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生きたいと思う気持ちは、パズルのピースに似ている

ちょっとの気づきや生きたいと思う気持ち これはパズルのピース(一片)に似ている。 それぞれのピースは形も大きさもばらばらで、隣り合わせに繋がるとも思えない。でもいつかはどこかでピッタリとはまる隙間が生まれるような気がする。 出来上がった「パズルの絵」は何だろうか?今はわからない。でも分かったとき、見えてきたとき、自分の人生が終わる気がする。 パズルは、もともと出来上がった絵を様々な形と大きさのピースに分断する。だから最初に誰かが書いた絵が存在する。それは夏に咲くヒマワリかもしれない。 でも人生のパズルは、そこにどんな絵が描かれているか最後までわからない。最終の絵を知っているのは神様だけかもしれない。だからおもしろい。 歳をとって分かったことといえば、何枚かのピースがつながってきたことだ。2枚つながったもの、3枚つながったもの、そしていまだにどこにもつながらない一枚のピースもある。 一枚のピースにも意味を込めたらしい、綺麗な柄が施してある。この先何枚のピースがつながるか、どんな絵が見えてくるのか、命が尽きるまで楽しめる。 生きたいと思う気持ちがパズルのピース(一片)なら、千枚のピースがつながった「ヒマワリの絵」は、探していた、私が生きる理由(目的)かもしれない。
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「相手のしあわせを願う」を止めていっしょに喜ぶ

「軽やかに暮らす」の中で「三つのしあわせ」を提唱しています。 三つのしあわせとは ・自分のしあわせ ・相手のしあわせ ・仕合わせ(めぐり合わせ) きょうは「相手のしわせ」についてです。 悩む人間関係の話です。 「相手のしあわせ」を願う。 これはとても大切なこと、もちろんです。 自分の子どものしあわせを願わない親はいません。でも私は願わない、と決めました。 「願う」ではなく、相手がちょっとでもしあわせに近づいたとき、いっしょに「喜び」ます。 「相手のしあわせを願う」とは、相手を想うようで実は自分の想いに執着している、と思っています。「私が想うしあわせ」を押し付けています。「私の想うしあわせの尺度」で相手のしあわせを捉えているところがあります。 「心配はわがままな趣味のようなもの」という言葉があります。本当は相手が私から心配されず、自分の足で立つことが良いのです。それでも私は、こうなって欲しいと願い、勝手に心配していました。相手の力量を自分と比べて卑下している部分があったかもしれません。「うまくいかないだろう」と、私が勝手にあきらめていたかもしれません。でも相手には自分が想うよりもずっと大きな力があるのです。 だから、「願う」ではなく、相手がちょっとでもしあわせに近づいたとき、いっしょに「喜び」ます。それはもう手放しで喜びます。自分のことのように喜びます。 雨が降れば隣に立ってそっと傘を出す。 私が願わなくて雨はいつかやみます。 雨がやんだら明るくなった空をいっしょに喜びたい。 そして相手が順調に前に歩いているとき、私は必要ありません。でもうまくいかず、もし誰かを傷つけたなら、その
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終わったことはすべてよし

六十歳(還暦とはいわない)を過ぎたら決めていたことがある。 「それまでの八割で生きる」 仕事を8割に減らして、残りの2割は趣味の時間に当てる。 そう思っていた。 よく本で紹介されてるようなお洒落な老後を想定していた。 しかし事件は還暦前に起きた。 がんを発病し、5年と決めた再発・転移猶予期間に心筋梗塞も発病した。 六十歳からの老後計画が見事に崩れた。 「もう、ダメだ」、「もう終わり」とあきらめ、六十歳からの未来絵が頭の中から消え始めていた。 でも不思議と冷静に受け入れていた。 「それもありかな」と他人ごとのように、そこに「無念」という言葉はなかった。 そして生き残った。 だから今、こんな言葉があたまに浮かんでいる。 「終わったことはすべてよし。」 これから先、何かやりたいことが思いつけばやればいい。思いつかなきゃそれでいい。軽やかに生きていこう。 それでもひとは不思議だ。 誰かに頼まれたわけでもないのに、勝手に何かしたくなる。 そしてこれが私の今の1週間だ。 ・毎日なにかしら文章を書く ・果樹園でのアルバイト ・週1でのサックスレッスン ・週1での市民農園での農作業 ・週1でのヨガレッスン 「何もなくていい」といいながら、勝手に何かを始めてる。 そんな自分が好きでもある。その中で、「思いを言葉にしたい。文字に残したい」という思いは私の生への柱だ。そのために、Amebaブログを書き、ココナラやnote、FacebookやInstagramを使っている。もちろん、その裏には「人に認められたい」という功名心が残っている。「これがお金になれば」という金銭欲も明らかだ。 それでもいい。
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何かに執着しているときは心が囚われている

