本作はフィクションです。実在の人物・団体とは関係ありません。
―このことを知っている人がいる。だが二度と話さない。そう決めたのだ―
午前一時四十二分。下腹部の奥、腹直筋と皮下脂肪が剥離されたその狭間に、熱した鉄杭を打ち込まれたような重く鈍い熱がある。
ズキン、と脈打つたびに、フェイスバンドで圧迫固定された顔面の皮膚が物理的に引っ張られる。こめかみの縫合糸が、再生しようとする肉に食い込み、微かなキシみ声を上げているようだ。
私はサイドテーブルに手を伸ばした。指先が微細に震えているせいで、飲みかけの「アサヒドライゼロ」のアルミ缶が倒れそうになり、カランと乾いた音を立てた。
テラスのサッシは閉め切っている。だが、ガラスの向こう側には、石垣島特有の、海水を煮詰めて腐らせたような濃密な夜気がへばりついているのがわかる。結露した水滴が、窓ガラスをゆっくりと、ナメクジが這うような軌跡を描いて垂れ落ちていく。
熱帯。そこは植物がアスファルトを食い破り、蟲が死骸に群がり、腐敗と発酵が高速回転する有機の世界だ。
私はその侵入を拒むために、エアコンの設定を「強」にし、室温を摂氏十九度に固定している。ここは無菌室だ。あるいは、私という生肉を腐らせず、保存するための巨大な冷蔵庫だ。
鏡は見ない。見る必要がない。胸から下腹部にかけて、黒色の医療用ボディフォームとボディースーツが肉を締め上げている。その下では、一度剥離され、無理やり引っ張り上げられた皮膚と、削ぎ落とされた皮下脂肪の空洞が、新しい位置で癒着しようと悲鳴を上げている。ベイザー脂肪吸引とフェイスリフト。総工費、二百万円。
私は強張った指先で、ボディースーツの上から腹部をさする。感覚がない。麻酔が切れているはずなのに、そこにあるのは自分の肉体ではなく、硬いゴム板のような異物の手触りだ。
指で押すと、皮膚の下に溜まった組織液と血液が、ジュク、ジュク、と湿った音を立てて移動する。高級な革靴の中に、汚泥と生ゴミを詰め込んで歩いた時のような、不快な液状化現象が私の腹の中で起きている。
加齢という重力。垂れ下がった皮膚。それを医療用のカニューレ(吸引管)でチュー、チューと吸い出し、時間を物理的に巻き戻した代償。
心臓が一度収縮するたびに、顔面の縫合痕と腹部の空洞が連動して発火し、脳髄まで痺れさせる。これは罰ではない。メンテナンスだ。
ロキソプロフェンのPTPシートを親指で押し破る。
プチッ、という音と共に、白い錠剤が掌に落ちる。二錠。いや、三錠。「アサヒドライゼロ」で流し込む。炭酸の刺激が、荒れた食道を焼きながら胃へと落ちていく。サイドテーブルには、ルームサービスで頼んだピザの残骸がある。冷え切って硬化したチーズ。酸化したトマトソースの酸っぱい匂い。油の浮いたサラミ。
二百万円かけて脂肪を吸引したその口で、私はこの高カロリーな産業廃棄物を咀嚼し、胃袋という袋に充填していく。顎関節症の右顎に激痛が走る。口が開かない。無理やり押し込むと、耳の奥で、ギシギシと軟骨が擦れ合う音がした。骨伝導で響くその音は、まるで錆びついた蝶番(ちょうつがい)を無理やり動かしているようだ。味などしない。ただ、空洞に有機物を詰め込むという物理的な作業があるだけだ。
SNRI(抗うつ薬)と睡眠薬の化学作用で、脳の覚醒レベルは常に低空飛行を続けている。三日間、一睡もせずにキーボードを叩き続けたかと思えば、スイッチが切れたように泥のように眠る。覚醒と睡眠の境界線もまた、この熱帯の湿気のように溶け出して不明瞭だ。
