日本刀とラーメン

日本刀とラーメン

記事
小説
【ご注意】本作には、職場での威圧的な言動、精神疾患、向精神薬の服用、希死念慮の描写が含まれます。体調や気分のすぐれないときは、無理に読み進めないでください。

本作はフィクションです。実在の人物・団体とは関係ありません。


石垣島のホテルのロビーで、自動販売機の缶コーヒーを買った。BOSSの、ブラック。

プルタブを引き、口をつける。フェイスリフトで引き上げられた唇は、まだ思うように閉じない。冷たい液体が、口の右端から一筋、顎へ伝った。

手の甲で拭う。ダウンタイムの皮膚には、まだ感覚が戻っていない。濡れているのかどうかさえ、指で触れてみないとわからない。

口の端からコーヒーがこぼれるのは、これが二度目だった。

一度目は、二十代の夏。市ヶ谷の、灼けたアスファルトの上だった。

あの夏に至る道は、神田川のほとりから始まっていた。

◇

早稲田の杜(もり)は、私が遠く札幌の地から夢想していた「学問の聖域」などではなかった。そこは巨大で騒々しい「レジャーランド」だった。

必死の思いで偏差値の壁をよじ登り、皮膚を掻きむしり、爪の間に血を滲ませて辿り着いたその場所には、私が求めていた知的な熱も、精神を研ぎ澄ますような競争もなかった。

札幌千歳空港から羽田へ飛び、電車を乗り継いで高田馬場駅へと降り立つ。改札を出た瞬間、鼻をついたのは強烈な有機臭だった。駅から商業ビル「BIGBOX」へ続くロータリーの地面には、学生のものと思われる吐瀉物が散乱している。胃酸とアルコールが混ざり合った酸っぱい臭い。私は呟く。

「BIG BOXのスラングなんか、誰も知らないか」

異様な悪臭に吐き気をもよおしつつ早稲田通りへと歩き出す。日拓のパチンコ屋から漏れ出る軍艦マーチとジャラジャラという騒音。CDレンタル屋の安っぽいポップミュージック。明治通りと早稲田通りの交差点。西早稲田二丁目のインド大使館公邸の裏、さらにその一本裏通り。そこに、その後の私の怠惰な時間を吸い取ることになる下宿があった。

神田川沿いに建つ、木造モルタルの古びた建物。四畳半一間、賄い付き。部屋に入ると、畳がささくれていた。窓を開ける。眼下を流れる神田川から、藻と生活排水が腐敗したような、ぬるく湿った臭気が立ち上ってくる。ドブ川の臭い。それが私の東京生活のベースノートになった。この下宿には、早大生を始め、芸大、外語大、明大と様々な学生が四十人ほど寄宿していた。彼らの出す生活音、笑い声、貧乏ゆすりの振動が、薄い壁を通して伝わってくる。

キャンパスの片隅には、色褪せた立て看板の名残があった。かつてこの大学を牛耳っていたという「革マル」の、角張った文字。その時代遅れの怒号の痕跡は、私には三文芝居の書き割りにしか見えなかった。

大学へはほとんど行かなかった。教授たちの講義は退屈で、図書館で埃をかぶった書物の引用ばかりを繰り返す。

「これが、俺が身体を削ってまで来た場所なのか」

たまに講義に行けば、内部進学の友人たちに英語のノートをひったくられる。失望はすぐに諦めへと変わり、私は下宿に引きこもった。

昼過ぎにのっそりと起き出し、素足に下駄を突っかけて、カランコロンと乾いた音を路地に響かせながら銭湯へ行く。熱い湯に浸かり、垢と鬱屈を洗い流す。風呂上がりに缶ビールを飲み、「赤マル」―マールボロ・レッド―に火をつける。強いニコチンとタールを肺の奥まで吸い込み、紫煙を吐き出す。一年が過ぎ、当然のように留年が決まった。親への罪悪感すら麻痺していた。

この神田川のぬるま湯のような日常が、私の精神をふやかし、腐らせていった。そんな澱んだ時間を物理的に切り裂いたのは、ブラウン管の中で輝く「幻の光」だった。

『ファイナルファンタジーX』

プレイステーション2の画面に映し出された、眠らない都市ザナルカンド。夜空を埋め尽くすネオン。巨大なスタジアムの歓声。そして闇の中をふわふわと漂う、幻光虫の淡い光。その圧倒的に緻密な世界に、私は打ちのめされた。震えた。

