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突然の肺炎で入院...

2021年の1月にみんなで元気にお正月を迎え、今年も元気で楽しい生活が送れますように!なんて、談笑をしていたのに.... 2月の半ばに、兄から母が肺炎で入院になったと連絡が入りました。 風邪でも引いたのかな?と思っていたのですが、精密検査をすると肺のガンが大きくなっており、リンパにも転移が見られると告知を受け、家族が全員落胆したのを覚えています。 実は、抗がん治療を丸2年以上休まずに続けてきた母の体が、少し弱っていることもあり、一旦お休みをしましょう...と、担当医から言われていました。 恐らく、抗がん治療を休んだ時から、体のガンは成長を始めてしまったのだと思います。 消えてなくなったのではなく、小さくなって停滞していたガンだったので、まるで休眠から覚めたかのような勢いで、全身に転移していったようでした。 全身の精密検査をすると、肺、肝臓、リンパ、大腸などにガンが見つかりました。 それよりも、その時にかかってしまっていた肺炎で39度の発熱と胸の苦しさで、先生からはかなり厳しい状況ということを告げられてしまいました。 病院につくなり、母はとても元気そうに見えました。 ただ、肺の中からゼロゼロと息くるしそうにしており、無理をしているんだということがわかりました。 そしてもっと悲しく苦しい出来事になってしまったのは、あの「新型コロナウィルス」の発生でした。 母の入院は、コロナ騒ぎが起こる少し前でした。 母が入院した2週間後には、日本中が大パニックになり、発熱しているだけで病院に入れてもらえないという事件もあり、何人もの方が犠牲になったニュースを見てきました。 母は幸いなことに、当時と
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ネットの情報を見ない母

母のガンが発覚した時、一番落ち込んでしまったのは兄でした。 告知を受けた母は、意外と気丈振舞ってくれていたので、周囲が動揺せずに過ごせていたように思います。 母の口癖はこうでした。 「なるようにしかならない」 父は、ガンへの治療は一切しませんでした。余命1年半といわれていましたが、治療をしなかったせいか、2年と長生きしてくれました。 しかも、手術をしなかったので大きなリスクを負うことなく、また、痛みをあまり感じることなく闘病生活を送ることができたように思います。 しかし、母は違いました。 本当は、父に手術をしてもっと長生きしてもらいたかったという後悔があったので、自分は子供たちに悲しませたくないという願望から、子宮の全摘出という大きな手術を決意してくれました。 母の余命は、半年でした。 すでに、肺や肝臓に転移していたので、化学療法を併用しての治療がすぐに始められました。 手術の当日は、母はとても緊張していました。 手術室に入る前に、みんなで手を握って入っていきました。 手術は当初7時間と予定されていましたが、実際は10時間と3時間もオーバーしての大手術となりました。 母の子宮のガンは、腸などにも癒着をしており、なかなか癒着の部分が取れなくて長くかかっていたようです。 65歳の母の体には、かなりリスクがあったにも関わらず、先生のおかげ様で、無事に手術を終えることができました。 手術室から帰ってくる母は、意識が朦朧としており、とても衰弱していました。その姿を見るだけで、本当に苦しくなりました。 頑張ったんだね!と手を握ることができた時、母の手がとても冷たくて涙が出てきました。 安心
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今度は母のガンが...

