第61話
笑わせないと、息ができなかった
前話:黒川は、佐伯の怒りや美月の崩壊を表にしようとした。けれど、その整理は人の痛みを項目に変えてしまうものでもあった。黒川は、かつて永井という先輩を救えなかった記憶を抱えていた。表を作ることは、黒川にとって人に近づく方法だった。でも、永井が欲しかったのは「表になる前に聞いてほしかった」ということだった。黒川は初めて、分からないものを分からないまま机の上に置いた。
桐谷は、笑うタイミングを失っていた。
それが、自分でも気持ち悪かった。
会議室の空気は重い。
佐伯は怒っている。
美月は戻らない。
黒川は表を閉じた。
優作は言葉を探して、探したまま止まる。
真壁は進行しようとするたびに、何かを踏みそうになる。
早坂は、誰にも合わせない顔で座っている。
こんな時、いつもの桐谷なら、何か言っていた。
「この空気、換気扇じゃ無理っすね」
「最近の会議、資料より人間の方が重いっす」
「オンボーディング資料作る前に、俺らがオンボーディングされ直した方がいいっすね」
浮かんではいた。
いくつも浮かんでいた。
でも、言えなかった。
言った瞬間、誰かの痛みが薄まる気がした。
薄まれば、場は少し楽になる。
その楽さが、今は怖かった。
会議後、桐谷は給湯室で紙コップに水を入れた。
水の音だけが、やけに大きく聞こえる。
優作が入ってきた。
「桐谷」
「おう」
「さっき、何か言おうとしてた?」
桐谷は笑おうとした。
口角だけが少し動いた。
「バレた?」
「少し」
「いや、まあ」
桐谷は紙コップを持ったまま、壁にもたれた。
「なんか、言ったら終わる気がして」
優作は黙っていた。
「言わなかったら言わなかったで、俺じゃない感じするし」
桐谷は軽く言おうとした。
でも、軽くならなかった。
「むずいな」
それだけ言って、水を飲んだ。
水はぬるかった。
そのぬるさで、急に昔の食卓を思い出した。
父の箸の音が、嫌いだった。
正確には、箸の音が嫌いだったわけではない。
いつもと少しだけ違う音が嫌いだった。
茶碗に当たる音が強い日。
箸を置く音が低い日。
テレビの音だけが大きい日。
母の返事が、いつもより半分遅い日。
そういう日は、家の空気が先に固まった。
父は怒鳴る人ではなかった。
手を上げる人でもなかった。
だから、誰にも説明できなかった。
ただ、黙る。
機嫌の悪さを言葉にしない。
その沈黙が、食卓の真ん中に置かれる。
母は、それを見ないふりをする。
妹は、まだ小さくて気づかない。
桐谷だけが、気づいていた。
気づいているのに、誰もそのことを言わない。
だから、桐谷が先に笑った。
変な声でニュースを読んだ。
味噌汁を飲んで「これ、今日の具、ほぼ海じゃん」と言った。
妹が笑った。
母も少しだけ笑った。
父の箸の音が、ほんの少しだけ戻った。
それで桐谷は覚えた。
笑わせれば、家は壊れない。
笑わせれば、父の沈黙は少し弱くなる。
笑わせれば、母の顔に色が戻る。
笑わせれば、妹は何も気づかないままでいられる。
それは、桐谷にとって救いだった。
最初は、本当に。
「ケイがいると助かるわ」
母はよくそう言った。
台所で、洗い物をしながら。
笑いながら。
その笑い方が、桐谷は少し苦手だった。
本当に助かっている顔ではなかったからだ。
でも、そう言われると、桐谷は次も笑わせた。
助かるなら。
家が戻るなら。
母が笑うなら。
妹が怖がらないなら。
自分が何かを飲み込むくらい、たいしたことではないと思った。
笑わせることは、場を救うことがある。
でも、笑わせなければ壊れる場所で育つと、自分の苦しさまで先に笑いに変えるようになる。
中学に上がる頃には、桐谷はもう自分の怒りを笑いに変えるのがうまくなっていた。
嫌なことを言われても笑った。
からかわれても笑った。
本当は腹が立っても、先に自分でネタにした。
「俺、そういうキャラだから」
その言葉は便利だった。
自分で言えば、相手に決められずに済む。
笑われる前に笑わせれば、負けた感じがしない。
傷つく前にふざければ、傷ついていないことにできる。
でも、夜になると、たまに何も面白くなかった。
布団の中で、昼間に自分が言った冗談を思い出す。
誰かを笑わせた言葉。
自分を雑にした言葉。
怒っていいはずだった場面。
嫌だと言ってよかった場面。
全部、笑いになっていた。
笑いにできた分だけ、どこにも残らなかった。
残らなかったはずなのに、体の中には残った。
桐谷は、眠れない夜にも小さく笑ったことがある。
誰もいない部屋で。
自分の笑い声だけが、変に響いた。
その時、初めて思った。
俺、何してんだろ。
でも次の日には、また笑わせた。
その方が楽だったからだ。
楽というより、それ以外のやり方を知らなかった。
高校の文化祭で、桐谷はクラスの司会を任された。
