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ここでは「花が枯れ」、「腹が減る」。私は仏。

ここでは花は枯れ、腹が減ります。それはもう絶対です。それは大自然の働きです。大自然は絶対です。花だけでなく「私の体」もそうです。それはどうすることもできません。しかし絶対ということは、それはある意味お救いです。お救いとは「絶対に〜してくれる。」「絶対に〜を叶えてくれる」。このように捉えられがちですが、確かにこの「絶対」以上の救いはこの世界に存在しません。絶対的なものはどうあっても「救い」なのです。自分の体も含め、世の中の全ては絶対です。絶対に腹が減る。絶対に足が痛くなる。絶対に花が枯れる。しかしこれはお救いなんです。全てはお救いだったんです。お救いとは仏様のことですから全ては仏様だということですね。ここは仏様のみの世界だということです。無論私も「仏様」だということです。花は枯れると目の前からなくなります。腹が減ると死んでしまいます。足を組むと痛いです。とても悲しいことかもしれない。花が枯れるのは悲しいことです。しかしそれは紛れもなく存在しているということで、それは仏様の息がかかっているということです。仏として生きているということです。紛れもなく救われているということです。全てがそうです。ここでは花が枯れ、腹が減ります。それが事実として常に共にあります。事実は全て仏なんです。事実は全て救いなんです。どんな事情があるにせよ、その事実が常に共にあるんですね。どんな事情があるにせよ、そこでは花は枯れて、腹が減っているはずです。そしてこの世界にあるのは事実だけです。会社が倒産した。貧乏暮らし。大病をした。事情はさまざまでも必ずそこには「事実」があります。その事実においては仏のみなのです。
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気楽に読んでください、呼吸のおはなし ~その69~

本日もお読みくださり誠にありがとうございます。今回もどうぞ宜しくお願い致します。今日は、背骨と呼吸の関係を書いてみます。これまでは混乱を防ぐ意味で、意識的に敢えて触れずに来たことです。体は息を取り込む時に、当然のことながら膨らみます。このブログの初期の頃には何度もそれを確認しています。肺だけが膨らむのでは無く、体の全てがその肺を邪魔しないように柔軟に対応しながら膨らむ傾向を示していること、それが重要であることを繰り返し述べました。しかし背骨だけは例外、というよりも真逆、息を取り込む際には縮んでいるというのが本当のところなんです。これはこのブログで言うところの第一パターンの呼吸でも第二パターンの呼吸でも共通の事実です。その動きは何かに例えるならば、ちょうどリボンの結び目のような役割に近いと思います。肋骨や脇腹をリボンの花の部分、背骨を結び目として見ると、その意味が明確になって来ます。リボンの周囲が放射状に広がるには、中心部分を結んで絞らなければなりません。そうしなければ、窓に掛かるブラインドのように単なる線の重なりにしかなりません。そのような意味で肋骨や脇腹も、背骨が縦に縮んでくれることによって、より放射状に広がり易くなるのだと思います。それで、ここからが大切な内容です。背骨は吸気時にはいつも縮む、そして、呼気時には伸びます。普段の呼吸、寝ている時も含めて生きている時間の殆どを占める第一パターンの呼吸は、吸気で体が膨らむようにエネルギーを使い、呼気では全ての作業を放棄し脱力している。詰まり呼気では体が萎んで重力に引かれるがままに小さくなる傾向を示す訳ですが、その時も背骨だけは逆に
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「延寿」とは?

