いますと、今度は字が小さすぎて読みづらいわけです。私も情けないことにだいぶ老眼がすすんでおり、いまや聖書はめがねを外して、顔を聖書に近づけながらでないと読めません。そこで、また私からの思い切った提案です。「新約聖書だけのやつを買いましょう!」。聖書というのは、おおざっぱに言って、「旧約聖書」と「新約聖書」から成り立っています。分量はページ数にしてだいたい3:1で旧約聖書のほうがずっと多いです。しかし、旧約聖書は「イエス以前」の話であり、「聖書の主役」ではないかと思われるイエス・キリストが出て来るのは新約聖書であり、有名な話もだいぶ新約聖書に集中しています。のちに述べたいと思いますが、聖書を読むなら挫折しないためにはまず新約聖書から読んだほうがいいというのが私の考えです。というわけで、「新約聖書だけ」というものを買うことにしますと、先述の通りぶ厚さは約4分の1になり、ちょっとした文庫本のようなサイズになりますし、お値段もほどほどに安くなるわけです。(「新約聖書だけ」の値段っていくらくらいだったかな…。少なくとも私は学生時代、口語訳聖書の新約だけというのを、古本屋さんで50円で買ったことがあります。サイズもとてもコンパクトでした。)すると今度は「新約聖書 詩編付き」というのを買うかどうかで迷われると思います。「詩編」は旧約聖書の一部ですが、よく読まれるので、「お得感」を出すために(?)新約聖書に「詩編」をつけくわえたものもよく売っているのです。これはどちらでもいいと思います。

 もちろん、「やはり買うからには聖書全体を買いたい」と思われるかたもいらっしゃるでしょうから、それはお任せいたします。ただし今度は「旧約聖書続編つき」かどうかで迷われると思います。以下はおおざっぱな(あまり厳密ではない)話としてお読みくださいね。だいたい、カトリックとプロテスタントで、少し聖書の「範囲」が違うのです。新約聖書は同じなのですが、旧約聖書が、カトリックのほうが少し多いのです。その「カトリックでは聖書と呼んでいるけれどもプロテスタントでは聖書とは呼んでいない」範囲を、日本聖書協会の言いかたで「旧約聖書続編」と言っているのです。これも、どちらをお求めになるかはお任せいたします。ただし「旧約聖書続編」もけっこうな分量があり、およそ新約聖書の5分の4くらいの分量があると思います。ですから、全体のぶ厚さ、また値段も少し違ってきます。お任せいたします。『口語訳』や『新改訳』のようにプロテスタント向けの聖書だと、そもそも「旧約聖書続編」はございません。以上、おおざっぱな話でありまして、細かく言えば厳密ではないかもしれませんが、だいたいこんな感じです。ちなみに私のある友人が「プロテスタントは新約聖書しか読まないのだろう」と言っていました。彼はそのとき私と同じ東大生であり、しかも彼は文系でドイツ語が専門なのでした。彼に「プロテスタントでも旧約聖書を読むよ」ということを認識してもらうのは容易ではありませんでした(彼を私の当時通っていたプロテスタント教会での音楽会に誘ったとき、その教会の備え付けの聖書に旧約聖書も含まれることを確認してもらってようやくその誤解は解けました)。おそらく古い言いかたでカトリックを「旧教」と言い、プロテスタントを「新教」というところから来た誤解だったろうと思います。というわけでプロテスタントでも旧約聖書は読み、カトリックでも新約聖書は読みます!(笑)

