凍てつくバス停

凍てつくバス停

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小説
本作はフィクションです。実在の人物・団体とは関係ありません。

石垣島のホテルで、エアコンの設定温度を十九度まで下げた。

ダウンタイムの腫れには、冷やすのがいちばんだとクリニックで言われていた。脂肪を吸い出した腹も、引き上げた頬も、冷気に当てているあいだだけは疼きが鈍くなる。

毛布にくるまってベッドに横たわっていると、やがて指先が冷えてきた。爪の付け根から、じわじわと感覚が抜けていく。

この冷たさを、私は知っている。

マイナス二十度の工業地帯。来ないバスを待ち続けた、トロントのバス停の冷たさだ。

◇

トロント・ピアソン国際空港の滑走路に、機体がなだらかに、音もなく滑り降りた。窓の外には、どこまでも広がる無機質な大地と、低い空があった。妹のハワイ挙式以来、数年ぶりに踏む異国の土。

到着ロビーには、先に渡航し、私を待っていたマキの姿があった。だが、再会の抱擁は遅れた。税関で、私の背負ったギターが引っかかったからだ。 「What’s inside?」

係官の訛りのある英語が聞き取れない。ケースを開けさせられ、中身を検分される。ギター。ただの楽器だ。だが、私の拙い英語力ではそれをスムーズに説明できず、別室で待たされた。

三時間を費やし、ようやく出口へ抜け出た時、マキはベンチに座り込んでいた。

「マキ」

私が声をかけると、彼女は顔を上げた。その瞳には、安堵よりも深い疲労の色が滲んでいた。

「遅いよ……どうしたの? 大丈夫だった?」

「ああ、ギターが引っかかってさ。係官の英語が訛ってて分かりづらくて」

私は悪びれもせずに言い訳をした。彼女はため息をつき、タクシーを手配した。車窓を流れるトロントの夜景は、宝石を散りばめたように美しかったが、車内の空気は少し張り詰めていた。マキは窓の外を見つめたまま、静かに口を開いた。

「ねえ」

「ん?」

「どうして、私だけ先に来なきゃいけなかったの?」

その問いに、私の心臓が跳ねた。彼女の視線が、窓ガラスの反射越しに私を射抜いている。私は視線を逸らし、日本で練り上げてきた嘘を口にした。

「だから、言っただろ。仕事が忙しかったんだよ。引き継ぎとか、色々あって」

それは真っ赤な嘘だった。スクウェア・エニックスでの激務を口実に彼女を先に追いやり、私は日本で三人の女性と遊ぶ時間を確保していたのだ。その空白の数ヶ月間、私が別の女の身体を貪っていたことを、彼女は知らない。マキは私の嘘を見透かしたように、ぽつりと漏らした。

「……寂しかった」

その一言は、雪のように冷たく、私の胸に降り積もった。私はマキの手を握ろうとしたが、やめた。私の手にはまだ、ナオの感触と、カエデの視線がこびりついていたからだ。

タクシーは高層マンション群の一角に停まった。地図を頼りにたどり着いた十八階の一室。ホームステイ先だ。チャイムを鳴らすと、痩せて愛想のない白人中年女性が現れた。案内されたのは、六畳ほどの狭い部屋だった。そこには子供用の小さな勉強机とベッドだけが置かれていた。暖房が効いておらず、空気が冷え切っている。

「シャワー室はここ」

「朝、このリンゴとバナナを食べてもいいわ」

女主人はダイニングテーブルの籠に入った果物を一瞥し、そう言い捨てて寝室へ消えた。テーブルの上に置かれた青リンゴと、黒い斑点の浮いたバナナ。寒々しい静物画のように見えた。

私は部屋に入り、荷物を解いた。ギターケースが場所を取り、足の踏み場もない。

「最悪だな」

留学エージェントのカウンセラーに心の中で舌打ちした。私は初日で転居を決意した。

翌日、トロント大学教育研究所 (OISE) でのオリエンテーションとプレイスメントテストが始まった。私は自信を持っていた。西新宿の会社を何度も抜け出して近くのECCに通い、英検準一級を取得していたからだ。だが、その自信は試験開始とともに崩れ去った。

隣の席には、恰幅の良いイスラエル人の女性が座っていた。彼女はスラスラと解答を埋めていた。

「永住ビザがどうしても必要なのよ」

シングルマザーで二人の子を抱える彼女の、生活を背負った英語の前に、私の受験英語は無力だった。文法は知っている。単語も知っている。だが、生きた言葉が出てこない。結果は、最下位クラス。