ここには「世界」がある。神田川のドブ川よりも、大学の講義室よりも、はるかにリアルで、切実な痛みを伴う質量のある世界が構築されている。主人公のティーダもまた、自分が誰かの見ている夢にすぎないかもしれない、という存在だった。

「スクウェア・エニックスへ行きたい」

それは逃避でも代替でもない。初めて抱いた明確な「所属への渇望」だった。私は銀行員にも商社マンにもなりたくない。人を傷つけず、ただ圧倒的な没入感だけを提供する、このエンターテインメントの最前線に行きたい。

就職活動を始めた。だが、スクウェア・エニックスへのエントリーシートは、書類の段階で落とされた。戦略が必要だった。私は業界をリサーチし、硬派な格闘ゲーム「バーチャファイター」で知られていた「SEGA」に狙いを定めた。SEGAを踏み台にして、スクウェア・エニックスへ行く。私はポートフォリオを作った。東京メトロの地下網をモチーフにした、サイバーパンク仕立ての模型。

湿ったコンクリートとネオンが交錯する地下迷宮。それはザナルカンドの夜景への憧憬と、都市の排泄物へのフェティシズムが混ざり合った、私なりの「眠らない街」だった。だが、門前払いだった。計算が狂った。手元に届いたのは、運命の悪戯か、「株式会社ガルド」からの会社案内のハガキだった。

仕方なく足を運んだ市ヶ谷のビル。面接の日。通された部屋の空気は、大学のそれとは明らかに異質だった。張り詰めた緊張感。煙草の煙が充満し、視界が白く霞んでいる。そして、奥の席に座る男の背後には、抜き身の日本刀が飾られていた。模造刀ではない。冷たい光を放つ、本物の鋼(はがね)だ。早稲田出身のプロデューサーで面接官、後に私の上司となるクジョウは、その日本刀のように鋭く、危険な眼をしていた。仕立てのいい黒いスーツに、薄い色の眼鏡。クリエイターというよりは、ロックスターか、あるいは組事務所の若頭のような出立ち。彼がゆっくりと色の入った眼鏡の位置を直し、低い声で問うた。

「お前、何しに来たの?」

私は喉が張り付くのを感じながら、用意してきた言葉を並べようとした。

「あ、ええと、私は……御社のゲームの……」

「つまんねえな」

彼は煙を吐き出しながら遮った。

「早稲田なんだろ? 俺もだよ。で、お前は何ができるわけ?」

私はしどろもどろになりながら、自分の模型やポートフォリオを差し出した。彼はそれをパラパラと見て、鼻で笑った。

「まあいいや。根性はありそうだしな」

結局、彼が私を採用したのは、私のクリエイティビティへの評価ではなかった。早稲田卒という、学歴社会における同族のタグが一致して、たまたまシンパシーを感じた、彼の気まぐれだった。ただ、クジョウのスーツから漂うタバコの臭いだけが、私の衣服にこびりついて離れなかった。

◇

そこは、現代のコンプライアンスという概念が真空パックの中で窒息死している場所だった。ネットの海には決して流出しない、恐怖によって統治された帝国。フロアには常に、鉛のような沈黙と、怒号の余韻が張り詰めている。

ディレクターたちは思考回路を切断されたYESマンとして機能し、王の言葉は絶対的なアルゴリズムとして君臨していた。電話の受話器を置く角度が一度ずれただけで、フロア全体の空気が凍りつく。罵声が飛ぶ。社員たちは次々と精神の摩耗を起こし、ある者は脱走兵のようにIDカードを机に残して消えていった。

ある昼下がり。キーボードを叩くカチャカチャという乾いた音が、波が引くように止んだ。革靴の足音が近づいてくる。コツ、コツ、コツ。そのリズムだけで、フロアにいる全員の背筋が硬直する。

クジョウだ。私の背後で足音が止まった。上着の衣擦れの音がする。

「おい、シノハラ」

心臓が跳ね上がり、肋骨の内側を叩いた。叱責か。気まぐれな暴力か。私は強張った顔で、油の切れたロボットのように振り返った。色の入った眼鏡の奥の目が、私を見下ろしている。

「ラーメン食いに行くぞ」

周囲から、安堵と私への同情が混ざった排気が漏れるのがわかった。私は「分かりました」とだけ答え、忠実な牧羊犬のように席を立った。

市ヶ谷の大通りに出ると、彼は車道に向かって無造作に手を挙げた。

「あの、店ならそこですが」

私が指差した先は、歩いて数分の距離にある有名店だ。だが、彼は苛立ったように煙草の煙を吐き捨てた。

「いいんだよ」

滑り込んできたタクシーの後部座席に押し込まれる。車内には、彼が染み付かせた煙草のヤニの臭いと、革製品特有の獣の臭いが充満した。運転手がメーターを倒すか倒さないかのうちに、タクシーは止まった。ワンメーターにも満たない距離。金と権力で物理的な距離と時間をねじ伏せるその振る舞いに、私は何も言えなかった。