 なかなか「聖書を買う」という話題から先に進まなくて申し訳ありませんが、もう少し続けさせてください。私自身、未経験なのですが、横書きでかなりスリムなタイプの新共同訳聖書を見たことがあるのです。そういうのでもいいかもしれないということです。そして、もっと現実味のある話をしますと、電子版の聖書です。これは私はほとんど経験がないので詳しくは書けないのですが、紙ではない電子版の聖書であれば、あんなに重いものを持ち歩く必要はなく、スマホで気軽に電車のなかでも読めるのでしょう。また、電子版の聖書は、関連する箇所にジャンプができるとか、書き込みができる等のメリットもあるようです。(もっとも「書き込みができる」のは紙の聖書もそうでして、紙の聖書は、ボールペン等で書き込みをしてもあまり後ろに染みたりしないような特殊な紙が使われているようです。だからますます値段が高いわけですけど。)電子版の聖書の値段等は知りませんが、そういうものもあるということをご紹介させていただきました。(長くなりついでに、私の唯一の電子版聖書の経験を書きますと、2016年ごろにkindleの『口語訳聖書』と『文語訳聖書』をそれぞれ99円で買ったことがあるのです。それは、著作権保護期間の過ぎた古い両聖書を、突貫工事でkindleにしたものであり、ひどい誤字脱字の嵐でした。懲りました。もう6年前くらいの話ですから、いまはもう少しマシだろうと思いますが。)

 さて、ようやく聖書を買ったというところまで来ました。つぎに「どこから読むか」という問題があります。先にも述べましたとおり、聖書は旧約と新約から成り立っており、旧約聖書は39巻の書物、新約聖書は27巻の書物から成り立っています(旧約聖書続編を除いた数です)。新約聖書から読むべし、ということは先ほども申し上げました。それで新約聖書のみのものをお求めになることをおすすめしたわけです。聖書のあたまは旧約聖書であり、天地創造物語やエデンの園の話などから始まるわけですが、これはとんでもないものを読み始めてしまうことになるのです(旧約聖書については後述する予定です)。というわけで新約からお読みになるのがいいのですが、では新約のどこから読むのがいいか、ということです。まず新約聖書の概要を記しますね。「福音書(ふくいんしょ)」と言われる、イエス・キリストの生涯を書いた書物が、冒頭に4つ、置かれています。有名な話はたいがいこの4つの福音書に含まれており、いわゆる「聖書日課」と言われる、各教派での「その日の聖書の箇所」というのにも、たいがい福音書は含まれており、「ザ・聖書」みたいな書物です。そのつぎに「使徒言行録」(これは新共同訳の言いかたです。この書の呼びかたは聖書によってさまざまです)と言われる、イエスなきあとの弟子の様子を描いた書がひとつあり、そのあと、21通の手紙が配置されていて、最後に「黙示録」というちょっとわけのわからないような話が置いてあって、それで新約聖書は終わりです。ですからまず福音書からお読みになることをおすすめするわけですが、さて4つの福音書のうちどれから読むべきか。これも、私の判断で、ズバッと書かせていただきますね。「マルコによる福音書」から読みましょう!理由としては、まずこの「マルコによる福音書」が4つの福音書のなかで圧倒的に短いのです!新共同訳聖書で40ページに満たないです。ちょっとした短い小説を読むかのようです。そして、聖書の有名なエピソードの多くが入っており、この「マルコ」1つを読むだけで、だいたいイエス・キリストの生涯は読めたことになるのです。加えて、マルコによる福音書は4つの福音書のなかで最も古い福音書であることは定説みたいです。あとの3つの福音書はマルコ福音書を知って写しているらしいです(これ、マタイやルカがマルコを写しているのは定説のようですが、ヨハネもそうかどうかは意見がわかれるみたいですので、そこは私も保留とさせていただきますね)。というわけで「一次資料に当たりたい」と思う人にもおすすめできる「最初に読むべき福音書」がマルコであるわけです。覚えかたをお教えしますね。「ちびマルコ」と言って覚えるのです。いかがでしょうか。もう覚えられましたね?世界最古のイエス伝がマルコ福音書です。

