本作はフィクションです。実在の人物・団体とは関係ありません。
石垣島のホテルの部屋に、ルームサービスが届いた。
ワゴンの上に、銀色の蓋をかぶせた皿。白いナプキンにくるまれた、ナイフとフォーク。
ナプキンを開くと、ずっしりと重いフォークが手のひらに沈んだ。ダウンタイムで腫れた指先にも、その重さだけははっきりと伝わってくる。
重い食器を手にするたびに、私は二つの食卓を思い出す。
オックスフォードの銀の食器と、閉鎖病棟のプラスチックの食器だ。
◇
英国から帰国した私を待っていたのは、凱旋パレードではなく「年齢」という冷酷な壁だった。
三十代も半ばを過ぎようとしていた。一番油が乗っているはずの時期を、海外でのモラトリアムに費やしたツケは大きかった。日本の労働市場において、オックスフォードの修士号など、実務経験の空白を埋める役には立たなかった。リクルートダイレクトスカウトに登録すると、三つの選択肢が提示された。大手ゲーム会社が二社、そして母校の大学の関連組織。
今思えば、人生最大のミスを犯したのだ。もしゲーム会社に戻っていれば、キャリアの一貫性は保たれ、順調に出世していたかもしれない。
だが、私は何を血迷ったのか、「留学生という、かつての自分と同じ境遇の人を助けたい」などという、柄にもない聖人君子のようなセンチメンタリズムに酔い、母校を選んでしまった。
待っていたのは、母校の関連組織での契約職員という「都落ち」だった。オックスフォードの重厚な石造りの校舎とは違う、日本の大学特有の、安普請なコンクリートと湿った土の匂い。蛍光灯の白い光。私は留学センターの窓口に座り、かつての自分よりも遥かに偏差値の低い学生たちの、愚にもつかない履修相談を捌き続けた。
「留学を考えてるんですけどぉ」
茶髪にピアスの男子学生が、ガムを噛みながら窓口に寄りかかってくる。甘いフルーツガムの匂い。私は能面のような笑顔を貼り付け、事務的な手続きを説明する。私の脳内には、コッツウォルズの風や、チュートリアルでの激しい議論の記憶がある。
だが、目の前の学生にとっての私は、ただの「事務員のおじさん」に過ぎない。昼休み、学生食堂の騒音の中で、冷めたカレーを喉に流し込む。周りでは「ガクチカ」だの「インターン」だの、空虚な単語が飛び交っている。彼らはまだ、自分が何者かになれると信じているのだ。その無邪気な肌のハリが、アトピー痕の残る私の皮膚をじりじりと焼いた。
昼休みが終わり、留学センターに戻る。 そこで私は「怪物」に魅入られてしまった。関連組織で最も恐れられていた、ある部署の部長。ある財団の留学プログラムがたまたま成功したことで、私は彼に気に入られてしまった。
「シノハラくん、今週末、空いてるか?」
土日にも関わらず電話が来る。家族ぐるみの付き合い。
私は彼の懐に入り込んだ。そしてある日、甘い囁きが耳元で響いた。
「お前、正社員にならないか?」
契約社員の不安を抱えていた私は、その蜘蛛の糸に縋り付いた。だが、それには条件があった。留学センターから、彼の支配下にある部署へ異動することだ。
そこは地獄だった。仕事は、大学の幹部たちの出張手配。航空券、ホテル、ハイヤー。一分の狂いも許されない緻密な事務処理能力が求められた。
私はそれが、絶望的に苦手だった。ADHDの特性なのか、マルチタスクができない。一つの手配をしている間に、別の電話が鳴ると頭が真っ白になり、数字がゲシュタルト崩壊を起こす。
ミスが続く。一ヶ月、二ヶ月。私の無能さが露呈すると、怪物の態度は豹変した。
「シノハラ!! ちょっと来い」
フロアの空気を切り裂くような怒号が響いた。私はビクリと肩を震わせ、椅子から立ち上がった。周囲の同僚たちが、関わりたくないとばかりに視線を逸らし、キーボードを叩く音だけがカタカタと乾いたリズムを刻む。
私は部長席の前に立った。彼はデスクに座ったまま、一枚の旅程表をペラペラと振って見せた。
「お前、ここのフライトの時間、確認したのか?」
「は、はい。しました」
「嘘をつくなッ!!」
バン!彼が机を叩いた。ボールペンが跳ねる。
「ヒースロー到着が現地時間の十五時だぞ? そこからこのホテルまで、移動にどれくらいかかるか計算したのか? 夕食会に間に合うわけねえだろ!」
「あ、すみません、時差の計算を……」
「すみませんじゃねえんだよ!」
彼の目が充血し、口角から唾が飛んだ。唾液の飛沫が私の頬にかかる。私はそれを拭うこともできず、直立不動で立ち尽くす。
「お前、オックスフォード出てるんだろ? なんでこんな初歩的なことが分からねえんだよ。脳みそ入ってんのか?」
足裏が痺れて感覚がなくなってくる。ふくらはぎが強張り、膝がガクガクと震えそうになるのを、必死に力を入れて堪える。脂汗が背筋を伝い、シャツが肌に張り付く。気持ちが悪い。窓の外を見ると、向かいの校舎が夕焼けに染まっていた。ガラス一枚隔てた向こうには自由がある。だがこちらの部屋にあるのは、昭和の生き残りのような精神論と、暴力的な支配だけだ。