二〇一三年九月。私のトロント生活は、屈辱からのスタートとなった。

最下位クラスには、短期留学で遊学しに来ていた日本人大学生がいた。「三単現のS」を復習するような初歩的な授業。彼らは日本語で雑談し、ヘラヘラと笑っている。私は愕然とした。会社を辞め、キャリアを捨てて来た場所がここか。私は焦燥感に焼かれ、狂ったように勉強した。

二度目のプレイスメントテストが来た。最上位クラスに上がると、私はナラボという変わった名前の韓国人と同じクラスになった。彼と私だけが、真面目に勉強する学生だった。一年目の冬、担任の女性教授が突然、心不全で世を去った。人の死がこれほど唐突に日常を断ち切ることを、私は初めて知った。吹きさらしの丘の上の墓地。乾いた風の中、光沢のある黒い木製の棺が土の中へと沈んでいく。映画のワンシーンのような非現実的な光景の中で、私はナラボと花と土を棺に被せながら、止まらない涙を拭った。親しかったわけではない。だが、異国の凍土に還る魂への哀悼は、私の奥底を揺さぶった。教授の急逝により、カリキュラムは白紙に戻った。大学側は私たち最上位クラスの生徒に対し、救済措置として一年の学費免除を提示した。

再度のプレイスメントテストを経て、私は新任の教授が受け持つ最上位クラスに再び名を連ねた。ナラボも、そしてマキも、同じ最上位レベルにいた。私たち三人は連日、「ティム・ホートンズ」で安価なドーナツ「ティムビッツ」をつまみながら、英文法の構造について議論した。

厳しい寒さが何度も訪れた。OISEの休憩時間、ヘビースモーカーだった私は、かじかんだ手を何度もポケットに突っ込みながらタバコを吸い、敷地を仕切る金網の外の凍った地面に吸い殻を投げ捨てた。吐く息は白く、未来はまだ見えなかった。

生活の拠点は、ナラボが紹介してくれた一軒家に移っていた。家主は建築士の夫と英語教師の妻。典型的な肥満体の二人は、週末になるとケンタッキーフライドチキンを大量に買い込み、地下のミニシアターで映画を貪るように見ていた。脂ぎった指でリモコンを握る彼らを見て、私は北米文化のグロテスクな一面を見た気がした。

同じ家にはクルド人の男が住んでいた。彼はよく私をパーティーに誘った。地下の部屋には甘ったるい煙が立ち込め、テーブルには緑の葉が混ぜ込まれた「スペースケーキ」が並んでいた。音楽と煙で、意識が甘く混濁する夜もあった。

ハロウィンの前夜には、巨大なカボチャをくり抜き、いくつものキャンドルを灯して幻想的なオブジェを作った。一方で、マキはトロント市内の教会でボランティアをしていた。食事もままならない貧しい人々にスープを配る彼女の姿は、聖女のように優しかった。彼女の周りにはいつも人がいて、そのコミュニケーション能力の高さに、私は劣等感を抱いた。

私はと言えば、現地の日本人女性に声をかけて回るような軽薄さを捨てきれずにいたが、誰とも深く関わることはなかった。マキの清らかな目が、私を辛うじて勉学へと引き戻していた。

トロントの冬は、私の故郷である札幌の冬を思い出させた。だが、その白さは札幌よりも鋭利で、逃げ場がなかった。マイナス二十度を下回る極寒の日。ホームステイ先で、日本からの荷物の不在票が入っていたことがあった。電話をすると、倉庫まで取りに来いという。そこは地下鉄の駅から遠く離れた、荒涼とした工業地帯だった。

私とマキは、凍てつく風の中を歩いた。まつ毛が凍りつき、瞬きをするたびにパリパリと音がする。目が開けられないほどの吹雪の中、私たちは身を寄せ合ってバス停に立っていた。

バスは来ない。

一時間。

永遠のような待ち時間。

「寒いね」

マキが白い息を吐きながら、私の腕をぎゅっと掴んだ。彼女の体温が、ダウンジャケット越しに伝わってくる。

「ああ、寒いな」

私は答えた。だが、心の中では舌打ちをしていた。なんで俺がこんな目に。早く帰りたい。部屋で暖房をつけて、コーラを飲みながらネットがしたい。彼女の体温を感じながらも、私の心はここにはなかった。彼女の「二人で乗り越えよう」という健気さが、私には重荷でしかなかった。