 さて、マルコ福音書を読み終えたらどうするか。じつは、もう聖書を読むのをおやめになってもだいじょうぶです。「え?」と思われるかもしれませんが、マルコ福音書をお読みになっただけで、充分に聖書に詳しくなったといえるほどなのです。「からし種のたとえ」も読みました。「5つのパンで5,000人が満腹する話」も読みました。十字架刑になるイエス・キリストの話も読みました。もうかなり聖書には詳しくなられているのです。しかし、もっとお読みになりたいかたのために、引き続きこのガイダンスを書きますね。たしかに、マルコ福音書は最も短い福音書であり、かつ、個々のエピソードについて詳しくていねいに書く傾向にあるのもマルコですので、この2点が意味することはなにかと言いますと「マルコに出て来ないイエスのエピソードはほかにもたくさんある」ということです。というわけで、マルコを読み終わってまだ聖書を読みたいというかたにおすすめするのは、残り3つの福音書をお読みになることです。とにかく最初がマルコであれば、あとの3つの順番はどれでもいいような感じですが、あえて私が指定させていただけるなら「マルコ」→「マタイ」→「ルカ」→「ヨハネ」となると思います。最初のマルコがシンプルな「昔話調」であったのに対し、最後のヨハネは「ちょっと何が言いたいのかよくわからない」という感じがするのではないかと思い、この順番を指定させていただきました。とにかく、聖書でまず読むべき書は福音書だと思います。

 さて、4つの福音書を読み終えられたとしましょう。こうなりますと、もうかなりの「聖書通」です。今度こそ、もう聖書を読むのをおやめになってもだいじょうぶだと思います。それでもまだ聖書が読みたいというかたには、つぎの「使徒言行録」をおすすめいたします。先述の通り、イエスが昇天したのちの弟子の様子を描いたものです。福音書は物語調で、しかも「一話読み切り」型でしたが、この「使徒言行録」のほうが話の単位は長めになります。

 ちょっとこのへんで聖書をお読みになるときの注意点を少し書きますね。まず「ん?」と思う話がちょくちょく出て来るのです。それは最初におすすめした「マルコによる福音書」からしてがそうです。やはり聖書というものは、新約聖書であっても二千年くらい前の書であり(そのころ日本はおそらく弥生時代であって文字がなかったですね)、あくまで「古文書」であるわけです。今なら考えられないような表現なども出て参ります。そして、「やはりこれは宗教だな」と思うこともあろうかと思います。ですから、そういうことにあまりこだわらないでお読みいただくしかないと申しますか、その辺はある程度、割り切ってお読みいただくよりないと思います。それから、聖書というものは、「ルール」というよりは「ストーリー」なのです。ある信者でない友人は「これを守って生きることはぼくにはできない」と言っていましたが、聖書というのは「ルール」というよりも「ストーリー」という性格の強い書物だ、と思ってお読みいただけたら、と思います。じつは、現代に欠けているものは「ルール」よりも「ストーリー」であるような気がしますので…というと、なんだか説教くさくなりますね。すみません。脱線を終えます。

 それで、「使徒言行録」もお読みいただいたら、もうほんとうに聖書をお読みいただくのをおやめいただいてもけっこうなのですが、さらに読み進めるとしたら、その次の「ローマの信徒への手紙」に入っていただくことになります。ここからが「手紙」のシリーズです。ここからは「福音書」や「使徒言行録」のようなストーリー性はなくなり、一気に抽象的になります。おそらく「ん?」と思うことはさらに多くなると思われます。読む順番ですが、ここまで来ると、いちいち指定するほうが面倒になって来ると思いますので、どうぞ載っている順にお読みください。いま、われわれは当たり前のように聖書を通して読んでいますが、これは「聖書通読」と言われる、聖書の読みかたとしては特殊な読みかたです。多くの本は「通読」するのが当たり前ですが、たとえば図書館では、聖書は「参考図書」のコーナーに置かれている場合があります。つまり、辞書などと同様の扱いです。辞書を頭から「通読」する人はあまりいませんよね(私の知っている人で、「辞書の通読マニア」がいますが、そういう人はまれであるはずです)。そんな感じであり、クリスチャンの多くも、「その日の礼拝なりミサなりで読まれる聖書の言葉を読んでいる」というのが実状です。それでいいのです。だからクリスチャンでも聖書を通して読んだという人は意外と少ないわけです。「ローズンゲン」と言われる「その日の聖書の箇所」を記したものが売られているらしいです。私はローズンゲンのようなものはよく知りませんが、その聖書の箇所は「くじ」で決められているそうです。つまり、聖書をぱらぱらめくって適当に読んでいるのと変わらないわけです。ですから、たまには「聖書通読」ではなく、ぱらぱらめくって適当に読んでみることもおすすめいたします。これは「一期一会」ですので、まことに聖書らしい読みかたであると言えます。たまにいいことが書いてある箇所に当たります。そのようなわけですが、とりあえずわれわれは引き続き「聖書通読」に力を注ぐことにいたしましょう。

