親と会ったり連絡を取ったりすると疲れる。それなのに、距離を置こうとすると「自分は冷たい子どもなのではないか」「親を見捨てているのではないか」と罪悪感が出る。この罪悪感は、距離を置く判断が間違っている証拠とは限りません。親の期待に応えることを「正しいこと」として覚えてきたため、自分の判断を優先しただけでも、悪いことをしたように感じてしまう。
親から離れたいのに、離れると自分を責めてしまう
親と話すたびに否定されたり、細かく口を出されたり、親の機嫌を取る役割になったりする。関わると疲れることは分かっているため、会う回数や連絡を減らしたいと思う。それでも実際に距離を置くと、親不孝なことをしているような感覚が出てくることがあります。
「育ててもらったのに申し訳ない」「親も年を取っているのに」「悲しませているのではないか」と考え始め、距離を置きたいと思った自分を責めてしまう。親に従っても苦しく、従わなくても罪悪感が出るため、どちらを選んでも落ち着きません。
この状態を、単に「親を大切に思っているから」と説明するだけでは不十分です。親への思いやりとは別に、親の希望に応えられない自分を「悪い子」と感じる仕組みがあります。
親の期待に応えることが「良い子の条件」になっている
子どもの頃から、親の言うことを聞けば認められ、
反対すると不機嫌になられたりかんる。親の希望と違う選択をすると、責められたり、悲しそうな態度を取られたりする。このようなことが繰り返されると、「親を満足させること」=「自分が正しい人間であること」が結びつきます。
すると大人になってからも、親の希望に沿わない選択をしただけで、「自分が間違っている」「親を傷つけた」「冷たい人間になった」と感じやすくなります。実際に不当なことをしたかどうかではなく、親が不満を感じたこと自体を、自分の責任として受け取ってしまうからです。
親に直接責められていない場合でも、この反応は起こります。親が何を望むかを先に考え、その希望から外れた時点で、自分の中から罪悪感が出てくる。
親の基準が、自分を評価する基準として残っているという事です。
判断は親に引っ張られ、結果責任だけ自分が負う
親は、進路、仕事、結婚、住む場所などについて希望を持つことがあります。意見を言うこと自体が問題なのではありません。問題になるのは、親の希望が「正しい選択」として強く入り込み、本人が自分が望むものを選びにくくなることです。
親が望む方向へ進んでも、その後の人生を実際に生きるのは本人です。仕事が合わなかったとしても、結婚生活が苦しくなったとしても、その結果を引き受けるのは親ではありません。判断は親に引っ張られているのに、人生の責任だけは本人に残ります。
仕事でいえば、責任だけ負わされて、意思決定権や裁量がない状態です。仕事なら、契約書や担当範囲を確認し、責任と権限が合っているかを問題にできます。親子関係にはそのような明確な線引きがなく、「心配している」「あなたのためを思っている」「親孝行をしてほしい」といった言葉に包まれるため、この不整合が見えにくくなります。
親の希望と自分の感情との境界線があいまいになる
親がどう思うかを無意識に優先してきた人は、自分の感情を判断材料として使いにくくなります。
本当は会いたくないと感じても、「会いたくないと思う自分は冷たい」とすぐに打ち消す。嫌なことをされても、「親も悪気はない」「自分が我慢すればよい」と考える。自分が何を嫌がっているのかを確認する前に、親が納得する答えを探してしまいます。
その結果、自分が選びたいことと、親が選んでほしいことの区別が曖昧になります。自分で決めたつもりでも、後から「本当に自分が望んだことだったのか」と分からなくなることもあります。
親と距離を置くときの罪悪感は、自分の本心を示す感情とは限りません。親の希望から外れたときに発生する、長年躾けられてしまった考え方のクセとも言えるでしょう。
自分が責任を負う人生である以上、判断する権利も自分にある
親と距離を置くことは、親を罰したり、見捨てたりする行為ではありません。自分が自分の感情を確認し、自分の人生について判断できる状態を取り戻すためには、必要な距離感と言えるでしょう。
親の希望に応えることが、あなたの人生で優先すべき事なのでしょうか?
自分の人生の結果を引き受けるのは自分です。だからこそ、人生をどう生きるか選ぶ責任も自由も自分にある。罪悪感が出たときは、「距離を置くことが本当に悪いのか」だけではなく、「親の期待から外れたことを悪いと感じているのではないか」と分けて考えると、状況を整理しやすくなります。
それでも、自分の場合は何に疲れていて、なぜ罪悪感が出るのか、一人では整理しきれないことがあります。
お一人で悩まずに、まとまっていない状態のままお話していただいて大丈夫です。