第66話
近づかれる前に切る
前話:早坂凪は、前職で「本音で話せる場」を少しだけ信じた。違和感を言い、必要なことを言った。会議では「言ってくれてありがとう」と言われた。けれど、会議の外で少しずつ外された。呼ばれない会議、遅れる共有、減っていく雑談。話していい場所ほど、話した後が怖い。早坂はそれを体で覚えた。高瀬主任からの連絡には、まだ返信していなかった。
早坂は、優しい人たちが嫌いだった。
正確には、優しい人そのものが嫌いなのではない。
優しい顔で近づいてくる人が嫌いだった。
「大丈夫?」
「無理しないで」
「何かあったら言ってね」
「あなたのために言ってる」
その言葉の後ろに、早坂はいつも小さな手を見た。
こちらの内側に触ろうとする手。
反応を確認しようとする手。
痛みの場所を探ろうとする手。
その手が来る前に、早坂は切る。
近づかれる前に。
触られる前に。
分かられたことにされる前に。
切れば、相手は止まる。
止まれば、自分の場所が残る。
それだけだった。
午前中の会議で、桐谷が資料を見ながら言った。
「この導入、ちょっと優しすぎるっすね」
早坂は顔を上げた。
「優しすぎる、とは」
桐谷は少し困った顔をした。
「いや、なんか、書いてる側が“寄り添ってますよ”って言いすぎな感じっす」
早坂は資料を見る。
新入社員のみなさんが不安を感じるのは自然なことです。
この資料では、安心して一歩ずつ業務に慣れていけるよう、必要な情報を整理しています。
早坂は言った。
「削った方がいいです」
優作が聞く。
「どこをですか」
「不安を感じるのは自然なことです、の部分です」
佐伯が少し顔を上げた。
黒川もメモを取る。
美月は画面を見ていた。
真壁が言う。
「理由は」
早坂は短く答えた。
「不安だと決めつけているからです」
優作が少し考える。
「確かに、全員が不安とは限らないですね」
早坂は頷く。
「はい」
桐谷が言う。
「でも、新人って多少は不安じゃないっすか」
早坂は桐谷を見た。
「そういう雑な代弁が、嫌です」
会議室が止まった。
桐谷の表情が、ほんの少し固まる。
「雑、か」
早坂は続けた。
「相手が不安かどうかは、相手のものです」
「まあ、それはそうっすね」
「それを先にこちらが言うと、相手はその枠で読まされます」
「うん」
桐谷は頷いた。
でも、その頷きは少し硬かった。
早坂は、もう一段踏み込んだ。
「不安な新人に寄り添う私たち、という書き手側の気持ちよさも混じっています」
空気が、さらに固くなった。
優作の指が止まる。
佐伯が目を伏せる。
黒川は表情を変えない。
美月だけが、早坂を見た。
真壁が言った。
「早坂さん、指摘は分かる。ただ、言い方が」
早坂は真壁を見る。
「言い方を整えると、何が変わりますか」
真壁は黙った。
早坂は資料に目を戻す。
「私は、寄り添う言葉が嫌いです」
自分で言ってから、少しだけ気づいた。
私は。
資料の話ではなくなっている。
でも、止められなかった。
「寄り添うと言いながら、相手の感情を先に決める言葉が嫌いです」
「優しさの形をして、こちらの逃げ場をなくす言葉が嫌いです」
「不安ですよね、と言われた時点で、不安じゃないとは言いにくくなります」
「傷ついていますよね、と言われた時点で、傷ついていない顔をしにくくなります」
「大丈夫ですか、と聞かれた時点で、大丈夫じゃない人として見られます」
言葉が少し速くなっていた。
会議室の誰も、すぐには入れなかった。
早坂は、そこでやっと止まった。
止まった瞬間、自分が切りすぎたことに気づいた。
でも、もう戻せない。
戻すために謝るのも違う。
謝れば、今度は自分が傷ついた人になる。
それも嫌だった。
近づかれる前に切る人は、強いのではない。
切らなければ、自分の輪郭を保てなかった時間が長すぎただけだ。
桐谷が低く言った。
「早坂さん」
「はい」
「俺、今の“雑な代弁”って言われたの、けっこう刺さったっす」
