珈琲豆を挽く時間くらい、人生にはあってもいい

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珈琲を豆から入れて飲む。

たったそれだけのことなのに、なぜか少しだけ、生活がちゃんとしているような気がする。

もちろん、今の時代、便利なものはいくらでもある。コンビニに行けば、おいしい珈琲がすぐ飲める。スーパーにはペットボトルの珈琲もある。インスタントだって十分うまい。ボタンひとつで抽出してくれる機械もある。

だから、わざわざ豆を買って、ミルで挽いて、お湯を沸かして、ゆっくり注ぐなんて、効率だけで考えたら、ちょっと面倒くさい。

けれど、最近思う。

その面倒くささこそ、今の時代に必要なのかもしれない。

豆を袋から出す。
手のひらに少しだけのせる。
ころころとした豆の硬さを感じる。
ミルに入れて、ハンドルを回す。

ごりごり、ごりごり。

その音を聞いていると、自分の中の余計なものまで、少しずつ削られていくような気がする。

スマホはすぐに答えをくれる。
動画は次から次へと流れてくる。
買い物も、会話も、仕事も、連絡も、どんどん速くなっている。

気づけば僕らは、待つことが下手になっている。

お湯が沸くまで待つ。
豆が挽けるまで待つ。
粉がふくらむまで待つ。
ぽたぽた落ちる珈琲を待つ。

その時間には、たいした意味なんてないのかもしれない。

でも、意味がない時間だからこそ、人間には必要なのだと思う。

何かの役に立つからやる。
お金になるからやる。
効率がいいからやる。
評価されるからやる。

そういうものばかりで一日が埋まっていくと、自分がだんだん、ただの処理機械みたいになってくる。

今日やること。
返す連絡。
考えるべきこと。
終わらせるべき作業。

頭の中が、ずっと開きっぱなしのタブみたいになる。

そんなとき、珈琲豆を挽く。

別に急がなくていい。
うまくできなくてもいい。
誰に見せるわけでもない。
ただ、自分が飲む一杯のために、少しだけ手間をかける。

この「自分のために手間をかける」ということが、意外とむずかしい。

人のためならできる。
仕事ならできる。
締切があればできる。
誰かに頼まれたら動ける。

でも、自分ひとりのために、ゆっくり湯を注ぐことは、案外できない。

だからこそ、珈琲を豆から入れる時間は、小さなリハビリみたいだと思う。

ちゃんと暮らすためのリハビリ。
自分を雑に扱わないためのリハビリ。
急がなくてもいいと、体に思い出させるためのリハビリ。

ドリッパーに粉を入れて、少しだけお湯を落とす。
ふわっと粉がふくらむ。
その香りが立ち上がる。

その瞬間だけ、部屋の空気が変わる。

ただの朝でも、少しだけ朝らしくなる。
ただの午後でも、少しだけ休憩らしくなる。
ただの夜でも、少しだけ自分の時間になる。

すごいことは何も起きない。

人生が劇的に変わるわけでもない。
悩みが一瞬で消えるわけでもない。
明日から急に成功するわけでもない。

でも、マグカップに注がれた珈琲を見ていると、少なくとも今この瞬間だけは、自分の暮らしを自分の手に取り戻したような気がする。

それで十分なのかもしれない。

便利な時代に、あえて少し不便なことをする。
速い時代に、あえて少し待つ。
答えばかり求められる時代に、ただ香りを吸い込む。

珈琲を豆から入れて飲むことは、贅沢というほど大げさではない。
趣味というほど立派でもない。
こだわりというほど偉そうでもない。

ただ、ひと手間をかける。

そのひと手間が、生活に小さな余白をつくる。

今の時代に本当に足りないのは、便利さではなく、こういう余白なのかもしれない。

豆を挽いて、お湯を注いで、少し待って、飲む。

たったそれだけのことなのに、飲み終わるころには、さっきより少しだけ、自分に戻っている。

だから今日も、珈琲を豆から入れて飲む。

急がなくてもいい時間を、わざわざ自分で作るために。
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