【祈っているが、願っていない】

記事
学び

安田です。
どんな人でも
何かの宗教をやっている
やっていないに関係なく
何となくでも
祈っているのです。
ですが
祈っていても
願っていないので
努力ができないのです。
努力というのは
学ぶことと
実行することなのですが
どう実行したらいいのかが
分からなかったとしても
学ぶことだけはできるのです。
完全完璧の知識では
なかったとしても
今はいくらでも
学ぶことはできます。
願うというのは
希望的な印象がありますが
願い続けるには
エネルギーが必要なのです。
なぜなら
願ってもすぐには
叶わないからです。
願い続けて
努力を続けることで
願いを叶えることが
できるのですが
ひたすら忍耐するような歩みが
続いていくのです。
なので
祈ることはできても
願い続けることが
簡単ではないのです。
本当に祈るべきことは
願えるように祈るべきなのです。
願えるようになれば
努力がしたくなるのです。
そして
努力を続けることが
できるようになります。
常に努力ができる人は
願っているということです。
表面的に祈っているのではなく
深い境地で願っているので
願っているとおりに
実行するのです。
祈っているだけなのか
願っているのかを
自己分析することが
必要なのですが
何らかの努力が
できているのであれば
祈っているだけではなく
願っているということです。
暇と孤独の環境によって
何となくでも祈りやすい
時代になっています。
ただ祈っていても
願っていないと
どんなに暇でも
何の努力もしないのです。
努力というのは
時間が有り余っているから
できるということではありません。
暇と孤独によって
無駄な時間が省かれ
時間に余裕ができても
努力ができるようになった人は
まだそう多くはありません。
より強烈に
暇と孤独を感じることで
願うことに目覚め
学ぶことに目覚め
実行することに
目覚めていきます。
何となくでも
漠然とながらでも
祈っていれば
願えるようになります。
願える時が来れば
願ったとおりの
歩みができるのです。
暇と孤独の環境というのは
宗教的に言えば
私と神様との関係が
築ける環境なのです。
なので
より祈りやすくなり
祈ることで
願えるようになります。
毎日が追われていたり
余裕がなくなると
祈るようなことが
できなくなるので
当然願うことも
できなくなります。
瞑想というのは
祈りと同じです。
自分の良心と向き合い
良心を基準に歩むことが
できるようになるので
願うとおりの歩みが
できるのです。
瞑想に目覚める人が
増えてくることで
祈る人が増えてきて
願えるようになる人も
増えていきます。
建設的なことを祈り
願える人が増えていき
その願いが
集合されていくことで
希望的な時代に
なっていくのです。
祈りと願いが
一致していくことで
建設的な歩みが
できるようになり
希望的な歩みが
できるようになります。
今回も読んで頂きましてありがとうございました。
安田 悌
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