「執着」という言葉の響き 好ましい場面もあれば、自分を苦しめる言葉になることもあります。 「執着」と書くと、何かオドオドしいイメージがありますが、そんな恐ろしくなくても自分を苦しめることがあります。 特に厄介なのが、ひとに対する執着です。想いを寄せる大切な人への執着です。 そのとき、心がけていることがあります。助けを求められたら助けてあげる。 でも求められなれば助けない。 求められない助けはあなたの自己満足です。 自己満足はやがて、「助けてあげたのに…」と相手に対する不満に変わります。 相手が自分の助けを必要とせず自立すること これが相手を最大限大切に思う気持ちです。 でもどうしても助けたい時があります。その時は自分の思いのみを伝える、相手の思いを期待しないことです。 人の気持ちにまで責任はもてませんから。 思いを伝えて手放すことです。 執着からは何の成長も生まれません。 そこにただ留まっているだけです。ここで、親から子へのあたたかいメッセージをご紹介します。 facebook で「名言の宝箱」さんがこんなことを書いていました。親が出来ることは、我が子がある程度の年齢に達するまで健康な体の成長をサポートし、安心して暮らせる場所を提供し、世の中で生きてゆくためのルールを教え、おまえを愛している、そして、おまえの幸せを願っているということを伝えること。 あとは「自分で切り開いてゆきなさい」と、信じて送り出すこと。それしか出来ないのだなあと。。。 子どもといえども、一個人なのだ。            必ずしも親の思うようになんてならないし、もちろん相手を変えることなど到底出来ない。
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自分を変えるのに、新たな決意はいらない

「自分を変える気づき」や「自分を変える方法」を様々書いている。 でも、気づいて、方法を知っていてもなかなか変われない。 それは行動を起こさないからだ。当たり前のことだ。 そして、「絵に描いた餅」や「三日坊主」という言葉が生まれる。 だから、こんな言葉にハッとする。とても分かりやすい。最も無意味なのは、「決意を新たにする」ことだ。 確かに・・・ 「決意を新たにする」 この言葉、政治家の言葉として何度聞いたことか。 自分も同じだった。だから変わらなくちゃいけない。 変わる方法はこの3つしかないと大前さんは言っている。・時間配分を変える ・住む場所を変える ・つきあう人を変える 私に出来ることは、「時間配分を変える」こと。 そのために、要らないと思うことを減らして、やるべきことの時間を毎日作る。当たり前だけど、それしかない。私なら、SNSを見る時間を減らして、少しでも書く時間を必ず作る。 そんなことから始めたい。 「決意を新たにする」なんて、自分で自分を誤魔化しても無意味だった。 自分を変えるのに、新たな決意はいらない。 出来ることを愚直にやるしかない。「決意を新たにする」という発言を聞いたなら、「ああ、この人は変わるつもりはないな」と思えばいい。 今、話題の芸能人も「もうお酒は飲まない」とまで言ったなら、違った評価があったかもしれない。ブログに書いた記事を一冊にまとめました。
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情報とは、こころを伝えることだと思う