デスクの上には、私がここへ逃げ込む直前の二週間で築き上げた「城壁」が、LEDのインジケーターを点滅させている。iPhone 17 Pro Max 1TB、チタニウムの冷たい筐体。Apple Watch Ultra 3、硬質なサファイアガラス。iPad mini Pro、iPad Air 13inch。HP(ヒューレットパッカード)のハイエンドノートPCの排気ファンが、シュォーッと低い唸り声を上げている。
これらの無機質な表面には、毛穴もなければ、汗もかかない。決して老いず、決して腐らない。自宅には、五十万円の業務用レーザー複写機と、二十五万円のハーマンミラーの椅子が届いているはずだ。総額百数十万円。四ヶ月で作った六枚のクレジットカード。その限度額いっぱいまで積み上げられた、シリコンとレアメタルの塔。
主治医はカルテに「買い物依存」と書いた。
帯に『崩壊を加速させよ』と書かれた宮台真司の本が、床に転がっている。「社会が沈んでいくなら、それを加速させろ」。社会を終わらせる?そんなマクロな話はどうでもいい。私はただ、この皮膚の下の鈍痛を麻痺させるためだけに、未来という時間を「リボ払い」で切り売りし、個人的な破産を加速させている。
ふと、つけっぱなしのテレビ画面が青白く発光した。大谷翔平が打席に立っている。四十八インチの液晶フレームの中で、彼はあまりにも鮮明だった。汗の一粒、筋肉の収縮、バットを握る指の関節。彼は整形などしていない。顔面に異物を混入させたり、皮膚を切り貼りしたりしていない。システムの外側へ逃げるのではなく、物理法則をその肉体で体現している。
第一球。ピッチャーが腕を振る。私は息を飲む。引きつったこめかみの傷口が、乾燥した餅のようにピシリと音を立てた。
スピーカーが空気を震わせた。それは快音ではない。完璧に鍛え上げられた肉体と、バットの回転運動エネルギーが衝突し、硬球という物質を内側から破壊する音だ。質量を伴った重低音が、私の腹部の傷に響く。
大谷翔平が物理法則を超えてボールを破壊する音を聞きながら、私は自分の腹の上の脂肪吸引の跡をさする。その神聖な破壊音の余韻を切り裂くように、手元のiPhoneが、空気を読めない電子音を鳴らした。
「ピロン」
間の抜けた通知音。画面が光る。滑らかで冷たいガラスの表面には、指紋一つついていない。私の浮腫んだ、脂ぎった顔とは対照的な、完璧な平面。LINEの通知バッジ。未読件数、百四十二件。表示された送信者名。「ゴウダ」。
胃の奥から、ピザの油と胃酸が混ざったものが逆流してくる。私はこの板切れに命令され、この板切れを通してしか世界に触れられない。通知画面に並ぶ「ゴウダ」という三文字を見た瞬間、このガラスを床に叩きつけたい衝動が指先まで走る。だが、できない。このガラスの向こうにしか、私の金ヅルはないからだ。
私は震える指で、その美しく研磨されたガラス面を撫でた。ロックを解除する。
『月の満ち欠けで人の運気は決まる。新月に契約する人間は二流。眼鏡をかける者は心が曇っている』
『私は誰とでも平等に接する。年齢も立場も関係ない。ただし血液型と、靴の減り方は見る』
『会議で発言しなかった者は、来月から椅子を一つ外します』
『売上が落ちたのは上に立つ者の徳が足りないから 上の者の弁当は皆より高くします 皆で上の者を責めてください』
画面を埋め尽くす文字列。意味の破綻した電子信号。午前二時に送られてきたそのメッセージの下には、路上で裏返ったカナブンをアップで撮った高解像度の画像と、『救出成功』という短いテキストが添えられている。カナブンの硬い腹が、画面越しに鈍く光っている。
動悸がした。吐き気が込み上げる。術後の傷の痛みとは違う、もっと根源的な生理的拒絶反応が食道を駆け上がる。この男は、私が日銭を稼いでいる会社の社長だ。いくつもの事業を抱え、億単位の金を動かしている。
スクロールする指が震えで止まらない。昨日までは「A型はゴミだ」と罵っていたかと思えば、今日は「大谷翔平はB型だから成功した。B型はコスパ最強」と礼賛する。
