第63話
止まれない人
前話:桐谷は、重い空気を笑いで戻してきた。子どもの頃から、父の沈黙、母の作り笑い、食卓の箸の音を、冗談でやわらげてきた。笑えば場は救われる。でも、笑えば誰かの痛みまでなかったことになることがある。桐谷は、会議室を出る時、いつものように軽口を言わなかった。その沈黙は少し重すぎた。それでも、その重さを誰かの笑いに変えずに持って帰るしかなかった。
真壁は、会議室の椅子を直していた。
誰に言われたわけでもない。
一脚だけ少し斜めになっていた。
資料を置く位置と、画面を見る角度が悪くなる。
それだけのことだった。
真壁は椅子の背を持って、ほんの少しだけ内側へ向けた。
机の上のHDMIケーブルを丸める。
ホワイトボードのマーカーを三本並べる。
空調の温度を一度上げる。
誰かが寒いと言う前に。
誰かが暑いと言う前に。
会議が始まる前に、会議が止まりそうなものを、先に退けておく。
真壁はそれを、仕事だと思っていた。
九時十二分。
部長からチャットが入った。
オンボーディング資料の件、今日中に役員報告用の進捗を出してください。
現場側から「いつ終わるのか分からない」と言われています。
一度、真壁さんの方で整理をお願いします。
真壁は画面を見た。
一度、真壁さんの方で整理をお願いします。
その文章は、何もおかしくなかった。
むしろ、いつもの文章だった。
だから、余計に体に入ってきた。
整理する。
受ける。
まとめる。
間に立つ。
誰かが直接ぶつからないように、言葉を少し変えて運ぶ。
真壁は返信欄に指を置いた。
承知しました。午前中に状況確認し、午後に一度共有します。
打って、送った。
早かった。
早すぎた。
考える前に、体が返事をしていた。
会議室のドアが開く。
優作が入ってきた。
「おはようございます」
「おう」
佐伯が入ってくる。
黒川が入ってくる。
桐谷が、少し遅れて「ギリセーフっすね」と言いかけて、やめる。
美月が資料を持って入る。
早坂は最後に入り、誰にも合わせない位置に座る。
真壁は、全員の顔を一度ずつ見た。
見たくて見たわけではない。
見なければ始められなかった。
佐伯の目元。
美月の指。
優作の肩。
桐谷の口元。
黒川の資料。
早坂の姿勢。
全部を見て、どこから始めれば場が崩れにくいかを考える。
「始めるぞ」
真壁が言うと、会議室が動いた。
その瞬間だけ、少し安心した。
場は動いている。
止まっていない。
真壁はそれだけで、息ができた。
昔から、そうだった。
家でも、止まる前に動いた。
母はよく、台所から真壁を呼んだ。
「恒一、ちょっと」
父には聞こえない声だった。
真壁が行くと、母は鍋の火を弱めながら言った。
「お父さん、今日ちょっと機嫌悪そうだから」
それだけだった。
何をしろとは言わない。
でも、真壁には分かった。
話を振って。
弟を早く風呂に入れて。
夕飯の時に、変な空気にならないようにして。
父は怒鳴る人ではなかった。
ただ、黙る人だった。
その沈黙があると、母の動きが少し早くなる。
弟の声が小さくなる。
テレビの音だけが浮く。
真壁は、食卓で父に話しかけた。
「今日、ニュースでやってたやつ見た?」
父が短く答える。
それだけで、少し空気が動く。
母がほっとした顔をする。
弟が唐揚げに箸を伸ばす。
真壁は、そのたびに思った。
自分が先に動けば、場は壊れない。
自分が何か言えば、誰かが黙り込まずに済む。
自分が間に入れば、家は普通に見える。
それは、子どもの仕事ではなかった。
でも、誰も子どもにやらせているとは思っていなかった。
母は言った。
「恒一は本当に頼りになるね」
真壁は嬉しかった。
嬉しかったから、次も動いた。
そしてそのうち、動かない自分の方が怖くなった。
頼りになる子は、頼られた瞬間だけ少し大人になれる。
でも、大人にされた子どもは、子どもに戻る場所を少しずつ失っていく。
中学では、部活で副キャプテンになった。
キャプテンではなかった。
でも、顧問はよく真壁を呼んだ。
「真壁、あいつら見といてくれ」
「あの二人、また揉めそうだから間入って」
「キャプテンが熱くなったら、お前が抑えろ」
真壁は、分かりましたと言った。
いつもそう言った。
部室で後輩が泣いていれば、話を聞いた。
キャプテンが怒りすぎれば、少し外に連れ出した。
顧問の雑な指示を、後輩が受け取れる言葉に直した。
誰かの怒りをやわらげる。
誰かの不満をまとめる。
誰かの沈黙を、次に進める。
それがうまくなるほど、真壁は褒められた。
「お前がいると助かる」
その言葉は、いつも同じところに刺さった。
助かる。
そう言われると、断れなかった。
助けない自分が、悪い人に見えるからではない。
助けなかった後の場が、怖かった。
誰かが泣く。
誰かが怒る。
誰かが辞める。
誰かが戻れなくなる。
その時、きっと自分は思う。
あの時、間に入っておけばよかった。
あの時、少しだけ言えばよかった。
あの時、自分が止めておけばよかった。
その後悔が怖かった。
だから、真壁は止まる前に動いた。
高校でも、大学でも、会社に入ってからも、それは変わらなかった。
上司の言葉が荒ければ、部下に渡す前に削る。
現場の不満が強ければ、上に上げる前に整える。
