私が、その言葉を使いたくなったら、ちゃんと聞いてくれる?
放課後の図書室は、いつもより静かだった。凪は、窓際の席で、開いたままの本を眺めている。文字は、ほとんど頭に入ってこない。——恋人。昼休みに投げられたその言葉が、胸の奥で、まだ形を変えながら残っていた。(私は、どう思ってるんだろう)誰かに聞かれたから、考え始めたわけじゃない。ただ、考える余裕が、できただけ。椅子を引く音がして、悠真が向かいに座る。「静かだね」「うん」短い会話。でも、それで十分だった。しばらくして、悠真がぽつりと言う。「今日さ」「昼のこと、気にしてる?」凪は、少しだけ迷ってから、正直に答える。「……うん」「でも、嫌じゃない」悠真は、少し驚いたように目を上げる。「嫌じゃない?」「うん」凪は、指先を見つめながら言う。「ただ」「“恋人”って言葉を使うと」「何かを、約束しなきゃいけない気がして」悠真は、ゆっくりうなずく。「わかる」それだけ。否定もしないし、急かしもしない。「でもさ」悠真は続ける。「約束って」「言葉から始まるんじゃなくて」「一緒に帰るとか」「待つとか」「離れないとか」「そういうのの、積み重ねだと思う」凪は、はっとする。——そうだ。もう、いくつも約束している。言葉にしていないだけで。「……ねえ」凪は、顔を上げる。「もし」「私が、その言葉を使いたくなったら」「ちゃんと」「聞いてくれる?」悠真は、少し照れたように笑う。「もちろん」「そのときは」「俺も、ちゃんと答える」図書室の時計が、小さく音を立てる。その静けさの中で、凪は思う。——まだ、言わなくていい。でも、いつか言いたい。その気持ちが、確かに胸にあることを、初めて、はっきり認めた。本を閉じて、立ち上がる。帰り道。
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