第60話
表になる前に聞いてほしかった
前話:黒川は、佐伯の怒りや美月の崩壊を「感情表明時の対応フロー案」として表にした。佐伯の怒りは発生事象になり、美月の痛みは特定メンバーへの違和感察知依存になった。美月は「私を、項目名にしないでください」と言った。黒川は、かつて永井という先輩を救えなかった記憶を口にした。感情として扱って終わりにした結果、人がいなくなった。だから黒川は整理する。論点にする。けれど、その正しさは、今そこにいる人を消すことがある。黒川は初めて、未整理のものを未整理のまま残した。
黒川は、聞くための表を作っていた。
午前七時三十一分。
昨日より十一分早かった。
ファイル名は、こうだった。
未整理事項_聞き取り項目案.xlsx
黒川は、セルA1に「対象」と打った。
B1に「確認事項」。
C1に「回答」。
D1に「次回対応」。
そこまで打って、指が止まった。
違う。
分かっていた。
これは、また同じことをしている。
聞くための表。
表になる前に聞いてほしかったかもしれない。
永井のメールにあった言葉を、黒川は何年も読んできた。
けれど、今になってもまだ分からなかった。
表になる前とは、どこなのか。
聞くとは、何をすることなのか。
「大丈夫ですか」と聞くことなのか。
「困っていることはありますか」と聞くことなのか。
「何かあれば言ってください」と言うことなのか。
どれも違う気がした。
そして、違うと思った瞬間、黒川はまた項目を作ろうとする。
違うものを避けるために。
間違えないために。
聞くことまで、手順にしようとする。
黒川は、A1からD1までを選択した。
削除。
白いセルだけが残った。
そこに、何も書けなかった。
永井のことを、黒川はよく思い出すわけではなかった。
思い出す、というより、表の中に残っている。
担当者。
確認者。
備考。
期限。
未対応。
保留。
そういう言葉の奥に、永井の席がある。
永井は、黒川の作る表をよく見た。
「黒川くんの表、助かるよ」
何度か、そう言った。
黒川はそのたびに、少しだけ頷いた。
嬉しいとは言わなかった。
嬉しいという言葉を使うほど、近い関係ではなかった。
ただ、その日の表は少し丁寧になった。
罫線をそろえた。
余白を整えた。
備考欄の幅を広げた。
永井はある日、笑って言った。
「黒川くんの表はいいね」
「何がですか」
「誰かを責めてる感じがしない」
黒川は、その意味をうまく受け取れなかった。
永井は続けた。
「誰が悪いかじゃなくて、どこで詰まってるかが見えるから」
その言葉を、黒川は覚えている。
表は、人を責めない。
表は、感情を落ち着かせる。
表は、混乱をほどく。
黒川にとって、表を作ることは、人に近づく方法だった。
声をかけるのは苦手だった。
励ますのも苦手だった。
雑談も長く続かない。
でも、相手の負担を表にすることならできた。
詰まっている場所を見つけることならできた。
誰かを悪者にせず、仕事を動かすことならできた。
それなのに、永井は消えた。
黒川の表は、空席になってから使われた。
それ以来、黒川は早く作るようになった。
早く見つける。
早く分ける。
早く置く。
早く直す。
遅れないために。
もう一度、空席になってから正しさを出す人間にならないために。
表は、人を責めないために役に立つ。
でも、表になる前の震えまで消してしまうことがある。
十時。
昨日の続きの資料確認が始まった。
黒川は、今日は何も共有しなかった。
画面にはオンボーディング資料だけが映っている。
佐伯が三ページ目を説明する。
美月が必要な表現だけを指摘する。
優作は、確認先の導線を見ている。
桐谷は、軽口を言いかけて、一度飲み込んだ。
真壁は進行を止めすぎないようにしながら、止める場所を探していた。
早坂は、資料の端にメモを取っている。
黒川は、何も整理しないようにしていた。
それだけで、頭の中がうるさかった。
