『やさしさ迷惑65/100』

記事
学び
第65話
話していい場所ほど、話した後が怖い

前話:真壁は、場を回すことで生きてきた人だった。父の沈黙と母の不安の間に入り、部活でも職場でも、誰かの言葉を別の誰かへ渡してきた。役員報告が前倒しになり、真壁はまた全員を動かそうとした。けれど、優作たちは少しずつ自分の役割を持ち、真壁一人で場を持たずに済んだ。会議室を出る前、真壁は斜めになった椅子を直さなかった。その椅子は、斜めのまま残った。

早坂凪のスマホが震えたのは、昼休みの終わりだった。

通知だけが、画面に浮かんだ。

高瀬主任。

早坂は、その名前を見た瞬間、指を止めた。

もう主任ではない。

もう同じ会社でもない。

それでも、スマホに表示された名前は、昔の肩書きのまま残っていた。

凪さん、久しぶり。
少し相談したいことがあって。

早坂は画面を伏せた。

返信しない。

削除もしない。

ただ、伏せる。

それだけでいいはずだった。

でも、画面を伏せても、名前は頭の中に残った。

高瀬主任。

話しやすい上司だった。

そう見える人だった。

前職の会議室には、いつも明るいポスターが貼ってあった。

心理的安全性を大切に。

本音で話せるチームへ。

違和感は、組織の財産です。

早坂は、その言葉を最初、馬鹿にしなかった。

むしろ、少しだけ信じた。

前の会社に入ったばかりの頃、早坂はまだ今ほど刺すように話さなかった。

言葉は短かったけれど、今より少しだけ柔らかかった。

笑えない時に笑わないだけで、怒っているわけではなかった。

違和感がある時に黙れないだけで、壊したいわけではなかった。

ある会議で、若手向け研修の企画書が出た。

資料には、こう書かれていた。

若手社員の主体性を高めるため、率直な意見交換の場を設ける。

早坂は資料を見て、手を挙げた。

「この設計だと、若手は本音を言いにくいと思います」

会議室が少し止まった。

高瀬主任はすぐに笑った。

「いいね。そういう率直な意見がほしかった」

早坂は、少しだけ安心した。

高瀬主任は続けた。

「どこが気になる?」

早坂は言った。

「上司が同席する場で、本音で話してくださいと言われても、本音を言う方がリスクを取ることになります」

誰かが頷いた。

「確かに」

別の誰かも言った。

「そういう視点、大事だね」

高瀬主任は、ホワイトボードに早坂の発言を書いた。

本音発言の心理的ハードル。

その文字を見た時、早坂は少しだけ変な気持ちになった。

自分の言葉が、早速きれいな項目になっていた。

でも、その時はまだ、それが嫌だとまでは思わなかった。

むしろ、役に立ったのだと思った。

会議後、高瀬主任は早坂に言った。

「凪さん、よく言ってくれたね」

早坂は「いえ」と答えた。

「こういう場で言える人、貴重だから」

その言葉も、少し嬉しかった。

言ってもいい場所なのだと思った。

ここでは黙らなくていいのだと思った。

だから次も言った。

「無理しないでと言いながら、断った人が評価される仕組みになっていません」

「あなたのためと言う前に、本人に確認した方がいいと思います」

「話しやすい場にしたいなら、話した後にどう扱うかを先に決めた方がいいと思います」

そのたびに、会議室では誰かが頷いた。

「大事だね」

「その観点、抜けてたね」

「言ってくれてありがとう」

早坂は、言ってもいいのだと思った。

言ってほしいのだと思った。

言わない方が不誠実なのだと思った。

でも、変わったのは会議の中だけだった。

会議の外では、少しずつ違っていった。

共有される資料が、少し遅れるようになった。

雑談の輪が、早坂の席の少し手前で終わるようになった。

ランチの予定が、あとから耳に入るようになった。

会議の招待に、自分だけ入っていないことが増えた。

理由は、いつもきれいだった。

今回は人数を絞っていて。

凪さんは別件が忙しそうだったので。

まだ検討段階だから。

後で共有しようと思っていました。

誰も、早坂を外しますとは言わなかった。

誰も、あなたは面倒ですとは言わなかった。

ただ、早坂のいないところで話が進むようになった。

話していいよ、と言う人は多い。
でも、話した後のこちらを同じ場所に置いてくれる人は、思っているより少ない。

ある日の夕方、高瀬主任が早坂を会議室に呼んだ。

「凪さん、少しだけいい?」

早坂は資料を持って入った。

高瀬主任は、いつもの柔らかい顔をしていた。

その顔が、もう嫌だった。

「凪さんの意見は正しいと思う」

最初にそう言われた。

早坂は、次に来る言葉が分かった。

正しいと思う。

でも。

高瀬主任は、少しだけ声を落とした。

「でも、言い方で受け取れない人もいるんだよね」

早坂は黙っていた。

「凪さんは悪くないよ」

「はい」

「むしろ、必要なことを言ってくれている」

「はい」

「ただ、チームとしては、もう少し言いやすい空気も大事で」

早坂は、少しだけ顔を上げた。

「私は、言いにくい空気を壊すために言ったつもりでした」

高瀬主任は困ったように笑った。

「そういうところなんだよね」

その一言で、早坂の中の何かが止まった。

そういうところ。

どこなのか。

何なのか。

正しいけれど、強い。

必要だけれど、扱いづらい。

ありがたいけれど、疲れる。

そんな言葉たちが、その一言の裏に全部入っていた。

高瀬主任は続けた。

「凪さんには、もっといい形で伝えてほしいんだよ」

「いい形とは何ですか」

高瀬主任は少し黙った。

「相手が受け取りやすい形かな」

早坂は聞いた。

「相手が傷つかない形ですか」

「うん、まあ」

「それで問題が残るなら、誰のためですか」

高瀬主任の笑顔が、少しだけ固まった。