湯気が立つカウンター。彼は麺をすすりながら、不意に私を見た。

「女はいるのか?」

唐突な問い。そこに人間的な興味などないことは分かっていた。

「いや……特には」

私は曖昧に濁した。本当のことを言う必要などない。有名店のラーメンは、ゴムを噛んでいるように味がしなかった。ただ、隣に座る怪物の機嫌を損ねないよう、胃袋という袋に炭水化物と脂質を流し込むだけの作業だった。

その数日後だった。帝国が崩壊したのは。

ある朝出社すると、絶対的な王だった彼の席が空になっていた。私物は段ボールに詰められ、背後の壁からは、あの日本刀も消えていた。壁紙に、刀掛けの形だけが白く日焼けせずに残っていた。

理由は誰も知らなかった。ネットニュースには一行も載らない。誰もその話題に触れようとしない。噂だけが、開発室のPCモニターの裏側で、煙草の煙のように漂っては消えた。

自主退職。誰かが小声でそう言った。

私は、あのタクシーの中での「女はいるのか」という問いを反芻していた。あの問いに、何の意味があったのか。もしあの時、「います」と答えていたら、何が起きていたのか。答えのないまま、ゴムを噛むようなラーメンの食感だけが、胃酸と一緒に込み上げてきた。

数ヶ月前。開発終盤になると、私たちは五階にある「収容所」へと送り込まれた。シャワー室付きの仮眠フロア。野戦病院のような場所だ。連日の泊まり込み。不潔なシーツと、男たちの澱んだ呼気。そこで見る夢は、静謐な「マカラーニャの森」などではない。終わりのないバグチェックと、クジョウの不機嫌に怯える悪夢だけだった。

崩壊の時は、二〇〇七年の夏に訪れた。『ブラッド・ラッシュ』制作の佳境。八月の猛暑日だった。罵声が飛び交うフロアから逃げるように、私は同僚とビルの外へ出た。アスファルトからの照り返しが、睡眠不足の脳を焼く。陽炎が揺れている。私は自販機で買った「BOSS」の缶コーヒーを開け、赤マルに火をつけた。強いニコチンとカフェインで、無理やり覚醒レベルを引き上げる。そうでもしなければ立っていられなかった。その時だ。

世界が歪んだ。視界のパースペクティブ(遠近法)が狂い、地面が斜めに滑り落ちていく感覚。右手が痙攣し、握っていたBOSSの缶から茶色い液体がこぼれ落ちる。

「おい、シノハラ? 大丈夫か?」

同僚の声が遠い。何か答えようとした。

「あ、ああ、なんでもな……」

言葉が空気漏れのような音にしかならない。唇が閉じないのだ。口の右端から、コーヒーがダラダラと、まるでパッキンの壊れた蛇口のように流れ出し、止まらなかった。

顎に伝う温かい液体。手で拭っても拭っても、液体は意思に反して溢れ出る。

「お前、顔……顔が変だぞ!」

右瞼が閉じない。瞬きができない。右の唇が動かない。私の顔の右半分は、重力に従って垂れ下がるだけの肉塊と化していた。私はそのまま、灼熱のアスファルトに膝をついた。

搬送された先は、近くの総合病院だった。診断名はベル麻痺。過度のストレスによる顔面神経麻痺だ。一ヶ月の入院生活。私の治療は、右の首のリンパにステロイドを点滴で直接注入し続けることだった。透明な管を通って、大量のステロイド剤が血管に流れ込む。それは私の免疫系を破壊し、同時に、精神の均衡までも溶解させた。

ステロイド精神病。副作用による重度の抑うつ状態。夜になると、天井のシミが動き出し、巨大な蟲になって私を見下ろす。希死念慮が、黒いタールのように脳の皺の隙間を埋め尽くしていく。両親は一度も来なかった。電話すらなかった。私は文字通り、世界から切断されていた。ここには、ゲームの中の森のような静謐な悲しみさえない。あるのは、薬剤によってケミカルに汚染された脳が見せる、孤独な幻覚だけだった。

ある夜、病室のテレビが青白く光った。流れてきたのは、『ファイナルファンタジー』のCMだった。テレビ画面の向こうの美しいCG映像。それは、神田川の下宿で見たあの衝撃と同じ輝きを放っていた。