母は、父が亡くなってからとても弱くなりました。それと同時に、私にとって「母」という存在から、一人の「人間」という存在へと変わっていきました。 私には兄がいるのですが、兄に対しては、とてもかわいい息子というような感じで接していました。しかし、私にはそのような家族という感覚を与えてくれるような、甘えていいのかなっというような感覚を与えてくれる時間がとても減りました。 あくまでも、私からの視点観点の問題なので、母がどう思っていたのかは不明ですが... そんな中、母が少しづつ元気になり、私の孫にも「会いたい!」と、周りに目を向けれるようになりました。 私には3人の子供がおり、長男は、とてもばあちゃん子でありました。 母は、とても私の子供たちをかわいがってくれました。 3人を平等にかわいがってくれました。子供たちは本当に、おばあちゃんがとても好きでした。 その子供たちを見て、私が子供のときにこうやって接してくれていたら、とても嬉しかったなって、心で拗ねていたこともあったくらいです(笑) 父が亡くなって、4年の月日が流れました。 母が、私の家に遊びに来てくれたある日のことです。 母は、もともと糖尿病を患っており、いくつかの薬を飲んでいました。また、ひどい腰痛持ちで、体のあちらこちらをいつも「痛い痛い」といっているような人でした。 しかし、その日はちょっと様子が違っていました。 やけに、腰やわき腹をさすっているのが気になりました。 私「どっか痛いの?」 母「いつもの事なんだけどね」 私「どうやって痛いの?」 母「大丈夫だよ!いつもの痛みだから」 私「最近、病院いってるの?」 母「糖尿病の薬は
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残された母...

父が亡くなったその日の事は、とても鮮明に覚えています。 親戚が帰るのを見送ると、病室に戻り父の亡骸を見た時、なんだかとても安心していました。 悲しみというより、実感がわかないのです。 父の悲しみや苦しみ、寂しさが、その亡骸から消えていたのがわかりました。 闘病を経ての死とは、そのような感情から解放されるものなんだって、改めて思えた瞬間でもありました。 それと同時に、本当にこの世にいなくなってしまったんだという、空虚感が沸いてくるのが感じました。 母は、父と最後のキスをしていました。 そして、看護師さんたちが父の体をきれいに拭ってくれました。 これからの段取りをしなければならなかった母は、その後、すぐに帰宅し遅くまで業者などのやり取りに負われていました。 その後、父を家に迎えて通夜があるその日まで、体のケアを家族で寝ずに行ないました。その時は、父を大好きでいてくれた親戚数名が駆けつけてくれて、ろうそくの火を灯してくれました。 母は、意外と元気に過ごしてくれてました。 父と母は、本当に仲睦まじい夫婦関係でした。 父の経営をしている会社で、副社長として一緒に仕事もしていました。若い頃は、毎日のように喧嘩をしていましたが、年を取ってからは、喧嘩もせずに仲良く二人でいる時間を満喫していました。 なので、父が体調を崩して入院してからは、毎日病院に通って父のケアをしていました。母は、本当に父を想っていました。とても大好きでした。 父を自分の片割れのように、とても大切にしていました。 だから、父が亡った後の事が、とても心配でした。 その不安は、残念なことに的中してしまいました。 母は、毎日泣い
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亡くなったその日...

...父が亡くなるその日は、とてもお天気がよく清々しい日でした。 親戚一同が集まり、総勢20人は来ていたと思います。 緩和病棟だったので、そのあたりについては、寛大だったと思います。 父は、亡くなる数日前から、意識が朦朧としていました。食事も水も絶っていたので、尿も茶褐色で少量しか出ていませんでした。 しかし、父はとても穏やかな顔をしていました。 亡くなる数日前に、少しだけ会話ができた時に、母にこう話したようです。 「俺は、病気に勝った!ガンに勝ったんだ!」と... 私は思いました。 人がこの世を去るとき、きっととても心地が良くなるのだろう...と。 もう、十分頑張った!だから、もう楽になっていいよ。 そんな気がしました。 父は、亡くなるその日、とても穏やかで安らかに永眠しました。 本当に穏やかでした。 悲しみというより、私はその「穏やかさ」に安堵したことを覚えています。 人の最後は、色々な形があります。 交通事故で一人で亡くなる方。 父のように、沢山の人に会って亡くなる方。 自ら命を絶つ方。 それぞれの命の最後があります。 悲しみや苦しみは、亡くなるその方よりも 残された方が感じる感情なのでしょう。 その経験をしている人が、死を恐れてしまうのでしょう。 亡くなるということは、絶対に避けられない道です。 むしろ、自然の現象です。 苦しみの向こう側は 確実に安堵が待っている。 何も怖くなる必要はないと思えることに、感謝しかありません。 父は、私に「生きる」ということを、全部教えてくれたんだと思いっています。 父との思いでは、思い出しません。 単純に、切なくなるからです。 笑顔を思
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父の心の中は...

