皮膚の雪

皮膚の雪

記事
小説
【ご注意】本作には、アトピー性皮膚炎の症状、向精神薬の服用、性的な描写が含まれます。体調や気分のすぐれないときは、無理に読み進めないでください。

本作はフィクションです。実在の人物・団体とは関係ありません。


石垣島のホテルで目を覚ますと、白いシーツの上に、小さな茶色いかけらが落ちていた。

こめかみの縫合痕にできたかさぶたが、寝ているあいだに剥がれたらしい。フェイスリフトから、一週間が経っていた。

私はそれを指先でつまみ上げた。乾いていて、軽い。息を吹きかければ、どこかへ飛んでいってしまいそうだった。

かつて私の身体からは、毎日、こういうものが雪のように降っていた。

ゲーム会社で顔の半分が動かなくなり、逃げるように会社を辞めた、あとのことだ。

◇

国立市、家賃四万五千円のワンルーム。ここが私のシステム再起動の場所だ。リタリンが切れると泥のように眠り、飲むと神のように覚醒する。その振幅の中で、私は二つの顔を持った。昼は近所の画家に弟子入りし、デッサン用の木炭とテレピン油の匂いに塗れ、夜は御茶ノ水にある「デジタルハリウッド東京校」へ通う、狂ったような二重生活だ。

御茶ノ水の校舎には、未来の匂いがした。何十台ものハイエンドのワークステーションが並んでいる。その黒い筐体が排熱する、甘く乾いた電子の匂い。ファンの回転音。

私が専攻したのは「3DCGデザイナー専攻」。当時、ハリウッドのフル3DCGの映像が、毎年のようにスクリーンの常識を塗り替えていた。その魔法を支えていたソフトのひとつが「Maya」。私はこのソフトを使いこなし、再びエンターテインメントの中心へ戻るための武器を研ぎ澄ませた。

私はすでにガルドでプロとして飯を食っていたモーションデザイナーだ。だが、その事実は隠した。ここでは「ただの学生」として、ゼロからモデリング、テクスチャー、ライティングを学び直す。しかし、実力の差は隠しようもなかった。入学してすぐに、私はTA(ティーチング・アシスタント)に抜擢された。昨日まで教わる側だった私が、今日からは教壇に立ち、迷える学生たちにポリゴンの頂点の打ち方を教えている。

「シノハラさん、すごいですね」

「どうやったらそんな動きが作れるんですか」

学生たちの称賛が、ガルドでズタズタにされた私の自尊心を少しずつ修復していく。パテで穴を埋めるように。

ステロイドの余韻でアトピーも鳴りを潜めている。肌はビニールのように綺麗で、TAとして尊敬され、リタリンで脳は冴え渡っている。人生で初めて、私は「全能」に近い場所にいた。

そんな教室の片隅に、彼女はいた。マキ。恋人と別れたばかりだという彼女は、どこか日本の湿気とは違う、乾いた寂しさを纏っていた。席が隣同士になったのは偶然だったのか、必然だったのか。彼女のデザインセンスは群を抜いていた。

私がロジック(技術)で構築する世界に対し、彼女はセンス(感性)で色を置く。

「ここのライティング、もう少し青を入れたら?」

彼女の指摘はいつも的確だった。私たちは深夜の教室で、モニターの青白い光に照らされながら語り合った。私の隠しているプロとしての過去も、彼女には話したかもしれない。彼女の瞳に映る私が、ただの「無職の男」ではなく、「尊敬できるクリエイター」であることが、私の乾いた心に水を満たしていった。

徐々に関係は深まり、私たちは付き合うことになった。だが、私の心の奥底には、あの父の影と、大学時代のストーカー女の記憶がヘドロのように沈殿していた。

夏の国立。四畳半のアパートは蒸し風呂のようだった。エアコンの効かない部屋で、私たちは汗だくになりながらセックスをした。リタリンで過敏になった神経に、彼女の皮膚の粘り気が絡みつく。事後のけだるさに包まれながら、私は天井のシミを見上げていた。