 さて、聖書通読17回の私からのいまひとつの「こつ」を書きますね。「こんなものはいつだってやめてやるのだ」と思いながら読むことだと思います。「絶対にやめないぞ!」というような「固い意思」で読もうとしたほうが、かえって挫折すると思います。もう、聖書通読などというものは、いつだってやめていいのです。そう思って読むほうが、かえって長続きするように思います。

 さて、21通の手紙のすべてを読み終えますと、最後に「ヨハネの黙示録」というものが載っています。化け物みたいなものが出て来まして、なかなか強烈な話ではありますが、最後は堂々たる終わりかたをしまして、新約聖書は締めくくられます。ここまで読むとなかなか達成感があります。なんと、新約聖書をすべて読んでしまったのです!クリスチャンでも、新約聖書をすべて読んだという人もそれほどいないだろうという気がします。もう、平均的な信者さんよりも、よほど聖書に詳しくなっておられます。これで聖書を読むのをおやめになってもいいわけですが、さらに読みたいとおっしゃるかたのために、続いて旧約聖書のガイダンスを書きたいと思います。

 このへんで、英語の聖書が読みたくなったりするかもしれません。私もそうでした。私は先述の通り、Revised Standard Version (RSV)の新約のみ、それからNew King James Version (NKJ)の福音書のみ、そしてToday’s English Version (TEV)のこれも福音書のみ、を読んだ経験があります。そこから得られた教訓を結論から書きますね。英語の聖書のほうが、日本語の聖書よりも「不正確」なのです。RSVはそれほど違和感がありませんでしたが、NKJはかなり違和感があります。これはその名の通り、欽定訳聖書の現代版であると考えられます。また、TEVもかなりの違和感があります。NKJは、かなり「英語の聖書の翻訳の歴史」を引きずっていると考えられます。「この箇所はこう訳すものだ」という「伝統」があると、それが現代の研究によって誤訳であることがわかっていてもなかなか直せないのです。日本語の聖書にもそのような箇所はありますが、英語の聖書のほうがずっと多いようです。また、TEVは、日本の中学生でも読めるような、やさしい英語で書かれています。おそらく、元イギリスの植民地のような、英語が第二言語であるような国でも読めるくらいやさしい英語で翻訳する、という方針なのだろうと思います(違っていたらごめんなさい)。しかし、それゆえに厳密さが犠牲にされているようです。先ほどのNKJと同様のケースは英語以外の「聖書の翻訳の伝統のある言語」ではあるみたいで、たとえば読んだことはありませんが「現代版ルター訳ドイツ語聖書」というものが存在することは知っております。読んだことがないのに断定的なことは書けませんが、おそらくは「ルター以来の翻訳の伝統にのっとった聖書が読みたい」というニーズがあるのであろうと想像ができます。というわけで、英語に比べて聖書翻訳の伝統の浅い日本語のほうが、かえって正確な聖書翻訳になると考えられます。これが私の言う「概して英語の聖書よりも日本語の聖書のほうが正確」という意味です。ですから、日本語と英語を併記した「バイリンガル聖書」のようなものは、私は手を出さなくてよいと思っています。それでもお好きなかたはご自由になさってよいと思いますが、私の経験を書かせていただきました。

