第16話
「相沢さんなら、大丈夫」の残酷さ
前話:優作は、辞めたいほど追い詰められていた佐伯に、自己承認だけでは満たせない心のコップがあることを知る。人は「あなたがいて助かった」という他者からの承認で、ようやく立ち上がれることがあると学んだ。
翌朝。
美月は、いつも通りだった。
誰より早く出社して、
誰より先に資料を開き、
誰より淡々と、今日のタスクをさばいている。
電話に出る。
チャットに返す。
佐伯の資料に赤を入れる。
真壁の曖昧な依頼を一言で整える。
「真壁さん、それ“軽く”ではなく、先方確認用ですよね」
「……はい、そうです」
「なら、目的を先に書いてください」
「了解です」
いつも通り。
正確で、早くて、隙がない。
優作は、少し離れた席からその様子を見ていた。
昨日の佐伯のことが、まだ頭に残っている。
心のコップ。
自分で満たせるのは三割くらい。
残りは、人からの言葉で少しずつ満たされる。
そのことを思い出しながら、美月を見る。
相沢さんは、どうなんだろう。
そんなことを考えた自分に、優作は少し驚いた。
相沢美月に、心のコップなんて言葉は似合わない気がした。
いつも満たされているとか、強いとか、そういうことではない。
ただ、あの人は自分で水を入れる側に見えた。
誰かに入れてもらう人ではなく、
誰かの空っぽに気づく人。
そう思っていた。
その時、佐伯の席から小さな声が上がった。
「あ……」
美月がすぐ反応する。
「どうしました?」
「すみません。田辺さん向けの確認資料、添付ファイル名を古いままで保存してました」
佐伯は青くなる。
「送る前です。まだ送ってません」
「なら大丈夫です」
美月はすぐに立ち上がり、佐伯の画面を確認する。
「ファイル名だけ直せばいいです。あと、本文の資料名も合わせてください」
「はい」
その時、真壁が少し笑いながら言った。
「相沢さん、ほんとよく気づくね。助かるわ」
美月は画面を見たまま答えた。
「送信前なので、まだ戻せます」
「いやー、相沢さんがいれば安心だな」
その言葉は、たぶん悪気がなかった。
むしろ褒め言葉だった。
でも、優作は見た。
美月の手が、一瞬だけ止まったことを。
本当に、ほんの一瞬。
すぐにいつもの美月に戻った。
だから、誰も気づかなかった。
でも、優作だけはなぜか見逃せなかった。
昼前。
美月が、珍しく小さなミスをした。
真壁に送るはずの修正資料を、優作にも同時に送ってきたのだ。
別に大きな問題ではない。
共有されても困る内容ではなかった。
でも、美月はすぐにチャットで訂正した。
すみません。送信先を間違えました。破棄してください。
いつもなら、そこで終わる。
でも真壁が、軽い調子で言った。
「相沢さんでもそんなことあるんだ」
オフィスに、小さな笑いが起きた。
悪意はない。
本当に、ない。
美月も軽く頭を下げる。
「失礼しました」
それだけだった。
でも優作には、その「失礼しました」が少し硬く聞こえた。
真壁は続ける。
「まあ、相沢さんならすぐ戻せるでしょ」
その瞬間。
美月の表情が、ほんの少しだけ消えた。
笑うでもない。
怒るでもない。
ただ、消えた。
優作の胸がざわつく。
強い人は、頼られないんじゃない。
頼られすぎて、だんだん“大丈夫?”を言われなくなる。
その言葉が、頭の中に浮かんだ。
午後。
美月は明らかに疲れていた。
それでも仕事の手は止めない。
佐伯の資料を見て、
田辺案件の返信を整え、
別部署の確認依頼にも答えている。
優作は、声をかけるタイミングを探していた。
大丈夫ですか。
その一言が、なぜか言いにくい。
相沢さんに、そんなことを聞いていいのか。
相沢さんは大丈夫な人。
そう思ってきた。
でも、それ自体が危ないのかもしれない。
夕方、給湯室で美月と二人になった。
美月は紙コップにコーヒーを入れていた。
手元を見ると、ブラックではなく、甘いカフェラテだった。
優作は少し驚いた。
「相沢さん、甘いの飲むんですね」
美月は一瞬だけ手を止めた。
「疲れている時は」
それだけ。
短い返事だった。
優作は、少しだけ息を吸った。
「今日、疲れてますか」
美月はすぐに答えなかった。
沈黙。
コーヒーの機械の音だけが鳴る。
やがて、美月は前を向いたまま言った。
「疲れていないように見えますか」
優作は胸を突かれた。
「……見えてました」
正直に答えた。
「相沢さんは、いつも大丈夫そうに見えてました」
美月は、小さく笑った。
笑ったのに、少しも楽しそうではなかった。
「便利ですね」
「え?」