あの日以来 私は父の電話に出ないことが増えました。 その頃、母に父の事を相談したのですが... 「お父さんの助けが今のお前なんだから、ちょっと寄り添ってあげてもらえると助かる...」といって、見放された気分でした。 両親ってなんなんだろう.... 父の場合、ストレスからくるせん妄ということは、何となくわかっていました。幻覚や妄想がひどくなり、常にパニックになるような感じでした。 母はそんな父の変化を、直視することができなかったんだと思います。 だから、弱音が吐けなかったし、誰かに頼れる人もいなかった。 でも、病を患うってこういうことなんだなって思いました。 人の死は、必ず訪れるものです。 でも、こんな風になるなんて思ってもみなかったです。 父の弱さを、目の当たりにして 本当に絶望を感じていました。 でも、死とはこういうことなんだ!っと、悟りました。 それと同時に、父の心の中が 寂しくて苦しい悲しいものに覆われていることに気が付きました。 せん妄が出ている最中、父はいつも誰かに怯えていました。 「キツネが俺を見ている」 「家長は俺だ!絶対に逆らうんじゃない!俺が絶対なんだ!」 などと、怒鳴ったり、暴れたりしました。 家にいると、自力で立つこともできなくなってしまったので、父は入院をしました。入院手続きで病室を空けるだけで、父は大声で母や私を呼び叫びました。俺を置いていくのか!!と、ひどく怒りました。 2~3日は、看護師さんも優しく接してくれましたが、どんどん暴れる父を、病院は危険人物として見なし、腕や足を縛るようになりました。 その姿を見るのは、本当に辛かったです。 しかし、ベッ
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神頼み...

父の鬱は、日に日に悪くなりました。 胃がんの進行も進んでしまって、胃に穴が開いてしまうほどでしたが、本人は痛みの症状がなく、食事もしていました。 幸いなことに、痛みがなかったので食事をすることができたようですが、胃の機能が低下していたので、栄養が取れずに栄養失調になっていきました。 その頃から、食事の度に私に電話がかかってくるようになりました。 今日は、おいしく食事ができたから、ガンが消えたのかもしれない! なんだか、胃の調子が悪いから、ガンが悪化したのかな...など 遠方に住んでいる私と連絡が取れる手段が電話だったので、毎日電話がかかってくるようになりました。 その頃、私には乳飲み子の娘と2人の息子を世話しながら、自営の仕事をしていたので、長電話する時間は正直ありませんでした。 でも、私の声を聞くと安心するから、話す時間をくれ!と言って、日に日に電話の回数が増えていきました。 最初は、1日に1回だった電話が、朝昼晩と3回になり、5回になり...ひどいときは、10分ごとにかかってくることもありました。 子供が泣いていても、父は自分の不安を解消してほしい!と縋ってきました。 父は、私を「神」のように崇めるようになりました。 以前から、神頼みをする傾向にあった父ですが、自分の娘を神にする行為がとても怖かったのを覚えています。 そのプレッシャーは、とにかく私を苦しめました。 父が私に「命」を助けてくれ!と縋るのです。 何度も病院に行くように、話ました。でも、神を信じこんでいる父は、病院を刑務所かのように悪い場所と見立てていたので、病院に行かせようとする私をひどく怖がることもありました
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お父さんのガンと鬱