「延寿」という言葉があります。今この言葉をwikipediaで引くと、「寿命を延ばすこと。長生き。」と出てきます。延寿、延命。これらは普段我々もよく使う言葉ですね。この言葉が出来た経緯が少し興味深いのでここでお話ししたいと思います。延寿の背景昔、中国に「智覚禅師」という、周りからとても慕われるお坊様がいらっしゃいました。この方は初め、官吏だったんですね。要するに国に仕える「役人」です。財産も多く、その上、心のまっすぐな「賢者」のような人であると言われていたといいます。ある時、何を思ったかこの智覚禅師は勤め先の役所のお金を盗んで貧しい人に施してしまったというのです。これを見ていた役人仲間たちが皇帝に告げ口をするわけですね。皇帝はそれを聞いて、大変驚き、また同時に不思議に思ったといいます。智覚禅師といえば真面目で、周りからも慕われるほどの人物。なぜそのようなことをしでかしたのかということを思うわけです。しかしその盗んだ額が非常に大金だったため、決議の上、敢えなく死罪に処されることになってしまいます。とはいえ、皇帝は非常にこの智覚禅師のことを信頼していたため、臣下に対し、「この者は学問もあり、賢者でもある。それなのにこのような罪を犯すのには何か理由があるはずだ。もし、首を切る時に悲しみ嘆く様子があったら、さっさと切ってしまって良い。しかしその様子がない場合はきっと何かあるだろうから切ってはならない」このように言い渡すんですね。当日を迎え、いざ首を切ろうとした時、少しも悲しむ様子がない。かえって喜んでいる様子もある。また智覚禅師は次のようにいうわけですね。「この度人間に生まれた命は、一
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気楽に読んでください、呼吸のおはなし ~その3~

人生の全てが完璧に近い位にうまく運んでいる時に、人は呼吸に興味を持ったりするもんなんでしょうか。するかな。することもあるか。そうですね~、この導入はちょっと失敗しましたね。結構人生にゆとりがあって、更にもっともっと充実させたいと思って、それでヨガとか瞑想とか坐禅とかをやってみようという方は、ここで紹介しているような呼吸のおはなしはちょっと物足りないかも知れません。何せこのブログで書き進めようとしていることは、簡単ですから。読者様の顔が鬼の形相に変わる瞬間の恐怖心を振り払って、思い切って先にお伝えしときますと、やっても何も得しませんから。(上の行の末尾に、想像でムンクの叫び絵文字を入れてください)と言いますか、損得でものを判断しなくなる、に変えますね。で、呼吸のことなんかに取り組まなくても割と人生充実しているような人がやるとちょっと物足りないタイプのおはなしは、今ちょっと上手く行ってない感じの人とか、色んな意味で弱っちゃってる人には良いかも知れませんと、ホントはこう言いたかったようです。そのようにマッチングが整えば、得した感を味わえることもあるでしょう。過去2回の記事で、呼吸で肝要な事とは、如何に全身の隅々にまで程好く酸素を供給するかに尽きると述べています。これは言い換えれば、呼吸の内面(ウチヅラ)のことを言っていまして、皆さんがきっとよく見聞されているであろう、腹式とか胸式の呼吸、鼻で吸って口から吐く、とかの話は、呼吸の外面(ソトヅラ)の話です。呼吸って、吸った息はどうなるかちょっと思い巡らしてみて欲しいのですが。あっ、その前に、今、何気なく当たり前のように使ってしまった“吸う
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カフェ坐禅

たまに書きたくなるカフェの魅力精神統一の場ゆらめく音楽が心地よい気持ちのよいところに触れるやすらかな時間を捧げる前日のリセットお気に入りの場所に陣取り今日も書くお決まりのアイスコーヒーを啜るストローは使わない集中したい一口にかけたいそろそろ歳かとシロップのみにする「それもやめとけよ」ノリツッコミ第二幕にフレッシュ気分転換も兼ねる混ざり合い思考は高みへと贅沢はしない味わいたい気取りたい優雅に家路へと本屋の土産を並べて楽しむいつも笑顔が素敵な店員さんがいるそんなたわいもないことを想い気分がそよぐ書きたい時に書き泣きたい時に泣き怒りたい時に怒り笑いたい時に笑えばいい[お悩み電話相談]悩み事をどうにもできずに苦しんでいる方は是非一度メッセージからご相談ください!心が辛くてどうしようもないときは、誰かに話すのが一番楽になります。どうぞよろしくお願いいたします♪[ココナラ出品相談]・安売りしなければ商品が売れない・忙しい割に利益があがらない・ランキングに一度も入ったことがない・問い合わせもほとんどない・お気に入り登録もされないとお悩みの方にわたしが今までに行ってきた手法をすべて包み隠さずお伝えします。まずはお気軽にお問い合わせください♫
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走行禅(有酸素運動+禅)を理解するための基礎:坐禅と歩行禅