「凪さん」

その呼び方が、さっきより少し硬かった。

「そういう詰め方をされると、話し合いにならない」

話していいと言ったのに。

本音でいいと言ったのに。

違和感は財産だと言ったのに。

早坂は、その時初めて分かった。

この場所で求められていた本音は、
場を少しよく見せるための本音だった。

本当に場を止める本音ではなかった。

本当に誰かの立場を揺らす本音ではなかった。

会議室の壁には、まだポスターが貼ってあった。

心理的安全性を大切に。

早坂は、それを見た。

安全だったのは、話す側ではなかった。

聞く側だった。

本音で話そうと言われた場所で傷つくのは、本音を出した瞬間ではない。
その後、周りの扱いが静かに変わっていく時だ。

数週間後、早坂は重要な企画会議に呼ばれなかった。

理由は、あとから知らされた。

「今回は初期検討だから」

その初期検討で、大枠は決まっていた。

早坂が気づいた時には、もう直せない形になっていた。

「凪さんなら、後からでも整えられると思って」

そう言われた。

整える。

言ってほしい時だけ呼ばれる。

でも、決める場所にはいない。

早坂はその日、初めて会議室で笑った。

短く。

自分でも驚くくらい冷たい笑いだった。

「便利ですね」

そう言った。

場が止まった。

高瀬主任が言った。

「そういう言い方をするから、みんな構えるんだよ」

早坂は頷いた。

「分かりました」

分かっていなかった。

分かりたくもなかった。

ただ、その日から早坂は、最初に切るようになった。

傷つく前に。

外される前に。

優しい言葉で近づかれる前に。

「気持ち悪いです」

「つもりの話ですか」

「分からなくていいです」

「人の中に入ってこないでください」

そう言えば、相手は一歩引く。

一歩引かせれば、自分の場所は守れる。

近づかれるより、嫌われる方がましだった。

話していい場所ほど、話した後が怖い。

早坂はそれを、体で覚えた。

昼休みが終わった。

早坂はスマホをもう一度見る。

高瀬主任からの通知は、そのまま残っている。

少し相談したいことがあって。

相談。

その言葉を見るだけで、早坂は口の奥が苦くなった。

相談は、いつもこちらの言葉を借りに来る。

でも、言った後のこちらまでは持っていかない。

早坂は返信欄を開いた。

何の件ですか。

打って、消した。

お久しぶりです。

消した。

対応できません。

それも消した。

結局、何も返さなかった。

午後の会議で、優作が資料を共有していた。

オンボーディング資料の確認。

未確定項目はまだ残っている。

美月は必要な範囲だけ見ている。

黒川は、表にしすぎないようにしている。

桐谷は軽口を飲み込む回数が増えた。

真壁は、少しだけ止まる練習をしている。

佐伯は、まだ怒りを持ったまま仕事をしている。

早坂は、その全部を見ていた。

見ていたが、近づかなかった。

優作が言った。

「早坂さん、この部分、違和感ありますか」

その聞き方は、丁寧だった。

早坂は資料を見る。

たしかに、違和感はあった。

新人に意見を求める場面の説明文。

率直に話してください。

安心して発言してください。

どこかで見た言葉だった。

早坂は少しだけ黙った。

会議室の誰かが、その沈黙を見た気がした。

早坂は顔を上げた。

「あります」

優作は頷いた。

「お願いします」

早坂は言った。

「安心して発言してください、は消した方がいいです」

桐谷が少し目を上げた。

「だいぶ切りますね」

早坂は続けた。

「安心かどうかは、言われた側が決めることです」

黒川がメモを取る。

美月は画面を見たまま、少しだけ指を止めた。

早坂は続けた。

「発言後に不利益な扱いをしないこと」

「発言内容を本人の評価や性格に直結させないこと」

「その保証が書けないなら、安心してとは言わない方がいいです」

会議室が少し静かになった。

優作は言葉を探していた。

早坂は、その顔を見た。

また、聞かれる。

なぜそこまで言うのか。

何かあったのか。

前職で何をされたのか。

そういう顔に見えた。

優作は、言わなかった。

代わりに、資料に目を戻して言った。

「文面、直します」

それだけだった。

早坂は少しだけ拍子抜けした。

踏み込まれなかった。

救われもしなかった。

ただ、資料だけが直された。

その距離が、少しだけ落ち着かなかった。

落ち着かなかったことに、早坂は腹が立った。

自分で線を引いた。

近づくなと言った。

なのに、近づかれないと、それはそれで胸の奥が静かに痛む。

面倒くさい。

早坂は、自分にそう思った。

会議が終わったあと、スマホがまた震えた。

高瀬主任。

凪さん、あの時は言いすぎたと思ってる。
でも、こっちも大変だったんだよ。

早坂は、その文を見た。

あの時。

どの時だ。

言いすぎた。

誰が。

こっちも大変だった。

知らない。

知りたくない。

早坂はスマホを伏せた。

でも、指は少しだけ震えていた。

怒りではない。

悲しみでもない。

名前をつけると、また誰かに触られそうなものだった。

早坂は、その震えを机の下に隠した。

会議室の外では、桐谷が何かを言いかけて、やめていた。

黒川は資料を閉じずに考えている。

美月は人の顔を見ないようにしている。

優作は、見ないようにしながら、まだ見ている。

早坂は思った。

みんな、面倒くさい。

そして、自分も同じくらい面倒くさい。

話していい場所ほど、話した後が怖い。

でも、話さないままでいることにも、もう飽きていた。

それでも早坂は、まだ返信しなかった。

第66話へ続く。
サービス数40万件のスキルマーケット、あなたにぴったりのサービスを探す