ここは論点化できる。
これは再発防止にできる。
この会話は運用課題として残せる。
この沈黙は、次回の確認項目にできる。
全部、見えてしまう。
見えているのに、打ち込めない。
黒川は、手元のメモを閉じた。
会議の途中、佐伯が言った。
「このケースは、一次窓口に戻す形でいいと思います」
黒川は資料を見た。
確かに、その方が筋がいい。
ただ、一箇所だけ抜けている。
一次窓口が不在の場合の代替先がない。
黒川は口を開いた。
「一次窓口が不在の場合の代替先を明記した方がいいです」
佐伯は頷いた。
「はい。入れます」
そこで終わればよかった。
けれど黒川は続けた。
「この抜けは、前回の確認フローでも発生しています。再発防止として、窓口設定時には必ず代替先欄を——」
言いながら、自分で気づいた。
また、戻っている。
佐伯も気づいたように、少しだけ目を伏せた。
美月の指も止まった。
黒川は、言葉を切った。
会議室が静かになる。
黒川は、続きを飲み込んだ。
飲み込んだ言葉は、喉ではなく、机の上に落ちたように感じた。
佐伯が小さく言った。
「指摘としては、必要だと思います」
「はい」
黒川は答えた。
「でも、今の続きは」
佐伯は少しだけ言葉を探した。
「僕の資料の話から、急に仕組みの話に持っていかれた感じがしました」
黒川は頷いた。
「その通りです」
言ってから、少し止まった。
その通りです、という言葉も、処理に近かった。
黒川は言い直した。
「今、私は処理しようとしました」
佐伯は何も言わなかった。
美月も何も言わなかった。
沈黙が落ちた。
黒川は、その沈黙をどう扱えばいいか分からなかった。
会議が終わったあと、優作が黒川の席に来た。
「黒川さん」
「はい」
「少しだけ、いいですか」
「業務の話ですか」
優作は少しだけ迷った。
「業務の話でもあります」
黒川は頷いた。
「どうぞ」
優作は隣の椅子に座らなかった。
立ったまま、言葉を探していた。
「黒川さんは、昨日のファイルを保留にしましたよね」
「はい」
「今日も、たぶん、何度か整理しようとしていましたよね」
黒川はすぐには答えなかった。
「していました」
「それを止めるのは、苦しいですか」
黒川は、パソコンの画面を見た。
未整理事項_保留.xlsx
デスクトップに、まだある。
「苦しい、という表現が適切かは分かりません」
優作は何も言わない。
黒川は続けた。
「不安です」
優作が少しだけ顔を上げた。
黒川は、自分の口からその言葉が出たことに、少し遅れて気づいた。
不安。
便利すぎる言葉だった。
でも、それ以外が見つからなかった。
「整理しないまま残すと、何かを見落としている気がします」
「はい」
「見落とした結果、誰かがいなくなる気がします」
優作は、黙って聞いていた。
聞いているだけだった。
黒川はそれを少し不思議に思った。
優作なら、前なら、何か言ったかもしれない。
「それは怖いですね」
「黒川さんのせいではありません」
「でも、今は違います」
そういう言葉を。
でも優作は言わなかった。
黒川は、自分から聞いた。
「何も言わないんですか」
優作は少しだけ目を伏せた。
「言うと、黒川さんの不安を何かに変えてしまう気がしました」
黒川は黙った。
優作は続けた。
「でも、何も言わないのも違う気がしています」
その答えは、役に立たなかった。
結論もない。
方針もない。
でも、すぐに何かに変えられないところだけが、少しだけ本当のように聞こえた。
人に近づく方法が分からない人は、質問さえ手順にする。
相手を知りたいのではなく、間違えずに近づきたいからだ。
午後、黒川は佐伯にチャットを送ろうとした。
昨日からの件について、現在必要な確認事項はありますか。
違う。
削除。
今の進め方で負担になっている点はありますか。
違う。
削除。
資料修正にあたり、支援が必要な箇所はありますか。
違う。
削除。
