石垣島のホテルのバスルームで、圧迫着を手洗いした。
脂肪吸引のあと、ほとんど一日中着ているように言われている、黒いボディースーツだ。シャワーの合間に急いで脱ぎ、洗面台にぬるま湯を張って、ボディソープで揉み洗いする。湯の中で、浸出液の染みがうっすらと茶色く滲んだ。
絞ると、ずしりと重かった。ハンガーを探して視線をさまよわせ、ふと、足元のタイルの床に目が落ちた。
ここに置けば、早い。
そう思った瞬間、手が止まった。
◇
家庭というシステムが、音を立てて崩れ始めたのはその頃だ。決定的な亀裂は、洗濯物から生まれた。あまりにも日常的で、しかし致命的な亀裂だった。
ある晴れた日曜の昼下がり。
「しのちゃん、洗濯物を干しておいてくれる?」
キッチンで洗い物をしていたマキが、濡れた手を拭きながら頼んできた。私はソファでスマホをいじっていたが、気のない返事をして立ち上がった。洗濯機の蓋を開ける。脱水を終えた衣類が、重なり合い、絡み合って、巨大な濡れた塊になっている。私はそれをプラスチックの籠に放り込み、ベランダへと出た。
外は眩しかった。五月の風が吹いている。私は適当な性格だ。というより、私の脳は「複数の工程を同時進行する」ことが極端に苦手だった。絡まった洗濯物を一つずつ解き、パンパンと皺を伸ばし、ハンガーを探し、そこに通して竿にかける。この一連の動作の繰り返しが、私には果てしない苦行のように感じられた。
だから私は、私なりの「効率化」を脳内で組み立てた。
まず、分類だ。大物と小物に分ける。その後に一気に干す。それが一番速い。私のADHD的な脳回路は、それが絶対的な正解だと判断した。私は籠の中から、水分を含んでずっしりと重くなったジーンズを引っ張り出した。ゴワゴワとしたデニム生地は冷たく、私の腕に重くのしかかる。これは大物だ。私はそれを無造作に物干し竿に引っかけた。バスタオル。これも竿だ。そして、問題は残りの「小物」たちだ。靴下、下着、ハンカチ。細々とした布切れが無限にあるように見える。私はそれらを鷲掴みにすると、足元を見下ろした。
築年数の古いマンションのベランダ。床は、剥き出しのコンクリートだ。そこには長年蓄積された土埃や、排気ガスの煤、風で飛んできた枯葉の欠片が薄く積もっている。
だが、私の目にはそれが見えていなかった。私の目に見えていたのは、単なる「作業スペース」としての平面だけだった。私は分類を開始した。まず、私の靴下。濡れた綿の塊を、右側の床へ投げる。
鈍い音がして、靴下がコンクリートに着地した。次は、マキの大事なハンカチだ。アイロンがけが必要なほど白く、繊細な綿のハンカチ。私はそれを軽く放った。ピラリと空中で開き、「ペチャ」という湿った音を立てて、それが床に張り付いた。濡れた白い布が、コンクリートの微細な凹凸に密着する。その瞬間、布の繊維が、床に積もっていた黒い煤や砂粒を、スポンジのように吸い上げていく。
だが私は止まらない。リズムに乗っていた。
「ポイ、ポイ」
マキのレースの下着。淡いピンク色の、高価そうなランジェリー。それも私の指先から放たれる。
無防備なレースが、埃まみれの床に投げ出される。しかし私にとっては、単なる「下着カテゴリーへの分類作業」に過ぎなかった。息子の給食袋。私のトランクス。マキのキャミソール。次々と投げ落とす。
湿った布が硬い床を叩く音が、ベランダにリズミカルに響く。足元には、濡れた衣類の山が三つできていた。私はその光景を見て、自分の仕事の速さに満足すらしていた。さあ、あとはこれを拾って干すだけだ。
その時だった。背後のサッシが開く音がした。
「しのちゃん、終わったー?」
マキの声だ。彼女は子供の分の洗濯物が入った籠を抱えて、ベランダに出てきたところだった。時が止まった。マキの視線が、私の顔を通り過ぎ、足元へと吸い寄せられる。
そこに広がっていたのは、※※絵図だった。彼女が丁寧に予洗いし、漂白剤を使い、香り高い柔軟剤で仕上げたばかりの清潔な衣類たちが、薄汚れたコンクリートの床に、ゴミのように散乱している。
激しい音がして、私は飛び上がった。マキの手から、洗濯籠が滑り落ちていた。中に入っていたプラスチックのハンガーたちが、床に散らばって乾いた音を立てる。
私は恐る恐る彼女の顔を見た。怒りではない。そこにあったのは、理解を超えたものを見た時の、根源的な「恐怖」と「絶望」だった。彼女の顔が、見たことのない形に歪んでいく。
眉間に深い皺が刻まれ、目は限界まで見開かれ、唇がわなわなと震えている。
「……あ」
私が言い訳をしようと口を開いた瞬間、彼女の喉から悲鳴のような絶叫がほとばしった。
「あなたは……本当に、おかしいッ!!!」
空気が裂けた。近所中に響き渡るような声だった。彼女はその場にしゃがみ込むと、床に落ちた下着を拾い上げた。泥のついたレースを見て、彼女は過呼吸のように肩を上下させ、そして私を睨みつけた。
その目は、夫を見る目ではなかった。言葉の通じない怪物、あるいは生理的な嫌悪を催す害虫を見る目だった。
「なんで……なんでこんなことするの? 床だよ? ここ、外の床なんだよ!?」
「いや、分類しようと思って……あとで拾えばいいし……」
「汚いッ! 不潔! 信じられない!」
彼女は半狂乱で叫びながら、私の投げ捨てた洗濯物をすべて拾い集め、再び洗濯機へと走った。
サッシが乱暴に閉められる。私はベランダに取り残された。足元には、まだ濡れた跡が点々と残っている。私は呆然と立ち尽くしていた。なぜそこまで怒るのか、私の論理では理解が追いつかなかった。少し汚れたなら、また洗えばいいだけじゃないか。だが、肌で感じていた。今、決定的な何かが壊れたことを。
◇
それから何年か経って、離婚届を突きつけられたのは、過去の亡霊のせいだった。マキが私の荷物を整理している時に、それを見つけてしまったのだ。カナダへ彼女を先に行かせ、私が日本で遊んでいた三人の女たちからの手紙。そして、マッチングアプリのログ。それを突きつけられた時、マキは発狂した。
「私は一度も浮気なんてしたことがないのに!」
その怒りは、十数年分の献身を裏切られた絶望だった。
「結婚前の話だろ、そんなに怒らなくても」
私は思った。だが、私を愛し、尽くしていたマキにとって、それは絶対に許せない裏切りだった。私は土下座をした。フローリングの床に額を擦り付けながら、私は自分が何に対して謝っているのか分からなくなっていた。
浮気に対してか、嘘に対してか、それとも、彼女という「宿主」を失うことへの恐怖に対してか。額に伝わる床の冷たさだけが、私の結婚生活の終わりの温度だった。
◇
石垣島のバスルームで、私は濡れた圧迫着を両手に持ったまま、しばらく立っていた。
それから、タオル掛けにハンガーを引っかけ、圧迫着の皺を一本ずつ伸ばして、干した。
誰も見ていなかった。
タイルの床には、水滴がひとつ、落ちているだけだった。
(了)