「大丈夫そうに見える人って、便利です」
その言葉に、優作は何も返せなかった。
美月は紙コップを持ったまま、静かに続ける。
「頼られるのは、嫌じゃないです。
必要とされるのも、ありがたいと思っています」
「はい」
「でも、頼られることと、満たされることは違います」
その一言が、優作の胸に落ちた。
頼られることは、承認に見える。
でも、感謝されないまま積み上がると、それはただの消耗になる。
美月の声は揺れていなかった。
でも、揺れていないことが、余計に痛かった。
「相沢さん」
「はい」
「今日、真壁さんが“相沢さんがいれば安心”って言った時」
美月の目が少しだけ動く。
「あれ、嫌でしたか」
「嫌、というほどではありません」
「……はい」
「でも」
美月は紙コップを見つめた。
「相沢さんなら大丈夫、って言われるたびに、
大丈夫じゃない時の逃げ場がなくなるんです」
優作は、息が止まりそうになった。
静かな声だった。
でも、その一文には、今までの疲れが全部入っていた。
「できると思われるのは、ありがたいです。
でも、ずっとできる前提で見られるのは、少しきついです」
美月はそれ以上言わなかった。
優作は、昨日の佐伯を思い出した。
佐伯は、役に立てていないと思って苦しんでいた。
でも美月は、逆だ。
役に立ちすぎている。
頼られすぎている。
だからこそ、人として見られる場所がなくなっている。
“できる人”として見られ続けると、
人はだんだん“助けて”を言う場所を失っていく。
優作は、ようやく分かった気がした。
美月のコップは、空っぽになっていたんじゃない。
空っぽになるまで、誰にも見つけられなかったのだ。
「僕も、そう見てました」
優作は言った。
美月は顔を上げない。
「相沢さんなら大丈夫。
相沢さんなら気づく。
相沢さんなら正しくしてくれる」
一つずつ言うたびに、自分の中の甘えが見えてくる。
「それを、信頼だと思ってました」
美月は黙っている。
「でも、違いました。
僕は、相沢さんの能力に甘えてました」
その言葉で、美月の指が少しだけ動いた。
優作は続ける。
「相沢さんが正しいことを言ってくれるから助かっていました。
でも、その正しさの奥で、どれくらい疲れてるかは見てませんでした」
言いながら、喉が詰まる。
「すみません」
謝るだけでは足りない。
でも、今はそれ以外の言葉も雑に感じた。
美月は、しばらく黙っていた。
それから静かに言った。
「謝ってほしかったわけではないです」
「はい」
「ただ、気づいてほしかっただけです」
その言葉は、怒りではなかった。
むしろ、ずっと言えなかった本音のように聞こえた。
優作はゆっくりうなずいた。
「見ていませんでした」
美月が少しだけ顔を上げる。
「今は?」
優作は一瞬だけ迷い、正直に言った。
「見ようとしています」
美月は、ほんの少しだけ目を伏せた。
「それなら、今はそれでいいです」
その日の夕方。
優作は、真壁と佐伯、桐谷に声をかけた。
「少しだけいいですか」
三人が顔を上げる。
美月はいない。
別室で別件の電話中だった。
「相沢さんの仕事、今どれだけ集まってるか、一回見ませんか」
真壁が少し驚く。
「相沢さんの?」
「はい。相沢さんに確認する前に、まず自分たちが投げてるものを見たいです」
桐谷が腕を組む。
「それ、結構大事かもな」
佐伯もうなずく。
「僕、けっこう見てもらってます」
真壁も気まずそうに言った。
「俺もだな」
優作はホワイトボードに書き出した。
田辺案件。
佐伯資料。
真壁の先方返信。
別部署確認。
社内資料の最終チェック。
新人対応の確認。
並べてみると、思っていたより多かった。
多すぎた。
真壁が低く言った。
「……これ、相沢さんに集まりすぎだな」
桐谷が言う。
「頼ってるっていうより、止め場になってる」
佐伯は小さくつぶやく。
「僕、助かってました。でも、言ってなかったかもしれません」
優作は頷いた。
「俺もです」
美月が正しいから。
美月が気づくから。
美月が整えてくれるから。
そうやって、みんなで美月のコップから水をすくっていた。
でも、注ぎ直していなかった。
美月が戻ってきた時、ホワイトボードを見て足を止めた。
「何ですか、これ」
優作は少しだけ緊張した。
「相沢さんに集まっている仕事を、見えるようにしました」
美月の目が細くなる。
「私を外して、私の仕事を整理したんですか」
優作はすぐに言った。
「違います」
自分でも驚くくらい、はっきり言えた。