早坂は桐谷を見た。
桐谷は笑っていなかった。
「はい」
「はいじゃなくて」
桐谷は少しだけ息を吐いた。
「いや、指摘は分かるんすよ」
「はい」
「たぶん俺、軽く言ったし」
「はい」
「でも」
桐谷は言葉を探した。
「今の言い方だと、俺が人の感情を雑に扱うやつ、で終わる感じがしました」
早坂は何も言わなかった。
桐谷は続けた。
「それは、ちょっときついっす」
会議室が静かだった。
いつもの桐谷なら、ここで笑いを入れたかもしれない。
「メンタルにダイレクトアタックっすね」とか。
「雑代表、退場します」とか。
でも今日は言わなかった。
言わないまま、早坂を見ていた。
その視線から、早坂は逃げられなかった。
美月が静かに言った。
「早坂さん」
早坂は美月を見た。
「はい」
「今の早坂さんは、桐谷さんを“優しい言葉で人を囲う側”に置いたように見えました」
早坂の喉が、少しだけ固くなった。
美月は続けた。
「違っていたら、すみません」
早坂は、その言葉にも少し苛立った。
違っていたら。
すみません。
逃げ道を置いているようで、こちらに修正を求める言葉にも聞こえる。
でも、美月は続けなかった。
早坂が答えるまで待っていた。
待たれるのも嫌だった。
急かされるのも嫌だった。
自分でも面倒だと思った。
「置きました」
早坂は言った。
桐谷が少し目を伏せた。
早坂は続けるしかなかった。
「私は、桐谷さんの発言を、そういうものとして受け取りました」
「はい」
桐谷は頷いた。
「でも、桐谷さん自身を見たわけではありません」
その言葉が出た瞬間、早坂は自分の胸の奥が少し嫌な形に沈むのを感じた。
美月が言った。
「それは、私が早坂さんに言われたことと、少し似ています」
会議室の空気が変わった。
人の痛みに、先に名前をつける人です。
分かる顔をする人です。
早坂が美月に投げた言葉。
それが、今度は早坂の前に戻ってきた。
早坂は、何も返せなかった。
桐谷が小さく言った。
「ややこしいっすね」
誰も笑わなかった。
桐谷も笑わなかった。
「切るのも、分かるんすよ」
桐谷は言った。
「俺も笑わせるから」
早坂は桐谷を見た。
「重くなる前に笑わせる」
桐谷は続けた。
「早坂さんは、近づかれる前に切る」
一拍。
「やってることは違うけど、逃げ方としては近いのかもしれないっすね」
早坂の指が止まった。
逃げ方。
その言葉が、想像していたより深く入った。
自分の言葉は、逃げではないと思っていた。
守っているだけだと思っていた。
近づかれないための線だと思っていた。
でも、線はいつも相手だけを止めるわけではない。
自分もそこから出られなくなる。
人を遠ざける言葉は、自分を守る。
でも使い続けると、自分の方が誰にも届かない場所へ閉じ込められる。
午後、早坂は一人で会議室に残った。
資料を直すためではなかった。
ただ、少し人のいる場所に戻れなかった。
スマホを見る。
高瀬主任からのメッセージは、まだ残っている。
凪さん、あの時は言いすぎたと思ってる。
でも、こっちも大変だったんだよ。
早坂は、今度は返信欄を開いた。
何が大変だったんですか。
消した。
私が何を言いすぎたんですか。
消した。
今さら何ですか。
消した。
あなたたちは、話していいと言った後の私を扱えなかっただけです。
打って、しばらく見た。
強い言葉だった。
正しい気もした。
でも、その文の中で、高瀬主任たちは「あなたたち」になっていた。
ひとまとめだった。
優しい人たち。
本音で話そうと言う人たち。
近づいてくる人たち。
気持ち悪い人たち。
早坂は、桐谷の顔を思い出した。
今の言い方だと、俺が人の感情を雑に扱うやつ、で終わる感じがしました。
美月の言葉も戻った。
桐谷さんを“優しい言葉で人を囲う側”に置いたように見えました。
早坂は、返信欄の文章を消した。
何も送らなかった。
ただ、消した。
それだけで、負けた気がした。
でも、送ったらもっと違うものを失う気もした。