隣でマキが、私の背中に浮き出た汗を指先でなぞっている。その温もりが心地よいと同時に、怖気が走るほどの恐怖でもあった。これ以上、踏み込まれるわけにはいかない。

私は彼女の方を見ずに、吐き捨てるように言った。

「俺さ、結婚とかしないから」

背中をなぞる指が止まった。

「……うん」

「子供もいらない。俺の遺伝子は残したくないんだ。俺みたいな欠陥品が増えるだけだから」

マキはしばらく黙っていた。窓の外で、エアコンの室外機が唸る音だけが、狭い部屋に響いている。やがて彼女は、再び私の背中をゆっくりと撫で始めた。

「いいよ」

彼女の声は、拍子抜けするほど平坦だった。

「しのちゃんがそう言うなら、それでいい」

私は振り返り、彼女の顔を見た。怒っているわけでも、悲しんでいるわけでもない。ただ、諦めたような、それでいて全てを許容するような聖母の目がそこにあった。

卒業制作の時期が来た。私はリタリンをラムネ菓子のように噛み砕き、徹夜を繰り返した。脳のリミッターが外れ、「過集中」というバグが暴走する。眠くない。空腹もない。ただ、モニターの中のポリゴンだけが現実だ。

完成したのは、映画『ブレードランナー』を彷彿とさせるサイバーパンクの世界。精緻な3DCGで構成されたクレーンゲーム(UFOキャッチャー)の中で、脱出を図ろうとする編みぐるみ達の物語だ。悲しげな旋律を奏でる「BladeRunner(End Titles)-Vangelis-1982-」。格闘ゲームを思わせる 60fps の滑らかな動き。

テクニック(技術)は完璧だった。誰にも負けない自信があった。全てが完璧だと思った。だが、結果は「準優勝(次点)」だった。優勝したのは、地味で目立たない学生の作品だった。卒業制作で優秀賞を受賞したのは私含め二名だった。しかし、「最」優秀賞ではなかった。「次点」。また次点だった。

「なぜだ」

心の中で叫んだ。昔の傷が疼いた。高校受験の時と同じだ。

クリエイターとしての敗北。帰り道、私は銀色のトロフィーをゴミ箱へ叩き込んだ。

金属がゴミ袋にぶつかる鈍い音。だが、隣にいたマキだけは違った。

「しのちゃん、本当におめでとう!」

彼女はゴミ箱を漁り、トロフィーを拾い上げると、心底嬉しそうに私の顔を覗き込んだ。そして、私が提出したポートフォリオを、まるで宝物のように抱きしめた。

「これは、私が持っておくね」

彼女が選んだスタイリッシュなクリアバインダーに収められた私の作品集。彼女はそれを、私たちが別れた後も捨てずに持ち続けることになる。

「スクウェア・エニックスに行きたい」と夢を語ると、周りの同級生たちは「行けるわけがない」と嘲笑した。だが、彼女は笑わなかった。

私はガルド時代の『ブラッド・ラッシュ』の実績と、デジタルハリウッドで創ったムービー作品を、しかたなく一つのポートフォリオに叩き込んだ。選択肢は無かった。株式会社スクウェア・エニックス。

面接は、拍子抜けするほど簡単だった。私のポートフォリオを見た面接官は、ページをめくる手を止め、即座に採用を決めた。遠回りをした。執念だけで勝ち取った切符だった。

顔半分を失いかけたが、ついに、あの神田川の下宿で夢見た『ファイナルファンタジー』を作る場所に辿り着いた。周囲の羨望と嫉妬が入り混じる視線の中で、私は選ばれた人間だという優越感に「少し」ばかり浸っていた。

スクウェア・エニックスへの入社。憧れの『ファイナルファンタジー』を作る。入社を控えた十一月、私とマキは同棲を始めた。最初は阿佐ヶ谷にあるマキのアパートに私が転がり込んだ。六畳一間、1Kの狭い部屋だったが、そこには確かな熱があった。その後、スクウェア・エニックスに入社し、給与が入るようになると、私たちは南阿佐ヶ谷を経て、阿佐ヶ谷北にある2LDKのマンションへと引っ越した。

貧乏学生のような生活は一変した。スクウェア・エニックスの給与は高く、マキも働いていたため、私たちは毎晩のように外食し、欲しいものを値札も見ずに買う贅沢な暮らしを始めた。マキとの暮らしは、穏やかで温かかった。彼女はいつも私に愛情を注いでくれた。東京に大雪が降った日、私たちはマンションの駐車場に出て、二人で雪だるまを作った。かじかんだ手を温め合いながら見上げた空は、どこまでも白かった。

彼女は記念日を大切にした。クリスマスには、スタッフィング(詰め物)まで入った本格的なチキンの丸焼きと、パエリアを作ってくれた。私たちは無理をして買ったヴーヴ・クリコやモエ・エ・シャンドンを開け、彼女が買ってきた有名店のケーキを食べた。