 さて、話を戻しまして、旧約聖書のガイダンスです。ここまでお読みになるかたを想定していなかったために、最初に「新約聖書のみ」というものの購入をおすすめしてしまいました。あらためて「聖書全体」を買っていただく必要に迫られてしまいます。そして「旧約聖書のみ」というのも売られていますが、それはあまり存在せず、また、ここではあらためて聖書全体を買ったほうがいいと私は判断いたします。ここまで来ると、おそらく「旧約聖書続編」もお読みになる可能性が高いですので、「旧約聖書続編つき」を購入なさるのが賢明だと思います。

 旧約聖書は、新約聖書に比べて、話の長さの単位がずっと長いです。まず、最初に置かれている「創世記」から、「列王記下」までがひとつの長い物語です。ですから、読む順番としては、どうしても、天地創造から書かれた「創世記」から読むしかありません。そして、聖書通読のしやすさとしては、新約よりも旧約のほうが、ずっと挫折しやすいのです。先述の、クリスチャンでない中学の社会の先生も「旧約聖書については、最初に、おおざっぱな概要を知っておいてから読んだほうがよい」と言っていました。私もまったくその通りだと思います。つまり、私は、新約よりも、旧約聖書のガイダンスのほうを手厚く書くつもりでこの記事を書き始めたのです。つまり、この記事はここから先が長い予定なのです!いま、パソコンで下書きを書いている段階です。果たしてこんなに長い記事がひとつのブログに収まるのか、心配になりながら書いていますが、入りきらなければ複数に分割するつもりで、ここから先を書きますね。(すべて書いてからの付記ですが、どうやらひとつの記事におさまったようです。)

 旧約聖書の最初の書は「創世記」です。天地創造物語から、アダムとエバの物語(一般にはアダムと「イブ」と書かれることが多いですが、私の知る限りの日本語訳聖書ではどれも「エバ」と書いています)、ノアと洪水の物語、バベルの塔の物語など、かなり有名な話がこの「創世記」に集中しています。新約の最後の「黙示録」などよりよほど有名な話がこちらにたくさん載っています。アブラハム、イサク、ヤコブという、新約聖書でもさんざん読んだ名前の人たちがついに出て来ます。最後のほうに、「ヨセフ物語」と言われる、ヤコブの11番目の息子であるヨセフのかなりまとまった長い話が出て来て、そのヨセフの死で創世記は終わります。

 つぎの書が「出エジプト記」です。モーセが出て来ます(これも一般には「モーゼ」と書かれることが多いと思いますが、私の知る限りの日本語訳聖書ではすべて「モーセ」と書いてあります)。モーセは80歳で神の命令(多くは「召命」と言いますが)を受けて、イスラエルの民をエジプトから率いてエジプトを脱出します。モーセ一行が海を割るシーンは有名であろうと思われます。しかし、有名な話はここまでなのです。モーセがシナイ山で「十戒」を神から受け取るあたりから、話はだんだん「いましめ」になっていきます。これが、新約聖書でさんざん出て来た「律法」と言われるもので、出エジプト記の後半からは、ひたすら「いましめ」が続きます。そのまま「レビ記」に突入し、そのまま「民数記」に突入します。おそらく非常に読みづらいと思われます。「法律集の通読」をしているわけですから、読みづらくて当然です。現代の視点からすると、とても受け入れがたいようないましめもありますが、そういう現象は、ここまで聖書を読まれたかたにはもうおなじみであると思います。民数記の途中からモーセ一行は再び出発します。現代なら「表」であらわすようなことも、あるいは「地図」で表すようなことも、すべて「文章」で書いているため、ときどき極めて読みづらい箇所があります。バラムと「しゃべるろば」の話など、少しだけストーリー性のある話も出て来ますが、まもなく「申命記」となり、これはモーセの最後の説教で、再び「いましめ」となります。申命記の最後でついにモーセは亡くなり、つぎの「ヨシュア記」に入ります。