どれも、質問の形をした確認項目だった。
黒川は、何度も消した。
そして最後に、こう打った。
今、何を聞けばいいか分かりません。
送信しようとして、止まった。
これは佐伯に答えを求めているのではないか。
分からない自分を、佐伯に処理させようとしていないか。
黒川は送信できなかった。
そのまま画面を見ていると、佐伯が席に来た。
「黒川さん」
「はい」
「代替先欄、入れました」
「確認します」
佐伯は戻ろうとした。
黒川は、呼び止めた。
「佐伯さん」
佐伯が振り返る。
「はい」
黒川は、画面を見た。
さっき打った未送信の文が、まだ残っている。
今、何を聞けばいいか分かりません。
黒川は、画面ではなく佐伯を見た。
「今、何を聞けばいいか分かりません」
佐伯は、少し困った顔をした。
その顔を見て、黒川はすぐに後悔した。
やはり、相手に渡してしまった。
佐伯は少し黙った。
「僕も、何を答えればいいか分かりません」
黒川は頷いた。
「はい」
そこで会話は終わるはずだった。
でも、佐伯は戻らなかった。
黒川も、次の項目を探せなかった。
二人の間に、答えのない時間だけが残った。
それは、黒川にとってかなり不快だった。
でも、佐伯は逃げなかった。
黒川も、表を開かなかった。
佐伯が小さく言った。
「でも」
「はい」
「今のは、聞かれてる感じがしました」
黒川は、すぐには返事ができなかった。
佐伯も、それ以上言わなかった。
確認事項は埋まっていない。
回答もない。
次回対応もない。
ただ、何を聞けばいいか分からないという言葉だけが、その場に置かれた。
黒川は、それをどこにも入力できなかった。
夕方、美月から修正コメントが返ってきた。
佐伯の資料ではなく、黒川が作った確認導線へのコメントだった。
一行だけ。
代替先の設定は必要です。ただし、代替先を作る前に、一次窓口がなぜ詰まるのかを聞いてください。
黒川は、その一文を何度も読んだ。
なぜ詰まるのかを聞く。
また、聞く。
黒川にとって、聞くという言葉は、まだ扱いづらかった。
聞けば、答えが返ってくる。
答えが返ってきたら、整理したくなる。
整理したら、また表になる。
そこまで考えて、黒川は息を止めた。
表になる前に聞いてほしかったかもしれない。
永井のメールが戻る。
黒川は、未整理事項_保留.xlsxを開いた。
A列にも、B列にも、何も入れなかった。
一番上のセルに、ただ一文だけ打った。
表にする前に聞く。
それから、すぐに消した。
また標語になった。
また処理になった。
黒川はファイルを閉じた。
保存しなかった。
何も残さなかった。
その代わり、机の上の付箋に手書きで書いた。
分からない。
それだけだった。
項目ではない。
対応でもない。
方針でもない。
黒川にとって、ほとんど役に立たない文字だった。
でも、その付箋を捨てることもできなかった。
退勤前、黒川は永井のメールをもう一度開いた。
黒川くん、表ありがとう。
もっと早く言えばよかったね。
でも、もう少しだけ、表になる前に聞いてほしかったかもしれない。
黒川は、返信できないメールを見つめた。
今なら何を聞いたのか。
大丈夫ですか。
何がつらいですか。
何を減らせばいいですか。
どれも遅い。
どれも違う。
そもそも、永井がまだそこにいた時、自分は永井を見ていただろうか。
表の中の業務量ではなく。
担当者欄の名前ではなく。
「助かるよ」と笑った、その顔を。
黒川は、何も処理できなかった。
整理もできなかった。
反省にもできなかった。
次回対応にもできなかった。
ただ、付箋の「分からない」という文字だけが、机の上に残っていた。
黒川はそれをノートに貼らなかった。
ファイルにも入れなかった。
分類しなかった。
そのまま、机の端に置いた。
置いておく。
それだけのことが、黒川にはまだ気持ち悪かった。
でも今日は、その気持ち悪さのまま帰るしかなかった。
第61話へ続く。