「どうする?」とか言ってる場合じゃねえ家康
この前、徳川家康の側室の女性を何人かイラストにする仕事が来ました。側室というのはいわゆる「妾」で、家康は正式の奥さんである正室と、この側室を合わせて20人以上の「妻」を持っていたそうです。今回はその中の「於万の方」と言う女性(と、あと後2人ほど)のイラストを描いたわけですが、一応、描くからにはある程度の時代背景やその人の人柄などを見ておいたほうが描きやすいのでちょっと調べて見ました。於万の方はもともと、正室である築山御前(「瀬名」とテレビなどではよく言われているらしい)をお世話する奥女中で、それが家康の「お手つき」なって妊娠してしまったので築山御前の逆鱗に触れ「絶対メインのお城である浜松城に入らせない」と言われ、裸にされ庭の木に括り付けられたという逸話まである人らしい。(でも今のテレビじゃやらないだろう)おまけに生まれた子供は双子の男の子だったため、当時双子は「畜生腹」と言われて嫌われていたので泣く泣く片方は実家に養子にもらったらしい。 それで片方の生まれた男の子を家康に見せたら、家康から「ギギに似ている。気持ち悪い」とかひどいこといわれて、「この子は於義伊(おぎい)だ」という変な名前をつけられたという。とはいえ、幼少時にひどい名前をつけるというのは当時よくあって、豊臣秀吉が待望の子供の名前を「捨丸」とつけたりと、当時赤ちゃん死亡率が高かったので、あまり立派な名前をつけると神に愛されてすぐ死んでしまうとか言ってわざとひどい名前をつけたらしいが、家康はその後6年間一度も於義伊に会わなかったらしいので、本気で(この子はキモチワル)とか思っていたのかもしれない。それを見かねた信康(築
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