🔹 坐禅(ざぜん)とは?坐禅とは、禅宗の修行の基本であり、「ただ座る」ことにより心を静め、自我を超えて今この瞬間に集中する訓練法です。姿勢を正し、呼吸を整え、思考にとらわれずに「無」の境地を目指します。- 背筋を伸ばし、顎を引く- 鼻呼吸を用いて、腹式でゆっくりとした呼吸を行う- 浮かんでくる思考を判断せず、ただ見送り、心を一点に整える- この静けさと集中力は、動きの中にも応用され、武道や身体鍛錬に深く活かされてきました。🔹 歩行禅(ほこうぜん)とは?歩行禅は「動の禅」とも呼ばれ、ゆっくりとした歩みの中で呼吸と意識を整える実践です。一歩ごとに呼吸を合わせる(例:3歩吸って、3歩吐く)地に足をつける感覚、体重移動、姿勢を丁寧に観察する呼吸と歩行の一致を通じて、心を「今」に留める山での修行僧や千日回峰行の行者が実践しているのも、歩行禅の延長です。🔹 走行禅とは?走行禅は、さらに、呼吸や心を不動にしたまま、有酸素運動である走行へ昇華させた、まさに坐禅の静けさと歩行禅の意識の流れを融合させた「走りの瞑想」です。- ナンバ走法(重力を利用した最小動作)により走りを整える※ナンバ走法:(世界陸上で銅メダルを獲得した末續慎吾選手が取り入れてる走行法で有名)呼吸とステップを合わせ、無駄な力を抜いて走る「走る」のではなく、「動の中で静を感じる」ための実践精神的には「不動心」、肉体的には「脱力と集中」の状態を保ちながら走ることで、単なる運動を超えた自己との対話の場となります。これができると、驚くほど走りが楽になり、さらには心も穏やかになります。まさに、呼吸と有酸素運動の融合で、心を整えるメンタルト
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気楽に読んでください、呼吸のおはなし ~その2~

前回は、呼吸という営みの最も単純で基本的な意味は、体を構成している細胞という細胞の一つ一つに新鮮な酸素を運んで壊死させないことだと書きました。坐禅や瞑想では先ず呼吸への集中を導入とすることが多いように、そこから進んで、呼吸の世界を正しく学んで深く深く入って行ければ、高い精神性へと導いてくれる崇高なツールとも成り得る、数ある生理現象の中でも呼吸にはそういった特別な意味付をされる方も多いと思うのですが如何でしょうか。呼吸は確かに、不思議な二面性を持っています。殊更に呼吸のことなど意識していない全ての時間、まったく不随意な生理現象として、体が生きている限り勝手にずっと動き続けてくれます。起きていようが寝ていようが、本を読んだりテレビを視たり、考え事をしていたり、歩いていたり。勿論その時に脳が感じたり考えている内容や、運動量によって呼吸の量や速度は常に変化していますが、それを、不随意に体がオートマチックに制御してくれているということです。ところが、呼吸に意識を介入させようと思えば簡単に出来て、操作も可能です。息を何秒間止めていられるか、とか、歌を歌う時なんかでも呼吸をコントロールするような訓練をすることがありますね。瞑想のテクニックでも数をカウントしながら呼吸したりと、こういったことは、例えば心臓の鼓動とか脈拍では通常は不可能な意識の介入を、呼吸は意外と容易く受け容れてくれます。それで、実際にそのような意識の介入を駆使して、上手くいけば人間性や魂の成長へと繋がることがあるようです。そうやって、ある意味人間離れした存在へとこの世に居ながらにして進化している方は実際に居られると思います。そ
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