情は、こころである。 そう考えれば、愛情は愛するこころのことだと納得がいく。 そして、さらに、情報という文字にまでこころがかかわりあっていることに気づくだろう。情報とは、数字やグラフや統計や知識の断片ではない。それは、こころを伝えることなのだ。情報化社会とは、こころをコミュニケートする社会のことである「仏教の心」(五木寛之 著)より情報とは、こころを伝えることだ。 情報化社会とは、こころをコミュニケートする社会のことだと思う。 血の通わない、こころを伝えない情報はいらない。だから、情報化社会の意味を改めて考えたい。 モノが欲しくて頑張ってきた時代があった。そして、モノが充足された今、誰もが情報を欲しがっている。モノ社会の中に情報が溢れたように見えるが、実は、私たちはモノ社会を離れ情報化社会の中で生きている。モノは限られた空間と時間の中で、それ以上詰め込むことは出来ない。 しかし、情報は枠を持たない。膨張するばかりだ。 これが厄介だ。 そして、これは、こころに似ている。 だからこそ、情報化社会の中では、こころをコミュニケートしなければならない。 どうするか?  まだわからない。 でも、情報という言葉を使ったら、同時に、こころという言葉を思い出さなければいけない。 今それだけはわかる。 なんともいえない世の中である。 さて、みなさんがたよ、私たちはどうすればよいのか。そこで親鸞はいう。ともがらよ、「悲泣せよ」と。悲惨な世間を見て、悲しんで大声で泣く、そのような柔らかく人間的なこころをとりもどすことが先決なんだよ、と。対策を論じたり、原因を分析したりする先に、悲しんで涙を流すよ
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役に立たない思い出や風景

「役に立たない思い出や風景」とは、心が疲れたり悩んで嫌になったとき、そっと心に寄り添うバラードのようなもの。 すぐには役立たない、でもすぐ役立つノウハウはすぐに役立たなくなる。 「役に立たない思い出や風景」を書いてみたい。 読後に掃除機を掛けたり、カーテンを洗濯してついた埃を洗い流したり、ただ黙々と身綺麗にしたいと思う、そんな本を読みたい。感動しても落ち込んでもすぐに身体は動かない。だからせめて身の回りから空気を変えたい。蝶の羽ばたきが嵐を起こすようにいづれ世の中が変わるかもしれない。 女優の石田ゆり子さんがこんなことを言っていた。 「ずっと前から思ってた。本を読んでいる人の姿は美しいのに、スマホをいじっている人の姿は美しいとは思わない。つまり、本能的にわかっていること」 FacebookもTwitterも、読めば心が震える。 でも、その震えは怒りであれ歓喜であれ意図的に増幅されたものだ。文字というより胸に刺さる刃物のようなものだ。 読書は、読者まかせになる。だから、読者の数だけ見える世界がある。言葉が異臭を放つこともあるが、心の震えを抑える役目も果たす。SNSの言葉は、喜びであっても怒りであっても口語に近い。 それでいて扱う文字は稚拙なものが多い。まったく美しくない。だから言葉から何も生まれないし風景も浮かんでこない。だだ情報としてその場の感情を流している。 ここに、オードリーヘップバーンの名言がある。 「美しい唇である為には、美しい言葉を使いなさい。美しい瞳である為には、他人の美点を探しなさい」 美しく生きていくための知恵のような気がする。 綺麗な言葉じゃなくていい。それよ
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「生き残る」という言葉を使わない