私の父は、総勢70人を雇用する会社の経営者でした。 父は、貧乏な田舎の炭を作る農家の長男坊として生まれました。 中学を卒業するとともに、上京し電気会社に就職しました。 しかし、結婚を機に自営業を母と営みはじめました。最初は全く仕事にならず、釣りやパチンコばかりしていた道楽者だったらしいですが、自営業が軌道に乗り始めたころから、仕事人間になったようです。 母は、箱入り娘だったようで、銀行にいけばお金がもらえると思っていたそうで、経理を任された当時は、銀行のやり取りに相当困惑していたようです。 そんな父は、40歳の頃に胃潰瘍になり、大量の吐血をしたことがありました。その頃は本当に多忙で、夜中まで両親は家にいなかったのを覚えています。 「寝ずに働く」とはこのことか!というお見本だったように思います。 父は、中小企業では少しばかり有名になっており、時折新聞や経営者雑誌などに取材される人になっていました。 今思うと、相当疲れていたし、ストレスもあったようで、身長165cmで95㎏くらいまで太ってしまい、いつも苦しそうな顔をしていました。 本当は、アウトドアが大好きで自然の中で散歩をすることが好きだった父は、いつの間にか人に会うことが億劫になり、外に出歩けなくなりました。 父が62歳の時に、体調を崩したことがきっかけで病院に入院。 その時に、ガンが発覚。 父は、相当落ち込んでいました。 病院が大嫌いだった父は、胃を全摘することを進められていましたが、断固として拒否し、民間療法や漢方、健康食品にどっぷりハマるようになりました。 この頃から、精神的に病んでいきました。 そして、神や宇宙といった
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ガン患者の苦しみ...

はじめまして。 私は、両親をガンで亡くしました。 父は胃ガン 母は子宮体ガン 二人の介護は、本当に辛く苦しいものでした。 私は、19歳の時に パニック障害と診断をされました。 小さい頃から多方面で敏感症で、空気を読む天才といわれたくらい 周囲に目を配る子供でした。 今思うと、HSP(ハイリー・センシティブ・パーソン)だったんだなって思います。 その性質なゆえ、両親のガンと向き合うことが本当に苦痛でした。 世間で上手にやりくりできてしまう私は、誰にも相談をすることができませんでした。 病棟では、ガン患者とその家族に対して、カウンセラーの方が相談に乗ってくれるサービスもあったのですが、まったく癒されたことがありませんでした。 むしろ、カウンセラーの方が来ると、逆に気を使ってしまったり、癒えたフリをしないと問題扱いをされてしまうので、その時間が苦痛でしかありませんでした。 ガン患者を持つ家族は、自分の心のケアなんてしている暇はありません。 一番心を病んでしまっている家族のために、何かをしてあげようと必死になることでしょう。 しかし、実は、ここに大きな落とし穴があります。 ケアをしている人が、自分をしっかり守ってあげることで ガンを患っている家族を、救うことができるようになります。 現実は、とても残酷な場面をいくらでも突き付けてきます。 介護している人を、どんどん追い詰めていきます。 そこには、やり場のない気持ちだけが育っていくのです。 まずは 「気づく」ことが大切です。 病を治そう!とするよりも 戦うよりも 今に「在る」ことです。
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内外共に輝きを増す「不老」のマントラ教えます☆死後の世界から持ち帰ったとされる貴重な秘儀☆

日本語で「いのち」という言葉はそれぞれの単語が単独で意味をもっていて「い」の一文字で生命をあらわし「の」が助動詞で「ち」が智慧、生命誕生からの膨大な記録が保存されているアカーシャ現代ではアカシックレコードという言葉もありますね。今回お教えするマントラはインドの聖者が生きながらアカーシャをのぞくのではなく実際に死後の世界に足を運びそこで仏様から直接授かったとされる「いのち」を増やすための特殊な「若返り」の秘儀です。身体は年々、年を追うごとに老いていくものですが生命はこの世で学ぶ経験と感動を積み重ねより一層輝きを増していきます。命はこの世に誕生したことで純粋に美しく磨かれているはずなのですが見た目やエゴに引っ張られることでまるで命まで終わっていくように錯覚してしまうわけですね。いつまでも若々しくエネルギッシュで活動的で色んなことに挑戦される方もいらっしゃいますがこういった方は生命の輝きが見た目や性格、雰囲気などにダイレクトに反映されていて前世よりも今世、昨日よりも今日の方が美しく、またたくましくなっているのではないかと感じることもあるわけです。命を増やし生の衝動を呼び起こすことで過去世から今に続く成長、繁栄を思い出し、再確認し外見も中身も輝かせるマントラを今回ご提供いたします。
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