「相沢さんの判断を奪わないために、まず僕たちが何を投げていたかを見えるようにしました。
この後、どう分けるかは相沢さんに聞きたいです」
美月は何も言わない。
優作は続けた。
「今度は、勝手に決めません」
少しの沈黙。
美月はホワイトボードを見る。
そして、小さく息を吐いた。
「……多いですね」
その声は、少しだけ疲れていた。
でも、少しだけほどけてもいた。
真壁が言う。
「ごめん。俺、かなり投げてた」
佐伯も続ける。
「僕も、確認してもらうのが当たり前になってました」
桐谷が言う。
「俺は、相沢さんが止めてくれる前提で雑に流してたかも」
美月は三人を見た。
何か言い返すかと思った。
でも、美月は小さく首を振った。
「謝られるより、分けてください」
真壁がすぐ頷く。
「分けよう」
優作はホワイトボードを見た。
「田辺案件の資料チェックは、一次を僕が見ます。最終だけ相沢さんに確認してもらう形にできますか」
美月は少し考える。
「できます」
佐伯が言う。
「僕の資料は、まず中村さんに見てもらってからにします」
優作は少しだけ焦る。
「全部は無理だけど、最初の確認項目なら見る」
佐伯は頷く。
「はい」
桐谷が言う。
「真壁さんのメール系、俺も一次で見ます」
真壁が笑う。
「俺、いよいよ監視される側だな」
「監視じゃなくて、分散です」
美月が言った。
その声に、少しだけいつもの鋭さが戻っていた。
話し合いが終わったあと、オフィスの空気が少しだけ変わった。
劇的に何かが解決したわけではない。
でも、美月の机に積まれていた見えないものが、少しだけ全員の前に出た。
それだけで違った。
美月はホワイトボードを見ていた。
優作は隣に立つ。
「相沢さん」
「はい」
「今日、助かってました」
美月がこちらを見る。
優作は続けた。
「いつも、です。
でも今日は、それをちゃんと言わないといけないと思いました」
美月はすぐには返さなかった。
優作は言葉を選ぶ。
「正確に言うと、相沢さんの能力に助けられてました。
でも、それだけ見ていたら、また同じことになると思ったので」
美月の目が、少しだけ揺れた。
「相沢さんがいてくれて、助かってます」
その一言を、優作は逃げずに言った。
美月は、ほんの少しだけ視線を外す。
「……そういうの、急に言うと困ります」
「すみません」
「謝らなくていいです」
美月はホワイトボードに視線を戻した。
「受け取るのが、下手なだけなので」
それは、小さな本音だった。
優作は何も足さなかった。
言葉を重ねすぎると、また自分のためになる気がした。
だから、ただ頷いた。
心のコップは、能力を褒められるだけでは満たされない。
その人自身が見られた時に、やっと少し満ちる。
美月は、まだ満たされたわけではない。
でも、ほんの少しだけ、空っぽではなくなった気がした。
帰り際。
美月が先に席を立った。
優作は自分の荷物をまとめながら、何か声をかけるべきか迷った。
すると、美月の方から言った。
「中村さん」
「はい」
「今日のカフェラテの件」
「え?」
「甘いものを飲むくらい疲れていた、という見立ては合ってます」
優作は一瞬、言葉を失った。
「……聞いてないですけど」
「顔に出てました」
「そんなに?」
「かなり」
美月は少しだけ口元をゆるめた。
「でも、見ようとしていたのは分かりました」
優作の胸が、少しだけ熱くなる。
「はい」
「ただし、次からは顔で考えずに聞いてください」
「はい。聞きます」
美月は頷く。
それから、ほんの少しだけ間を置いた。
「今日は、少し楽でした」
その一言で、優作は動けなくなった。
楽だった。
それは、たぶん美月がくれた一番素直な承認だった。
「……それ、よかったです」
美月は何も言わずに歩き出す。
その背中は、いつもより少しだけ軽く見えた。
その夜。
優作のチャットに、美月から一件届いた。
明日、田辺案件の確認を10分だけお願いします
一人で抱えない練習をします
優作は、画面を見て静かに笑った。
喜んで
すぐに既読がつく。
返事はない。
でも、それで十分だった。
優作はスマホを伏せる。
役に立っていないと苦しむ人がいる。
役に立ちすぎて苦しむ人もいる。
どちらにも必要なのは、
ただ褒めることではない。
ちゃんと見て、
ちゃんと渡すこと。
助かった。
いてくれてよかった。
無理していないか。
その言葉を、必要な時に、必要な形で渡すこと。
優作は、少しずつ分かり始めていた。
そして翌日。
その“承認”をめぐって、
今度は真壁が思いもよらない形で崩れることになる。
第17話へ続く。