私はかつて、オックスフォード大学院社会学研究所の石造りの図書館で、世界のアーキテクチャを解き明かすための言葉を探していた。だが、今、この言語の通じない怪物に、四十を過ぎて生殺与奪の権を握られているのは私だ。学位も、キャリアも、この「血液型で人間を選別する男」の前では、紙切れ以下の絶縁体でしかない。
別の通知が鳴る。結婚相談所からのメールだ。月額会費一万八千円。四十代日本語講師、借金まみれの私が、二十代の「若い女」を物色している。
お見合い成立率は百件に一件。それでも私は、まだ性欲という名の生々しい粘液を引きずっている。
「挿入したい」
この期に及んで、私の脳髄はそんな動物的な信号を発している。脂肪を抜き、皮を切り、無機物になろうとしているのに、性欲だけがしぶとく私を有機の世界へ引きずり戻そうとする。
生々しい粘液の感覚が、記憶の蓋をこじ開ける。
脳裏に、あの湿った匂いが蘇る。マキ。別れた妻だ。石垣島のこの湿気は、彼女がまとっていた独特の体臭に似ている。それは香水のような人工的なものではなく、雨上がりの土や、煎じ詰めた漢方薬のような、湿度を帯びた「生物」の匂いだった。
彼女は、私の鏡になろうとした女だった。短大出だった彼女は、デジタルハリウッドで私と出会った。私の学歴に追いつくことが「自分もそうなるべきだ」という使命になり、憑かれたように勉強して大学に入り直し、さらに海外の大学院にまで進んでみせた。
夜の十時まで働きながら、翌朝には五時に起きて子供の弁当を作っている。子供の勉強に付きっ切りになり、夕方には仕事の手を止めて公園でキャッチボールやサッカーの相手をした。
彼女はマンションのパウダールームの三面鏡を、毎日毎日、曇りひとつないよう丁寧に磨き上げた。週に一度の大掃除では、私の背中からはらはらと剥がれ落ちた皮膚という「死骸」を、まるで赤子をあやすように黙々と吸い取り、土の匂いのする茶色い漢方を、コトコト、コトコトと煮出した。部屋には、彼女の発する体温と、湿った土の匂いが充満していた。
そのすべてが、私には耐え難い「ノイズ」だった。漢方の匂いは有機的すぎて、私の肺を塞ぐガスのようだった。彼女が磨き上げたピカピカの鏡を見るたび、そこに映る自分の姿に吐き気がした。
キャッチボールをする母と息子の姿から目を背け、私は書斎に閉じこもった。面倒くさい。その一言で、私は彼女が積み上げた生活を切り捨てた。
右の顎が痛んだ。口を開けようとすると、顎関節が軋む。その痛みの奥に、ふと、父の顔が浮かんだ。父は、東京のような雑多で過剰な世界を何より嫌っていた。
「あんな人の多い所に住むのはキチガイだ」
そう言って、東京を忌避し、自分の殻に閉じこもっていた男。アルコールで脳を麻痺させ、毎晩私に「社会学とは何だ」と、答えのない議論をふっかけてきた男。
「やっと俺に並んだな」
私がオックスフォードへ発つ日、成田のロビーで彼が放った言葉だ。
心臓外科医として人の生死を扱い、「今日、一人死んだ」と夕食の席で吐き捨てるように言った父。
彼は命を救う外科医でありながら、自分の服一枚選べず、家の金も旅行の手配もすべて母に依存していた「巨大な赤ん坊」だった。
私は今、ホテルの鏡を見る。二百万円をかけたフェイスリフトとベイザー脂肪吸引。百数十万円のガジェットの城壁。借金というリボ払いで拡張された、見せかけの全能感。私は父から逃げるために、顔を変え、場所を変え、こうして最果ての島に来たはずだった。
通知が鳴る。電話相談アプリのDMだ。画面に表示されているのは、電話相談ではない。
『会いたい。次はいつ?』
元妻ではない女からの、情事の催促だ。
