第62話
笑ったら、なかったことになる
前話:桐谷は、重い空気を笑いで戻してきた。父の沈黙、母の作り笑い、食卓の箸の音。子どもの頃から、笑わせれば家は少しだけ壊れずに済んだ。けれどその笑いは、いつの間にか自分自身の怒りや苦しさまで消す方法になっていた。桐谷は給湯室で優作に「笑わせないと、息できなかったんだと思う」と言った。だが、会議室に戻る前には、もう笑わせる言葉を探していた。
桐谷は、結局、笑わせた。
午後の確認会。
資料の進行は悪くなかった。
佐伯の三ページ目は直っている。
美月の指摘も、必要な範囲に収まっている。
黒川は、表にしすぎないように、何度か言葉を止めていた。
真壁は進行している。
優作は、余計な意味を拾いに行かないようにしている。
早坂は相変わらず、誰にも寄らない。
それなのに、空気はまだ重かった。
重さが、会議室のテーブルに薄く積もっている。
誰かが声を出すたびに、その上に指の跡がつく。
すぐには戻らない。
桐谷は、それが嫌だった。
嫌というより、体が落ち着かなかった。
重い。
長い。
このままだと、誰かが黙る。
誰かが立てなくなる。
誰かがいなくなる。
そこまで考えて、桐谷は反射的に言った。
「このチーム、オンボーディング資料の前に、俺ら用の取扱説明書作った方がよくないっすか」
一瞬、間があった。
それから、桐谷自身が少し笑った。
笑うしかなかった。
真壁が小さく息を吐いた。
桐谷の方を見て、ほんの少しだけ口元を緩めた。
「それは否定できないな」
桐谷は続けた。
「黒川さんは“困ったらExcelに逃げます”って書いといて」
黒川が真顔で言った。
「逃げている認識はありません」
「そこも太字で書いときます」
桐谷がそう言うと、桐谷の口元につられて、佐伯が少しだけ笑った。
本当に少しだけ。
美月も、目元だけがわずかに動いた。
空気が少し緩んだ。
桐谷は、助かったと思った。
自分が。
その瞬間に気づいてしまった。
自分が、助かったのだ。
会議室の重さに耐えられなくて、自分が先に笑いを入れた。
誰かのために見えて。
場のために見えて。
本当は、自分が息をしたかった。
桐谷は、続きを言おうとした。
「中村は“謝りすぎ注意”で」
いつもの流れなら、そこまでいく。
優作が苦笑して、真壁が止めて、桐谷が「いや事実じゃん」と返す。
軽くなる。
戻る。
でも、桐谷は言わなかった。
言ったら、また誰かの痛みに触る。
優作の謝罪癖を、笑いの中に入れる。
佐伯の怒りも、美月の崩壊も、黒川の整理も、全部、取扱説明書という冗談にまとめてしまう。
それは楽だった。
たぶん、かなり楽だった。
だから、危なかった。
笑いは痛みをやわらげる。
でも、痛みがそこにあったことまで消してしまう笑いもある。
会議は少し進んだ。
資料の順番が決まる。
問い合わせ先の表記が直る。
ケース集の説明文が整う。
その間、桐谷は何度も言葉を飲んだ。
ここで一言入れれば軽くなる。
ここで軽口を挟めば、佐伯の肩が下がるかもしれない。
ここで美月が少し笑えば、みんな安心するかもしれない。
その考えが浮かぶたび、桐谷は自分の口を閉じた。
閉じた口の中で、言わなかった冗談が腐っていく気がした。
会議後、桐谷は廊下で佐伯に声をかけられた。
「桐谷さん」
「ん?」
佐伯は少し迷っていた。
桐谷は反射的に言いそうになった。
なになに、告白?