本番前、担任が言った。
「桐谷がいれば大丈夫だな」
クラスメイトも言った。
「空気やばくなったら頼むわ」
頼むわ。
その言葉を聞くと、体が勝手に動いた。
空気が止まりそうになったら、すぐ言葉を入れる。
誰かが失敗したら、先に自分で笑いにする。
誰かが泣きそうになったら、泣く前に場を軽くする。
それは感謝された。
「助かった」
「桐谷いてよかった」
「お前、ほんと空気読めるよな」
そう言われるたびに、桐谷は少しだけ安心した。
自分には役割がある。
ここにいていい。
でも、誰も聞かなかった。
桐谷が笑えない時、誰が場を持つのか。
桐谷自身が重くなった時、どこに置けばいいのか。
そんなものは、誰の役割にもなっていなかった。
大学生の頃、一度だけ、笑えなかった日がある。
母から電話が来た。
夜の十一時過ぎだった。
父が家を出ていったと言った。
離婚ではなかった。
大きな事件でもなかった。
ただ、しばらく帰らないと言って出ていっただけだった。
母は電話口で笑っていた。
「まあ、いつものことだから」
その笑い方が、昔と同じだった。
本当に助かっている顔ではない笑い。
桐谷は何か言わなきゃと思った。
いつものように。
「親父、遅めの反抗期じゃん」
「家出する年齢、だいぶミスってるな」
そんな言葉が浮かんだ。
でも、言えなかった。
母の笑い声が、急に途切れた。
そして、電話の向こうで母が泣いた。
声を出さずに。
桐谷は、何もできなかった。
何も言えなかった。
笑わせないといけないのに。
笑わせないと、母が壊れるのに。
何か言え。
いつものやつでいい。
くだらないやつでいい。
空気を戻せ。
早く戻せ。
でも、言葉が出なかった。
母はしばらく泣いたあと、言った。
「ごめんね、ケイにこんな話して」
桐谷は、その時も笑おうとした。
「いや、俺、家庭内コールセンターだから」
声が裏返った。
母は少し笑った。
笑った。
桐谷は助かったと思った。
その瞬間、自分が助かったことに気づいた。
母を助けたのではない。
母が泣いている時間に耐えられなくて、自分が助かるために笑わせた。
そのことに気づいたのに、桐谷はその後も笑わせ続けた。
それしかできなかった。
重い空気が苦手なのではない。
重い空気のあとに、誰が黙り、誰が泣き、誰がいなくなるのかを知っているだけだ。
給湯室で、桐谷は紙コップを握っていた。
優作はまだそこにいた。
何か聞きたい顔をしている。
でも聞かない。
最近の優作は、聞かないことを覚えようとしている。
その不器用さが、少し可笑しかった。
桐谷は言った。
「中村」
「うん」
「俺さ」
軽く言うつもりだった。
でも、声が少しだけ低くなった。
「重い空気、苦手なんだと思ってたんだけど」
優作は黙っていた。
「違うかもな」
「違う?」
桐谷は紙コップを潰した。
小さな音がした。
「重い空気のあとに来るやつが嫌なんだわ」
優作はすぐには返さなかった。
「誰かが黙るとか」
桐谷は続けた。
「誰かが泣くとか」
「誰かがいなくなるとか」
言ってから、笑いそうになった。
笑えば、ここで終われる。
優作も少し安心する。
自分も少し戻れる。
でも、笑えなかった。
「だから、先に笑わせる」
桐谷は潰れた紙コップを見た。
「笑わせると、一瞬戻るんだよ」
「場が?」
「場も」
桐谷は少しだけ口を曲げた。
「俺も」
優作は何も言わなかった。
桐谷は、少しだけ助かった。
変な話だった。
何も言われないことで、助かる日がある。
でも、何も言われないと、自分で続けるしかなくなる。
桐谷は、自分で言った。
「笑わせないと、息できなかったんだと思う」
その言葉は、冗談にならなかった。
給湯室の空気が重くなる。
桐谷は反射的に、何かを足したくなった。
「っていう、激重自己分析タイムでした」
言いかけた。
でも、飲み込んだ。
飲み込んだまま、紙コップを捨てた。
優作が言った。
「桐谷」
「ん?」
「今、笑いにしなかったね」
桐谷は少しだけ笑った。
今度は、いつもの笑いではなかった。
「したかったけどな」
「うん」
「めちゃくちゃしたかった」
優作は頷いた。
桐谷は給湯室の出口に向かった。
「戻るわ」
「うん」
「会議室、俺いないとたぶん葬式になるし」
言ってから、桐谷は止まった。
また、やった。
すぐに軽くした。
戻した。
でも、今度は優作も笑わなかった。
桐谷も笑わなかった。
その言葉だけが、給湯室に残った。
葬式。
桐谷は、何をそんなに怖がっているのか分かっていた。
笑いがない場所に残る静けさを、自分はまだ見ていられない。
桐谷は会議室に戻った。
ドアを開ける前に、一度だけ息を吸った。
笑わせる言葉は、いくつも浮かんでいた。
でも、今日はその全部が、少しだけ重かった。
第62話へ続く。