二時間。
説教が終わる頃には、外は完全に夜になっていた。
その日の深夜。残業を終え、終電も近くなった頃、部長が椅子から立ち上がった。
「シノハラ、帰るぞ」
さっきまでの怒気が消えている。私は怯えながら荷物をまとめた。オフィスの外に出ると、彼は手を挙げてタクシーを止めた。
「乗れ」
私は助手席ではなく、後部座席の彼の隣に座らされた。密室。革のシートの匂いと、彼の整髪料の匂いが混ざり合う。カチッ、というライターの音。紫煙が車内に漂う。
「……ほら」
部長が、自分の吸っているタバコの箱を私に差し出した。
「お前も吸うだろ?」
「あ、いただきます……」
私は震える手で一本抜き取り、火をつけてもらった。彼が煙を吐き出しながら、ぽつりと言った。
「悪かったな、さっきは。俺はな、お前のことが嫌いで怒ってるんじゃないんだ。お前には見込みがある。他の連中とは違う」
彼は私の肩に手を置いた。その手のひらが、妙に温かかった。
「お前なら、俺の右腕になれる」
見込みがある。その言葉が、弱りきった私の心に、甘い毒のように染み渡った。
ある夜、私は壊れた。知り合いの職員と駅前のレストランで、記憶が飛ぶほど酒を飲んだ。それでも脳内のノイズは消えなかった。
マンションに帰ると、私は衝動的に薬のシートを破り始めた。そこから先の記憶は、途切れ途切れにしか残っていない。アルコールの熱が、胸の奥へ落ちていったことだけを覚えている。泡を吹いて倒れている私を発見したのは、帰宅したマキだった。
救急車のサイレン。緊急入院。胃洗浄のチューブが喉を焼く感触。ゴムの味。吐瀉物の酸っぱい臭い。
次に目が覚めた時、私は郊外の病院の閉鎖病棟にいた。そこは、時間が死滅した場所だった。病室には時計がない。スマートフォンも没収されている。今が朝なのか、昼なのか。それを知る術は、看護師が運んでくる食事のトレイと、窓に嵌め殺しにされた鉄格子の向こうで変化する、空の色だけだった。廊下に出ると、そこは異界だった。
「あーうー……」
意味をなさない音を、壊れたラジオのように唸り続けている男。
壁に向かって、ブツブツと高速で念仏を唱えている女。
「あーーーー!!」
突然、鼓膜を劈くような絶叫が響く。だが、誰も驚かない。それがここのBGMだからだ。同じ廊下の、同じ場所を、振り子のように延々と徘徊し続けるパジャマ姿の老人たち。
まともそうな男に話しかけた。
「いい天気ですね」
男は私を見て、濁った目で笑った。
「兄ちゃん、パチンコやるか? こないだのエヴァがよぉ……」
そして、食事が運ばれてくる。トレイの上に並ぶのは、すべてが「クリーム色のプラスチック」でできた食器だった。フォークも、スプーンも、箸も、皿も。割って凶器にしないための配慮だ。だが、その安っぽく、軽く、無数に傷がついたプラスチックを手にするたび、私の脳裏にあの光景がフラッシュバックする。
オックスフォードのカレッジ・ディナー。重厚なオーク材のテーブル。純白のクロス。そして、ずっしりと重いスターリングシルバーのナイフとフォーク。カチャリ、という澄んだ金属音と、知的な会話。今の私の手にあるのは、給食以下のプラスチックだ。カタカタという軽い音が、私の転落を残酷に告げる。味などしない。ただの有機物を胃袋に流し込む作業。身体はブクブクと太っていった。鏡に映る自分が、醜い肉塊に変わっていくのが怖かった。
夜、消灯後のベッド。強い薬を盛られ、意識は常に微睡(まどろ)みの中にあった。ふと天井を見上げると、シミが動き出す。アメーバのように広がり、形を変え、私を飲み込もうとする幻覚。私は布団を頭から被り、震えながら朝を待つ。面会室に、私の名前が呼び出されることは一度もなかった。マキは着替えを持ってきてくれたが、両親は一度も来なかった。息子が自殺未遂を図り、閉鎖病棟に入ったのだ。普通なら飛んでくるはずだ。だが、父も母も来なかった。
私は面会室の空の椅子を見つめていた。
退院後も仕事はできず、引きこもった。薬の量は増える一方だった。レキサルティ、レクサプロ、ラミクタール、アーテン、デパス、リボトリール、トリアゾラム。私は「障害者手帳」を取得した。
給与は激減した。仕事は単純作業。梱包、社内郵便の配達、清掃。
「お願いします」と頭を下げて郵便物を渡す。相手は私を見ずに受け取る。私のプライドは毎日、紙やすりで削られるように摩耗していった。これが、五年続いた。
◇
石垣島のホテルで、私は銀色の蓋を持ち上げた。湯気が立ち、肉の焼けた匂いが部屋に広がった。
フォークを皿に当てると、カチャリ、と澄んだ音がした。オックスフォードの食堂で聞いたのと、同じ音だった。
味は、しなかった。
トレイの隅に、ケチャップの入った小さなプラスチックのカップが載っていた。
クリーム色だった。
私はそれを、銀のフォークよりも長く見つめていた。
(了)