私は乾いた笑いを漏らす。全身の傷が、また疼いた。痛み止めを「アサヒドライゼロ」で流し込む。
窓の外で、熱帯の風がヤシの葉を揺らし、ザワザワという不穏な音を立てている。
私はロキソプロフェンをもう一錠、口に放り込んだ。ピザの油と、薬の苦味が混ざり合う。石垣島の夜明け前、波の音が遠く聞こえる。その寄せては返す波のリズムに耳を澄ませたまま、私は眠ることも、起き上がることもできずにいた。
◇
午前四時。ホテルのベッドサイドには、アルミの包装を破られた錠剤の残骸が散らばっている。ミルタザピン、リボトリール、トリアゾラム。脳髄を強制的にシャットダウンさせるための化学物質を、私は水と共に流し込んだはずだった。だが、意識は泥のように濁りながらも、決して沈殿しようとはしない。脳の奥で、過去の映像がノイズ混じりの走馬灯のように明滅している。
私は、おもむろにベッドサイドの鏡を手に取った。そこに映るのは、もはや父でもない。そして、私が憎み、恐れていた「母」の顔でもない。目尻の切開、こめかみのリフトアップ、そして頬の脂肪吸引。物理的な暴力によって、私はDNAという呪いを削ぎ落としたのだ。まだ内出血で赤黒く変色しているが、そこに張り付いているのは、父母の面影を持たない、無機質で、つるりとした「誰でもない男」の顔だった。
「……ざまあみろ」
誰に対しての言葉なのか、自分でも分からなかった。父にか。母にか。あるいは、かつてのマキにか。
私は勝ったのだ。生まれ持ったスペックの欠陥を、金と技術で「修正」したのだ。だが、その勝利の味を噛み締めた瞬間、背筋に冷たいものが走った。
鏡の中の男が、笑っていない。いや、口角は上がっている。だが、その瞳の奥にある光。整形された顔の出来栄えを、冷徹に、機能的に、商品価値として「査定」しているその眼差し。
見覚えがある。それは、私の英検の合格証書を鼻で笑った父の目だ。アトピーで爛れた私を「くだらない」と切り捨てた、あの冷酷な観察者の目だ。
鏡の奥で、父の声がした気がした。
『よくやった。それでこそ俺の作品だ』
私は鏡を伏せた。
そして何より、私は飢えていた。若い頃、アトピーという鎖に繋がれ、女性をまともに抱けなかった。その喪失感が、中年になった今、歪んだ性衝動として噴出している。若い生々しい雌の熱を貪(むさぼ)りたい。他者の粘膜に触れて、己の輪郭を確かめたい、柔らかい肉に埋もれて、この空洞を塞ぎたい。その渇望を満たすためだけに、私は顔を変え、リボ払いで未来を切り売りしている。
枕元のスマホが震えた。ブブブ、ブブブ。
画面をタップすると、カード会社からの督促メールと、リボ払いの増額を勧めるポップアップが重なって表示される。支払い総額は、四百万円。数字の羅列。ゼロが六つ。けれど、不思議と恐怖はなかった。むしろ、極限まで張り詰めた糸が切れた時のような、奇妙な浮遊感だけがある。
私は鏡を再び覗き込んだ。南国の湿気を吸った肌は、昨日よりも少しだけ腫れが引き、新しい鼻のプロテーゼ(人工軟骨)が、ダウンライトの光を鋭く反射している。私は指先で、その鼻筋をなぞった。硬い。そして、冷たい。私の体温とは違う、シリコンの冷たさがそこにある。その異物感こそが、今の私の背骨だ。
「……きれいだ」
私は鏡の中の造り物の自分に向けて、最高に魅力的な営業用の笑顔を作ってみせた。全身が火照っている。更年期にはまだ早いはずの火照りなのか、それとも過剰な薬物が引き起こす自律神経の暴走なのか。皮膚の内側で、血液が沸騰したコールタールのようにドロドロと循環している。エアコンの冷気さえも、この体内から湧き上がる熱を冷ますことはできない。
