ちいさな小説 「片耳、マスク」
朝の駅は忙しい。なんとも言えないぬうっとした空気、コツコツと鳴り続ける靴の音。私は今日もこの空気に蓋をする。耳の奥までぎゅっと。曲が鳴り始めたらそこはもう私の世界、私だけの世界。こうやっていつも現実に蓋をする。人間関係も、気持ち悪い社会の雰囲気も、全部知らないふりをする。イヤホンから流れる曲に気持ちを預けて、今日も電車に乗った。駅から少し歩いたところに仕事場はある。何百回とみた眩しい外観、その前で深々とかぶったマスクを外し大きく深呼吸をした。もう一つの自分へとバトンタッチする。「ここからは任せたぞ」と。息を吐き終わるとそこには今までの自分はもういなかった。自動ドアの前で軽く笑みを作り中へと入った。真っ暗な舞台袖、太ももの真ん中までしかないスカート、口の前へ伸びるインカム。「今日も完売だよ、さすがだな」とスタッフさんに言われその場しのぎの感情のかけらもない笑顔で返す。本当はこんなんじゃないのに。音楽が鳴り出しいつものようにステージへ出る。ライトを当てられた私を見るなり歓声を上げる観客。そう、私はアイドルなんだ。ステージでは笑顔を振りまき、我ながらキラキラしていると思う。でも、本当の私は違う。笑うのが苦手で、人と話すのが嫌で、イヤホンで蓋をしなければ電車にだって乗れっこない。そんな本当の私をファンのみんなは知らない、スタッフさんだって知らない。「作られたもう一つの私」というマスクをつけた姿しか知らない片方の耳に本当の私を掛けて、もう片方の耳にもう一つの私を掛けて。そうやって生きてきた。そうやって生きるしか私にはできない。今日も私は「片耳、マスク」で生きていく。END初めまして!作者
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