夜中に小腹が空けば、向かいにあるラーメン屋へサンダル履きで駆け込んだ。湯気の中でラーメンをすする何気ない時間が、幸せと呼べるものだったのかもしれない。彼女は毎日、毎日私に自筆の絵手紙を書いてくれた。

「しのちゃん、身体にきをつけてね!」

ダイニングテーブルの上に置かれたその拙くも優しい絵を見るたび、私は自分が愛されていることを実感した。

入社初日、会議室に呼ばれた私を待っていたのは、プロデューサーからの無機質な事務連絡だった。

「君は、野球ゲームの開発だ」

耳を疑った。ファイナルファンタジーではない。与えられたのは、小さな開発エリアの端にある、個人ブースだった。

当時、私は西新宿にあったスクウェア・エニックスの本社に通っていた。だが、配属先は希望していたファイナルファンタジーのチームではなかった。携帯電話向けの、野球ゲームの制作班だった。野球に興味のない私は、仕方なくその制作班でポリゴンを操っていた。

仕事は「トレース」だった。実在の野球選手の動きをビデオで見て、それを1ミリの狂いもなくポリゴンで再現する。そこに私の創造性が入り込む余地は1ミクロンもなかった。

私は「ファンタジー(幻想)」を作りたくてここに来たはずだ。なのに、なぜ来る日も来る日も、現実の男たちの動きをなぞっているのか。

「ついていけない」

ファイナルファンタジーを創れない焦りがストレスとなり、虚無が、私の皮膚を蝕み始めた。ストレスでアトピーが爆発した。ビニールのような仮面は剥がれ落ち、再び「剥落する雪」の時代が訪れた。自宅マンションのフローリングの床に、私の皮膚片が雪のように積もるようになった。

皮肉な出会いもあった。同じ開発メンバーに、若いサウンド担当の男がいた。驚いたことに、彼もまた重度のアトピー性皮膚炎を患っていた。彼の肩には、剥がれ落ちた皮膚がフケのように白く積もっていた。

彼は時折、顔や体をポリポリと掻きながら、それでも前を向いてキーボードを叩き、音を紡いでいた。同じ病を持ち、同じ狭い部屋にいながら、彼は「創造」し、私は「摩耗」していた。

数日間、意識が混濁するほどの痒みの中で、私はただ、ここではないどこかへ行くことばかりを考えていた。阿佐ヶ谷のマンション。ここだけが、私のシェルターだった。だが、そこもまた私の皮膚という「雪」で埋め尽くされようとしていた。ボロボロと剥がれ落ちる皮膚片。フローリングの床に、私の存在の残骸が散らばる。マキは、それを嫌がる素振り一つ見せなかった。彼女はまず、箒とちりとりを持ってくると、床に散らばる私の皮膚を、壊れ物を扱うように丁寧に集めた。サッ、サッ。静かな音だけが響く。一箇所にまとめ、それを掃除機で吸い取る。その後、部屋全体に掃除機をかけ、最後は雑巾でピカピカに磨き上げる。

最初はただ、突っ立ってそれを見ていた。

「ごめん……」

言葉にならなかった。やがて私も、無言で彼女の隣に座り、自分の皮膚を集めるようになった。いつも部屋を綺麗にし、風呂上がりには私の手が届かない背中にクリームを塗ってくれた。彼女は私の皮膚の状態を気味悪がることなく、ただ純粋に心配してくれた。マキが調べてくれた北里大学病院へ行き、漢方を処方してもらった。彼女は毎日キッチンで漢方を煮詰め、苦い薬湯を作ってくれた。部屋には、独特の匂いが充満していた。その土の匂いと、毎朝ダイニングテーブルに置かれる彼女の手書きの絵手紙。

「しのちゃん、きょうもがんばってね!」

拙い絵と、土の匂い。それが彼女の愛の形だった。私はその愛に溺れながら、親友のモリに「俺の彼女は最高なんだ」と自慢した。私の皮膚を拾う彼女の背中は、いつだって温かく、そして痛々しいほどに綺麗だった。

◇

ホテルの部屋で、私はシーツの上のかさぶたを、しばらく指先に載せていた。

ここには、箒もちりとりもない。拾い集めてくれる人もいない。

私はそれを、ベッドサイドのゴミ箱の上で、指から離した。

軽すぎて、音もしなかった。

(了)

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