「俺は、何をしているんだ」

私はガルドで「修行」をしているつもりだった。だが、現実はどうだ。顔半分が溶け落ち、精神を病み、孤独なベッドで腐りかけている。私は震える手でシーツを握りしめた。ここを出る。そして、今度こそスクウェア・エニックスへ行く。

だが、今のボロボロの私では、あの城塞は落とせない。正面突破は不可能だ。ならば、迂回する。遠回りでもいい、確実に中枢へ侵入するための新たな武器を手に入れるのだ。

「デジタルハリウッド」

CGムービーを専門学校で学び直し、クリエイターとして再生する。ステロイドで濁った頭の中で、そのプランだけが鮮烈な光を放っていた。

私はガルドへの辞表を心の中で書き上げ、新たな戦場への地図を描いた。

皮肉なことだった。この大量のステロイド・パルス療法は、私の顔面神経を修復すると同時に、私の幼少期からの呪い――アトピー性皮膚炎――を、一時的にではあるが、魔法のように消し去ってしまったのだ。象のように硬化し、粉を吹いていた皮膚は脱ぎ捨てられた。代わりに鏡の中にいたのは、ステロイドの副作用(ムーンフェイス)で少し浮腫んだ、ビニールのように滑らかで、毛穴のない不自然な「仮面」のような顔だった。

「身体の痛み」が消えた空白に、今度は「精神の痛み」が雪崩れ込んできたのだ。退院後、私は社員寮に戻ったが、会社に行くことができなくなった。朝、目が覚めると体が鉛のように重い。天井の木目が、巨大な百足(ムカデ)のように蠢いて見える。希死念慮が波のように押し寄せる。私は寮の薄暗い部屋で、膝を抱えて震えていた。

なんとか、会社に辿り着き、私は怯えながらマウスを握る。開発終盤になると例の怒号が響いてくる。

「あと二時間だぞ」

私のマウスを握る右手が再び震えだす。カチ、カチ、カチ。クリック音が耳障りだ。

「間に合うのか」

自問自答しながら、刻々と迫ってくるマスターアップまで、かろうじてマウスを操ってゆく。綱渡りの日々だった。

そして、ある日限界がきた。私は、泣きじゃくりながら本八幡の精神科クリニックの門を叩いた。処方されたのは、「リタリン」だった。その年の暮れには、うつ病への処方が禁じられることになる薬だった。

中枢神経刺激薬。覚醒剤と同様の成分。依存症や幻覚などを引き起こす危険がある白い錠剤。それを飲むと、脳内の霧が一瞬で晴れた。全能感が駆け巡る。私は神になったような気分で、マウスを高速で動かした。だが、薬が切れれば、泥のような鬱が倍返しで襲ってくる。

覚醒していたある夜、ふと、大学時代の記憶がフラッシュバックした。四年生のゼミで知り合った、あの女の顔だ。当時、私の肌はボロボロに溶けていた。それなのに、彼女は「お付き合いしてほしい」と言ってきた。私は彼女のことが好きではなかった。容姿が受け付けなかった。名前も思い出せない。だが、アトピー性皮膚炎のせいで女性経験が皆無だった私は、ただ「セックスがしたい」という獣のような衝動だけで、その申し出を受けた。

私は彼女を愛さず、ただ貪った。半年後、私はボロ雑巾のように彼女を捨てた。理由はなかった。ただ、自分の醜い自尊心が、彼女の存在を許せなかったのだ。

彼女は狂った。夏が過ぎ、ショートヘアを長い茶髪に変え、ストーカーと化した。週に一度ポストに投函される、呪詛のような手紙。「愛のない性交」の記憶が、今の私の覚醒と抑うつと共鳴する。私は布団の中、リタリンの切れた脳で、動かない右顔面を押さえながら、声を殺して泣いた。

あれから長い時が流れた。スマートフォンの画面でクジョウの訃報を見た時、私の胸に去来したのは哀悼の意ではなく、奇妙な虚無感だった。あの圧倒的な暴力性、恐怖で他人を支配したエネルギー、そして創作への執着。それら全てが、ただの有機物の停止として処理されたのだ。

ただ、五階のシャワー室のカビ臭い記憶だけが、脳の片隅にこびりついている。

◇

ロビーのソファで、私はBOSSの缶をもう一度傾けた。今度は、唇の左側に缶の縁を当てた。

コーヒーは、こぼれずに喉を落ちていった。

苦かった。あの日、アスファルトにこぼれていったのと、同じ味がした。

(了)


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