言わなかった。
佐伯は言った。
「さっきの、取扱説明書のやつ」
「おう」
「少し、楽でした」
桐谷は、一瞬だけ安心した。
やっぱり。
笑わせてよかった。
そう思った。
でも、佐伯は続けた。
「でも」
桐谷の胸が、少しだけ固くなった。
「少し、怖かったです」
「怖い?」
「はい」
佐伯は目を伏せた。
「笑ったら、昨日までのことが少し薄くなる気がして」
桐谷は、何も言えなかった。
佐伯は言葉を探した。
「桐谷さんが悪いという話ではないです」
その前置きが、逆に痛かった。
「でも、笑うと楽になります」
「うん」
「楽になると、自分が何に怒っていたのか、少し分からなくなります」
桐谷は、廊下の壁を見た。
佐伯は続けた。
「僕、まだ怒っていたいんだと思います」
「……うん」
「でも、笑うと、怒っている僕が面倒な人みたいになります」
その言葉に、桐谷は息を止めた。
佐伯は慌てて言った。
「すみません、責めたいわけじゃ」
「いや」
桐谷は遮った。
声が少し低くなった。
「それ、言ってくれていい」
佐伯は黙った。
桐谷は笑おうとした。
でも、笑ったらまた終わる気がした。
「俺さ」
桐谷は言った。
「笑ったら、なかったことになると思ってるとこあるんだわ」
佐伯は顔を上げた。
「なかったこと、ですか」
「うん」
桐谷は廊下の床を見た。
「笑ったら、怒ってないことにできる」
「はい」
「笑ったら、傷ついてないことにできる」
「はい」
「笑ったら、誰も悪くない感じにできる」
佐伯は何も言わなかった。
桐谷は、少しだけ口元を歪めた。
「便利なんだよ、笑いって」
その言い方は、冗談ではなかった。
高校二年の冬だった。
桐谷には、悠人という友人がいた。
部活が同じで、昼休みもよく一緒にいた。
悠人は、桐谷の冗談でよく笑った。
笑い方が大きくて、周りまで巻き込むやつだった。
ある日の放課後、悠人が教室に残っていた。
外はもう暗かった。
桐谷が「帰んねえの」と聞くと、悠人は机に肘をついたまま言った。
「家、戻りたくない」
いつもの軽い愚痴だと思った。
桐谷は鞄を肩にかけながら言った。
「ついに反抗期デビューか。遅咲きすぎるだろ」
悠人は少し笑った。
桐谷は安心した。
笑った。
なら、大丈夫。
そう思った。
でも、悠人はそのあと言った。
「親、別れるっぽい」
桐谷は固まった。
本当は、そこで黙るべきだった。
聞くべきだった。
何もできなくても、隣に座るべきだった。
でも、沈黙が怖かった。
悠人が泣くかもしれない。
自分が何も言えないかもしれない。
その時間に耐えられない。
だから桐谷は、また笑わせた。
「マジか。家庭内ドラマ、急にシーズン2入ったな」
悠人は笑った。
ちゃんと笑った。
だから桐谷は助かった。
その日は、二人でコンビニに寄って帰った。
何も深い話はしなかった。
次の日も、悠人は普通だった。
普通に笑った。
普通に部活に来た。
普通に桐谷の冗談に乗った。
でも、その週から、悠人は少しずつ桐谷に重い話をしなくなった。
卒業式の日、悠人は言った。
「ケイはさ」
「ん?」
「軽くしてくれるから助かったよ」
桐谷は笑った。
「だろ? 俺、軽量化のプロだから」
悠人も笑った。
それから、少しだけ言った。
「でも、話すのやめたこともある」
桐谷は、その言葉を笑いにできなかった。
悠人は続けた。
「笑ってくれて助かったんだけど」
一拍。
「笑われたくない話もあった」
そのあと、悠人は別の友人に呼ばれて行った。
桐谷は卒業式の体育館の端で、一人で笑った。
誰も見ていないのに。
声は出なかった。
その時から、桐谷は知っていた。
自分の笑いは、誰かを救ったことがある。
でも同じ笑いで、誰かの言葉を閉じたこともある。
知っていたのに、やめられなかった。
笑わせれば、その場は進む。
笑わせれば、みんな戻れる。
笑わせれば、自分が無力だとバレない。
笑った人が救われたのか、笑わせた人が救われたのか。
その境目を見ないまま使う笑いは、やさしい顔をした上書きになる。