自宅近くにあるコンビニを数えてみた。 いずれも歩いてちょっと・・・という距離ではないが、車で数分の場所にある。セブンイレブン、ローソン、ファミリーマート・・・何処に行こうかと考えあげるだけでも数店はある。 「コンビニは高いのが当然」とあきらめて、今必要なものだけを買う。 週間で使うものは、「少しでも安いものを」と思い、スパーやドラッグストアを使う。 コンビニで買い物かごをレジにいくつも並べるのは変だし、スーパーで500mlのペットボトル1本を片手に順番を待つのも嫌われる。器用に分けているつもりでも、同じものが違う値段で売られている。 そう考えると、スーパーは商品を売り、コンビニは時間を売っているように思える。当然と言えば当然で、改めてここで書き出すことでもない。100円ショップはどうだろうか? 高品質なものは求めなくても充分こと足りるものを求めている。 100ショップの魅力は、「そうそう、これが欲しかった」という思わぬアイデアの発見だ。価格の安さが、ちょっと使ってみようかというハードルを下げる一因になる。そして、「今日は何があるんだろうか」という来店の楽しみも誘う。時間を売るコンビニ 生活を売るスーパー 健康を売るドラッグストア アイデアを売る100円ショップ こう整理するとおもしろい。 これに高品質で高価、価値を提供する専門店やブランドショップが加わる。 でも、ネットインフラを使った通販がすべての代用となるかもしれない。 違いは現物感覚だ。 これも5Gの世界が広がり、さらに次世代となれば解消される可能性はある。 現物の移動も、ドローンの進化でアニメで見た未来社会に繋がる。 変
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自分の”ものがたり”を書き始める

消費されていくものが情報なら、“ものがたり”は魂にチューニングされる振動だ。 「どんな“ものがたり”に沿って生きているのか」自問しながら自分の“ものがたり”を書いていきたい。見つけた言葉から”ものがたり”を書き始めるhttps://coconala.com/blogs/91641地球のために、世界のためにと手を添えて大きな声で叫ばれる。 でも私は「誰も置き去りにしない」、この言葉が好きだ。 地球のために、世界のためにの前に・・・ この世には様々な世界が存在する。 現実、想像、空想、意識、バーチャル(アバター) すべてが同列と思えば現実逃避とはいわない。好きな世界で生きればいい。 何が何でも全部「自分で」自分のことをすることだけが自立じゃない。 できないなら誰かに「お願い」したらいい。 人は誰しも完璧な存在ではなく、完成形を目指すために生まれてきたわけじゃない。 人間はどちらかというと、物事を悪い方に考えるクセがある。 リスクを想定しておいた方が生き残りやすいためだ。 そう思えば、そのクセも捨てたもんじゃない。 すべての物は誕生し終焉を迎える。その循環が破綻したとき重大な環境問題が生じる。そしてひとつの物質の終焉を物質の死とすれば、すべてのものの無事な死こそが次の無事な時代を作り出す。「あなたのカッコイイとこが好き」よりも、「あなたカッコワルイけど好き」の方が大きな思いを感じる。 キライには理由があるけど、スキには理由がない。ああ・・・だからか 「困っている人を救う」のではなく、「困っていることを助ける」 勇気をもらう?貰うもんじゃない、勇気は自分の内から出すものだ。 あきらめる
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足りないものは音を立てるが、満ち足りたものは静かである

仏陀の言葉です。 そしてさらに続きます。 「愚者は半ば水を持った水瓶のようであり、賢者は水の満ちた湖のようである」 言葉の解釈は色々あるでしょう。 高僧や研究者の解説を読むのもいいでしょう。 でもその前に自分の知識や知恵を駆使して、この言葉の意味を自分なりにまとめてみましょう。目の前にいる悩んだ子供に話すように・・・。「○○が欲しい」「〇〇したい」はわかる、大切なこと でもひとつ「○○が欲しい」と思ったら、ひとつ今あるものを思い浮かべて欲しい。欲しい、したい気持ちも持つのは生きていれば当然のこと これを否定してはいけない。 だから、同時に今あるものに気づいて感謝して欲しい。 そうすると、足りないものが発した音が少し小さくなる 足りないものに囚われていた心が、満ち足りた静寂に向かう。 そうすると、今足りないと思うことの是非が論理的に判断できる。 心で我慢しろとは言わない、論理的に頭で不足を考えて欲しい。 「平和」は、戦争反対と叫んで手に入れるものではない。 「平和」は平らな世の中だと思う 悪いことも起こらないが、とりたてて良いことも起こらない。 水の満ちた静かな湖のように。 「仕事を変えるマインドフルネスセミナー」 より   
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