 「ヨシュア記」はヨシュアの物語ですが、ようやくストーリー性が回復します。ヨシュア記の前半はとくに侵略物語であり、ヨシュア側から読めば痛快な話になるのですが、侵略される側から読むと、極めて残虐な話が続きます。これは、イスラエル民族の宗教であるユダヤ教の正典でもある旧約聖書の特徴で、どうしてもイスラエル民族の視点から描かれているため、しかたのないことです。気にせずにお読みいただくよりないと思います。ヨシュア記の後半は土地分配物語であり、つぎの「士師記」は、「士師(しし)」と言われるリーダーに率いられるイスラエル民族の物語です。たくさんの士師が出て来ます。(概して乱暴者が多いですが、「これらは『痛快な話』なのだ」と思いつつ読むよりありません。)最後に残虐な話が2つほど入っており、士師記は終わります。

 短い「ルツ記」をへて、「サムエル記上」「サムエル記下」「列王記上」「列王記下」が続きます。イスラエルに「王」が誕生します。初代の王であるサウルが亡くなるタイミングくらいでだいたいサムエル記が上から下になり、次の王であるダビデが亡くなるタイミングくらいでサムエル記下から列王記上に行くような感じです。列王記の上から下にいくタイミングはあまりはっきりしません。列王記の上の最後のあたりで、新約聖書にさんざん出て来たエリヤという預言者がついに登場します。列王記下で、創世記の頭から続いてきた長い話がいったん終了します。

 つぎに来る「歴代誌上」は、話がアダムに戻っており、ひたすら人名の羅列で「おさらい」を始めます。新約聖書の「マタイによる福音書」も、最初は人名の羅列でスタートしましたが、あの比ではないです。何章もカタカナの人名が続きます。これらも非常に読みづらいと思います。しばらくすると、前に読んだことのあるような話が出て来て、ストーリー性が回復します。「歴代誌下」から「エズラ記」「ネヘミヤ記」と話はつながっています。「エステル記」はかなり独立した話であり、つぎの「ヨブ記」はもっと独立した話です。そのつぎが「詩編」であり、これは詩の集まりです。(前に「新約聖書 詩編つき」を買われたかたもあったかもしれませんが、これがその「詩編」です。)つぎに「箴言」「コヘレトの言葉」「雅歌」と、格言であったり、詩であったりするようなものが続きますが、その次の「イザヤ書」から旧約聖書の最後まで、預言書となります。イザヤ書で、また時代が戻ったことに気がつかれると思います。預言書から急に抽象的になります。ちょうど新約聖書も、後半の「手紙」シリーズから急に抽象的になったように、旧約聖書もイザヤ書から急に抽象的になります。「イザヤ書」のつぎは「エレミヤ書」で、このように預言書は、時代も場所もバラバラに配置されています。たまに新約聖書に引用されていて読み覚えのある言葉が出る以外は、おそらくちんぷんかんぷんであろうと思われます。じつは、聖書17回通読の私も、いまでも預言書はちんぷんかんぷんです。預言書でストーリー性があるのは、「ダニエル書」の前半と「ヨナ書」だけです。あとはちんぷんかんぷんであり、それが最後の「マラキ書」まで続きます。新約聖書が黙示録で堂々と締めくくられたのとは違って、まったく終わった感じがしないと思いますが、これで旧約聖書をすべて読んだことになります。つまり、聖書全体を読み終えたことになります!(私が、聖書は新約聖書から読み始めることをすすめた理由、とくに「ちびマルコによる福音書」から読み始めることをすすめた理由がお分かりいただけたと思います。)