誰かが泣きそうなら、会議の進行を変える。
誰かが怒りそうなら、議題の順番を入れ替える。
誰かが黙ったら、次の人に振る。
それは技術になった。
そして、技術になったものは、周りから感情に見えなくなる。
真壁さんなら大丈夫。
真壁さんがいるから進む。
真壁さん、お願いします。
真壁はいつも頷いた。
頷くのが早かった。
早すぎるくらいだった。
今もそうだった。
会議室で、真壁は部長からのチャットを開いたまま、議題を進めていた。
「今日中に、役員報告用の進捗が必要だ」
空気が少し重くなる。
桐谷が小さく言った。
「今日中っすか」
黒川が資料を見る。
「現状のまま報告すると、未確定項目が多いです」
佐伯が言う。
「問い合わせ先一覧は、まだ人事確認が残っています」
美月は資料を見たまま言った。
「冒頭文も、読み手起点の確認がまだ不十分です」
早坂は短く言った。
「終わったことにして出すなら、意味がありません」
優作は何か言おうとして、止まった。
真壁は全員の言葉を聞いた。
全部、正しい。
全部、分かる。
でも、今日中に報告は出さなければならない。
誰かが上に言わなければならない。
現場側からの不満も受けなければならない。
チームの状態も見なければならない。
資料も進めなければならない。
真壁はペンを持ち直した。
「分かった」
全員が真壁を見た。
「未確定項目は未確定のまま出す。ただし、進捗として見える形にはする」
黒川が頷く。
「ステータス管理表を作ります」
「黒川、表は頼む。ただ、感情の整理じゃなく、資料進捗だけでいい」
黒川は一瞬止まり、頷いた。
「はい」
「桐谷、現場側に出す文面を一度柔らかくしすぎずに作ってくれ」
「了解っす」
「佐伯、人事確認の残り、件数だけ拾えるか」
「はい」
真壁は美月を見た。
一瞬だけ、言葉を選んだ。
「相沢」
「はい」
「冒頭文は、文章上の未確定箇所だけでいい。人の受け取りまでは、今ここでは見なくていい」
美月の指が、少しだけ止まった。
でも、美月は頷いた。
「分かりました」
真壁は早坂を見た。
「早坂さん、未確定のまま出すことで読み手に誤解が出る部分だけ、見てください」
早坂は頷いた。
「分かりました」
最後に優作を見た。
「中村、全体をつなげる。俺と一緒に見るぞ」
優作は顔を上げた。
「はい」
会議室は動き出した。
動き出した。
そのことに、真壁はまた少しだけ安心した。
けれど、安心した瞬間、胸の奥が鈍く痛んだ。
またやっている。
全員の状態を見て、誰かが止まらないように役割を振って、場を動かしている。
それが必要なのは分かっている。
でも、自分が止まりたい時は、いつ止まればいいのか。
その問いは、いつも後回しになる。
後回しにしているうちに、問いそのものが消える。
真壁は自分のメモに、今日中、と書いた。
その下に、報告、と書いた。
その下に、未確定、と書いた。
そして、ふと指が止まった。
疲れた。
そう書きそうになって、やめた。
その文字は、議事メモには入らない。
誰のタスクにもならない。
誰の担当にもできない。
真壁はペンを置いた。
場を回す人は、感情がないわけではない。
ただ、自分の感情を議題にした瞬間、場が止まることを知っている。
会議が終わったあと、優作が残った。
「真壁さん」
「なんだ」
「今の割り振り、かなり無理してませんか」
真壁は資料をそろえながら言った。
「無理はしてる」
優作は言葉を止めた。
真壁は続けた。
「でも、誰かが吸収しないと、上にも下にもそのまま落ちる」
「それを、真壁さんが全部」
「全部じゃない」
真壁は少しだけ強く言った。
優作が黙る。
真壁は、自分の声が硬くなったことに気づいた。
でも、謝らなかった。
今謝ると、優作が困る。
そう思った時点で、また自分は場を見ている。
真壁は苦く笑った。
「全部じゃない。……そう言いたいだけかもしれないな」
優作は何も言わなかった。
真壁は、会議室の椅子を一脚戻した。
また、少し斜めになっていた。
「中村」
「はい」
「俺はたぶん、止まるのが下手なんだ」
優作は静かに聞いていた。
「止まったら、誰かが困ると思ってる」
「はい」
「実際、困ることもある」
「はい」
「だから、正当化できるんだよ」
真壁は椅子の背から手を離した。
「止まれないことを、責任感にできる」
優作の顔が、少しだけ変わった。
真壁は、ドアの方を見た。
「でも、本当は怖いだけかもしれない」
「何がですか」
「俺が止まった時に」
真壁は言葉を探した。
「誰も代わりに場を持たなかったら、ってことが」
会議室の外では、誰かの電話の声がしていた。
仕事は続いている。
誰かが進めている。
誰かが止めている。
誰かが吸収している。
真壁は、もう一度部長からのチャットを見た。
一度、真壁さんの方で整理をお願いします。
真壁は返信済みの文章を見た。
承知しました。
その四文字が、少しだけ遠く見えた。
自分は何度、この四文字で自分を差し出してきたのだろう。
頼られることは嫌いではない。
必要とされることも、たぶん嫌いではない。
でも、頼られた瞬間に断る選択肢が消えるのは、いつからだったのだろう。
真壁はパソコンを閉じた。
閉じても、仕事は終わらない。
止まれない人は、画面を閉じても止まれない。
第64話へ続く。