私は逃げ出すように部屋を出た。右手には、ぬるくなりかけた「アサヒドライゼロ」。酔うことさえ許されない、欺瞞のアルコール。それが今の私の相棒だ。エレベーターを降り、ロビーを抜け、人気のないプールサイドを横切る。塩素の匂いが鼻をつくが、すぐにそれすらも濃厚な夜気に塗りつぶされた。
浜辺へ出た。ANAインターコンチネンタルのプライベートビーチ。昼間は観光客の嬌声で満たされていたその場所は、今は巨大な墓場のように静まり返っている。足裏に伝わる砂の感触は、どこか動物の死骸を踏みしめるような不快な柔らかさを帯びていた。
ポツポツと、私は波打ち際へ向かって歩く。熱帯の風がヤシの葉を揺らし、ザワザワという不穏な音を立てている。その音は、私の皮膚の下で暴れている血流の音と同期しているようだった。
漆黒。目の前に広がる海は、昼間の美しいエメラルドグリーンではない。光を一切反射しない、圧倒的な質量の闇だ。
波の音が、巨大な獣の呼吸音のように聞こえる。寄せては返すそのリズムは、地球という巨大な有機生命体の脈動そのものだ。
背後の防風林からは、ザワザワ、ザワザワと、モクマオウの葉が擦れ合う音が響いている。無数の虫の声、葉が腐葉土へと還っていく匂い。ここには「生」と「死」が過剰な密度で充満している。私はその圧倒的な闇の前に立ち尽くし、自分が飲み込まれそうになる錯覚を覚えた。
湿気が、物理的な圧力を伴って私にまとわりつく。海水を煮詰めたような塩分を含んだ大気が、フェイスリフトの傷口を執拗に愛撫する。
こめかみの奥で、縫合箇所が疼いた。さっき飲んだロキソプロフェンは、もう効力を失っているらしい。あるいは、この熱帯の湿気が、薬効さえも無効化しているのか。苛立ちが募る。私はもう一錠取り出し、口に放り込んだ。面倒くさくてそのまま飲み込む。舌の上に残った化学的な苦味だけが、今の私にとってのリアリティだ。
二百万円をかけて引っ張り上げ、人工的に再構築された私の身体は、撥水加工されたプラスチックのように、この湿潤な空気を弾き返している。
汗すらも馴染まない。湿気と皮膚の間に、見えない膜がある。私はこの有機的な世界において、水と混ざり合わない一滴の油であり、分解されないプラスチック片だ。
ふと、足元で何かが動いた。スマートフォンのライトを向ける。白い砂の上を、小さなヤドカリが這っていた。貝殻という「借り物の家」を背負い、その中身を守りながら必死に足を動かす奇妙な生物。
お前も、中身はただの柔らかい肉なのだな。
私はそのヤドカリを踏み潰したい衝動に駆られたが、足は動かなかった。ただ、彼が闇の中へと消えていくのを呆然と見送った。手の中の「アサヒドライゼロ」が、生温かい汗をかいている。
「プシュッ」
缶を開ける音だけが、虚しく響いた。一口飲む。炭酸の刺激の後に来るのは、麦芽の風味を模倣した化学的な後味だ。酔えない。どこまで行っても、私はシラフのまま、この痛みに耐えなければならない。
私は衝動的に、その缶を海へ向かって放り投げた。銀色の缶が、闇の中で放物線を描く。
「バシャッ」
軽い音がして、それは着水した。私は目を凝らす。缶は沈まない。中身が残っているはずなのに、波間にプカプカと浮き、寄せては返す波に弄ばれている。
波が荒く、缶を珊瑚の岩場へと押し付ける。
「ガリッ」
遠くで、金属が岩に削られる音がした気がした。見ると、缶の表面にプリントされていた「アサヒドライゼロ」という銀色の塗装が、波と岩の摩擦によって剥がれ落ちていくのがわかった。商品名も、ブランドも、虚飾のラベルも、すべてが剥ぎ取られていく。
あとに残ったのは、むき出しのアルミニウムの地肌だ。
雲の切れ間から、月光が差し込んだ。その光を受けて、塗装の剥げたアルミ缶が、鋭く、冷たく輝いた。
「……きれいだ」
漂流は終わらない。私は夜明けの来ない熱帯の闇の中で、いつまでもその、月光に光る銀色の破片を凝視し続けていた。
(了)