 続いて、「旧約聖書続編」ですが、ここまでお読みになるかたなら、もう続編のガイダンスはいらないでしょう。いま一瞬「続編をほとんど読んだことのないプロテスタントの信者さん向けに、続編のガイダンスのニーズはあるかも」と思ったのですが、もう精魂尽き果てました。簡単に言いますと、物語調のもの、格言的なもの、意味不明であるもの、などがあります。ここまで『新共同訳』をお読みになっているという前提で話を書いて参りましたが、続編のある聖書は私の知る限り『新共同訳』と『聖書協会共同訳』だけです(学術的なものを除きます)。『フランシスコ会訳』は、本来の位置に「続編」に相当するものが配置されています(たとえば「ネヘミヤ記」のつぎが「トビト記」であるように)。正直に書きましょう。私が続編のガイダンスを書かない理由は、自信がないからです。続編まで含めても7回も私は聖書を読んでいます。しかし私はプロテスタントの信者であり、まず続編が礼拝で読まれることがないため、いつまでたっても続編の読みかたが「自己流」なのです。ですから続編のガイダンスを書くことがためらわれるわけです。

 というわけで、やはり私は聖書の読みかたは教会に依存している、つまり、いわば「信仰」をもって聖書を読んでいることが明らかになります。ここまで私はなるべく宗教の押し売りにならないように気を付けながら、聖書を読むかたへの案内を書いて参りました。最後にちょっとだけ「信仰っぽい」書きかたをおゆるしいただければ、と思います。私は生まれついてのクリスチャンではありません。キリスト教と出会ったのは1996年、20歳のときであり、それも偶然中の偶然です。聖書を手に取って読み始まったのは、かなり教会になじんでからです。洗礼を受けた(=キリスト教の信者になった)のは、2000年のクリスマスで、25歳のときでした。かなり石橋をたたくようにして「これはあやしくないか?あやしくないか?」と自問自答しながら、ついにイエス・キリストが救い主であると信じるようになり、洗礼を受けたのです。そのとき、まだ1回も聖書の通読には至っていませんでした。ですから、この記事にどんなニーズがあるのか、わかりません。私がこんなにたくさん聖書を読むのは、もちろん発達障害の障害特性ということもあるでしょう(「あることに異様に詳しい自閉症スペクトラムの人」はけっこういるものです)。でも、どうもそれだけではないのです。私は小さいころから植え付けられた「洗脳」を解くために、日々、聖書をひもといているのだと思うようになりました。聖書にはいろいろ余計なことも書いてありますが、それらを除去すると聖書は聖書でなくなってしまうと思います。しかし私は、聖書から限りなくいろいろなことを教えてもらっています。私が聖書から学んだ最大のことをひとことで言うと「神様や、また人様に助けてもらわないと、少なくとも自分は生きていけないのだ」ということです。私はある程度、教会になじんでから聖書を読みましたので、「聖書を開くときは、圧倒的に旧約聖書より新約聖書のほうが多い」ということに気づいており、新約聖書から読み始めたのです。感動の連続でした。ことに「盲人が奇跡的に癒やされた」話に感動して涙したことを思い出しますが、いま思えばそれはバルティマイの話だったのです。私はバルティマイから「もう少し人にあつかましくする大切さ」を学びました。困ったときは「助けて!」と言うべきなのです。私は失業して早くも1か月が過ぎようとしているところです。皆さんも、困ったときは「助けて」と言い、できないことは「できません」と言い、わからないことは人に聞いて、助けてもらって生きていきませんか。結局、最後が説教くさくなって恐縮なのですが、私はそんなふうに聖書とつきあっています。助けてもらってばかりの私が、少しでも誰かを助けることはできないかと思って、この記事を書きましたし、ココナラもやっています。助けてもらって、ときに人を助けて、生きて行きたいと願います。「みんな自分の得意なことをやり、そして苦手なことはカバーしてもらえる国」、それが「神の国」だと思います。「神の国は近づいた」(マルコによる福音書1章15節)。そう宣言してこの小文を終えます。ここまでお読みくださり、ありがとうございました!
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