廊下で、桐谷は佐伯を見た。
「さっきのは」
声が少しだけ詰まった。
「俺が楽になりたかったんだと思う」
佐伯は何も言わなかった。
桐谷は続けた。
「佐伯を笑わせたかったのもある」
「はい」
「でも、それだけじゃない」
「はい」
「重いの、俺が無理だった」
佐伯は、少しだけ頷いた。
「分かります」
桐谷は、少し笑いそうになった。
分かります、って言うとまた美月に怒られるぞ。
そんな軽口が浮かんだ。
でも、言わなかった。
佐伯も、言ったあと少し気づいたような顔をした。
二人とも、そこで黙った。
沈黙は気まずかった。
でも、前より少しだけ、逃げなくてもいい気がした。
その日の夕方、桐谷は美月に呼び止められた。
「桐谷さん」
「はい」
美月相手には、自然と少しだけ丁寧になる。
美月は資料を持っていた。
「今日の会議中の言葉ですが」
「取扱説明書?」
「はい」
桐谷は首の後ろを触った。
「まずかったっすよね」
美月は少し考えた。
「助かった部分もあります」
桐谷は顔を上げた。
「でも、怖かった部分もあります」
「佐伯にも言われました」
「そうですか」
美月は、ほんの少しだけ目を伏せた。
「桐谷さんの笑いは、場を戻します」
「はい」
「戻ることが必要な時もあります」
「はい」
「でも」
美月は桐谷を見た。
「戻ってはいけない場所まで、戻してしまう時があります」
その言葉は、静かに刺さった。
桐谷は、逃げるための冗談を探した。
見つかった。
いくつも。
でも、使わなかった。
「俺」
桐谷は言った。
「戻したかったんだと思います」
美月は黙って聞いていた。
「みんなが普通に話してるところに」
「はい」
「佐伯が普通にして」
「はい」
「相沢さんも普通に刺して」
美月の眉が少し動いた。
「いや、今のはすみません」
桐谷はすぐに言った。
でも、謝ったあとに気づいた。
また軽くしようとした。
謝罪の形で。
美月はそれを責めなかった。
「戻りたいと思うのは、悪いことではないと思います」
桐谷は少しだけ驚いた。
美月は続けた。
「でも、戻りたい人がいる時、戻りたくない人もいます」
桐谷は黙った。
「まだ怒っていたい人」
「はい」
「まだ壊れていることを認めたくない人」
「はい」
「まだ何も名前をつけたくない人」
美月の声は、ほんの少しだけ自分に向いていた。
桐谷はそれを見た。
でも、言わなかった。
「笑いは」
美月は少しだけ言葉を探した。
「戻るための力になることがあります」
「はい」
「でも、戻ることを急がせる力にもなります」
桐谷は、ゆっくり頷いた。
「はい」
美月は、それ以上言わなかった。
桐谷も、それ以上笑わなかった。
退勤前、桐谷は自分の席でチャットを開いた。
チームのグループチャット。
何か送ろうとしていた。
今日の取扱説明書発言、軽くしすぎました。すみません。
違う。
それだと謝って終わる。
今日の会議で笑わせようとしたのは、俺が重さに耐えられなかったからです。
重い。
重すぎる。
これを送ったら、今度はみんなが桐谷を心配する。
それも違う。
桐谷はしばらく画面を見ていた。
そして、何も送らなかった。
その代わり、ノートの端に書いた。
笑わせる前に、一回見る。
書いて、すぐに線を引いた。
標語みたいで気持ち悪かった。
黒川のことを笑えない。
桐谷はペンを置いた。
今日、自分は笑わせた。
少し助かった人もいた。
少し消された人もいた。
どちらも本当だった。
それを、いい笑いだったとも、悪い笑いだったとも言えなかった。
会議室を出る時、桐谷はいつものように言いそうになった。
「いやー、今日も重かったっすね」
言えば、誰かが少し笑う。
たぶん優作は苦笑する。
真壁は「お前な」と言う。
黒川は反応に困る。
それで一日が終わる。
でも、桐谷は言わなかった。
言わないまま、鞄を持った。
その沈黙は、桐谷には少し重すぎた。
重すぎて、息がしづらかった。
でも、今日のところは、その重さを誰かの笑いに変えずに持って帰るしかなかった。
第63話へ続く。