会議室のドアが少し開いた。
優作だった。
「あ」
優作はすぐに止まった。
「すみません。使っていると思わなくて」
早坂はスマホを伏せた。
「大丈夫です」
言ってから、自分で嫌になった。
大丈夫です。
一番嫌いな、扱いやすい返事。
優作は入ってこなかった。
「入ってもいいですか」
早坂は少しだけ黙った。
「資料ですか」
「はい。午後の修正版を置きに来ました」
「どうぞ」
優作は会議室に入り、机の端に資料を置いた。
それだけだった。
近づいてこない。
聞いてこない。
何があったんですか、と言わない。
さっきの会議のことも、スマホの画面のことも、何も聞かない。
早坂は、それが少しだけ腹立たしかった。
自分で聞くなと言っておいて、聞かれないことに腹を立てる。
本当に面倒だと思った。
優作はドアの方へ戻ろうとした。
早坂は、なぜか呼び止めていた。
「中村さん」
「はい」
「私、さっき桐谷さんを雑に扱いました」
優作は振り返った。
すぐに何か言わなかった。
それが、また腹立たしかった。
でも、少し助かった。
早坂は続けた。
「優しい人たち、という箱に入れました」
「はい」
「自分がされたことと、似たことをしました」
優作は、短く頷いた。
「はい」
早坂は少しだけ眉を寄せた。
「そこは否定しないんですね」
「否定したら、早坂さんが今言ったことを消す気がしました」
早坂は黙った。
優作の言葉は、きれいに見えた。
また丁寧な顔で近づいてくる言葉かもしれない。
そう思った。
でも、今はそこまで嫌ではなかった。
嫌ではないことが、嫌だった。
早坂は言った。
「私は、優しい人たちが嫌いです」
「はい」
「でも、ひとまとめにしたら、それも暴力ですね」
優作はすぐには答えなかった。
「そうかもしれません」
早坂は少しだけ笑った。
笑いではなかった。
「中村さんたちは、そういう言い方をしますよね」
「そうかもしれません」
「また」
「はい」
優作は少し困ったように言った。
「今、他の言い方が出ません」
早坂は、少しだけ息を吐いた。
「別にいいです」
その言葉は、許しではなかった。
ただ、今はそれ以上いらないという線だった。
優作は頷いた。
「分かりました」
早坂が顔を上げる。
優作はすぐに言い直した。
「……そうします」
早坂は何も言わなかった。
優作は会議室を出ていった。
ドアが閉まる。
早坂は、伏せていたスマホをもう一度見た。
返信欄は空だった。
高瀬主任のメッセージだけが残っている。
こっちも大変だったんだよ。
早坂は、しばらくその文字を見た。
高瀬主任も、何かから自分を守っていたのかもしれない。
チームを回すために。
上から責められないために。
誰かが辞めないように。
自分が悪者にならないように。
そこまで考えて、早坂はすぐに画面を伏せた。
分かりたくない。
分かってしまうと、怒りが少し汚れる。
相手にも事情があったと思った瞬間、自分が受けた扱いまで薄まる気がする。
それが嫌だった。
早坂は、高瀬主任に返信しなかった。
桐谷にも謝らなかった。
美月にも何も言わなかった。
優作に話したことも、誰にも言わなかった。
ただ、午後の資料にコメントを入れた。
安心して、という表現は削除。
発言後の扱いを明記すること。
それは仕事の指摘だった。
でも、その赤字の下に、早坂自身の古い傷が少し滲んでいた。
誰にも見せたくないのに。
見せたくないものほど、言葉に出てしまうことがある。
早坂はコメントを保存した。
保存してから、少しだけ手が止まった。
近づかれる前に切る。
そうやって守ってきた。
でも、切った相手にも血が出る。
その当たり前のことを、早坂は今日、少しだけ見てしまった。
見てしまっただけだった。
謝れたわけではない。
変われたわけでもない。
近づけるようになったわけでもない。
ただ、自分の刃が自分のためだけにあるわけではないことを、知ってしまった。
それが、ひどく邪魔だった。
第67話へ続く。