一年半が過ぎた。コース修了日。私は最終試験の結果など気にも留めず、視聴覚室でナラボとネットサーフィンに興じていた。

「お前、呼ばれてるぞ!」

友人に連れ出され、パーティー会場の檀上に立たされた。スポットライトが眩しい。 私は、学年約二〇〇人の中のトップテン、「最優秀学習者」として表彰されたのだ。手の中には、トロント大学院への入学許可証があった。マキもまた、優秀な成績で合格し、さらにTA(ティーチング・アシスタント)の資格と奨学金までオファーされていた。完璧な未来だった。マキは目を輝かせていた。この街で、二人で研究生活を送る。それが彼女の描いた青写真だった。

パーティーの喧騒の中、私はマキを呼び止めた。

「マキ、話がある」

「うん? なあに、お祝い?」

彼女は無邪気に微笑んだ。私はその笑顔を裏切る言葉を用意していた。

「俺、イギリスに行こうと思う」

マキの笑顔が凍りついた。

「え……? イギリス? トロント大学院は?」

「行かない。ここは寒すぎる。それに、文化がない」

私は吐き捨てた。それは傲慢な理由だった。だが、本当の理由は別にあった。

『MASTERキートン』

かつて読み耽った漫画の主人公、平賀=キートン・太一。彼の母校であるオックスフォード大学。その琥珀色の学び舎への憧れが、私の中で再燃していたのだ。

「キートンの母校に行きたいんだ。オックスフォードに」

マキは呆れたように口を開けた。

「漫画……? そのために、せっかくの合格を捨てるの?」

「ああ。俺は頂点に行きたいんだ。分かるだろ?」

彼女は深いため息をついたが、結局は承諾した。再び英語を勉強し直すことになった彼女の目には、諦めにも似た色が浮かんでいた。

私たちは、仲睦まじいカップルを演じていた。ある週末、トロント市庁舎前にある「ネイサン・フィリップス・スクエア」へ行った。ライトアップされたスケートリンク。私たちはレンタルしたスケート靴を履き、氷の上を滑った。私がバランスを崩して転ぶと、マキもつられて転んだ。

「あはは! しのちゃん、下手くそ!」

氷の上で笑い転げる二人。映画のワンシーンのような幸福な光景。だが、私の頭の片隅には、常に冷たい計算があった。早くTOEFLのスコアを取らなきゃ。イギリスに行かなきゃ。こんなところで遊んでいる場合じゃない。

マキは楽しそうだった。彼女はトロントに馴染んでいた。イラン人のルームメイトや、地元のテレビ局で働くインテリ女性の家庭でホームステイをし、知的な会話を楽しみ、教会でボランティアをし、TAのオファーまで受けている。

彼女はこの街で、自分の足で立ち、根を張り始めていた。一方、私はどうだ。札幌の冬と同じ、この閉塞感。雪に閉じ込められた白い牢獄。ここから逃げ出したい。イギリスへ。キートンの母校へ。彼女の笑顔を見ながら、私は彼女をこの街から引き剥がし、私の夢に付き合わせるための算段ばかりを考えていた。

夏、日本から友人のモリが遊びに来た。私たちは電車に乗り、トロント郊外のアルゴンキン州立公園へキャンプに行った。夜、三人でカヌーを湖に浮かべた。風はない。湖面は鏡のように静まり返り、満月を映して青白く光っている。

パドルが水を切る音だけが、静寂に吸い込まれていく。

「すげぇ……こんな景色、見たことねえよ」

モリが感嘆の声を漏らした。彼は英語が話せず、キャンプ場で外国人に話しかけられて怯えていたが、私が通訳をしてやると安心したように笑っていた。三人で焚き火を囲み、ソーセージを焼き、とりとめのない話をした。

パチパチと、薪が爆ぜる音が響く。揺らめく炎が、マキの笑顔を照らし出している。彼女はモリにマシュマロを焼いてあげながら、心底幸せそうに笑っていた。

「本当に、来てよかったね。三人で来れてよかった」

その言葉を聞いた瞬間、私の胸の奥で、冷たい風が吹いた。楽しい。確かに楽しい。だが、この「楽しさ」は、薪が燃え尽きれば消える、一瞬の化学反応に過ぎない。私は炎を見つめた。木が炭化し、形を崩し、灰へと変わっていく。

私は焚き火の熱を感じながら、隣で笑うマキの幸福を、私の野心のために踏み台にすることを改めて決意していた。湖面の月が揺れた。

そこからの日々は、執念の一言に尽きた。目標はオックスフォードのみ。私はTOEFL 特化型の語学学校に入り直し、毎日トロント中央図書館に通い詰めた。荘厳な書架の列がある一方、パソコンの列には大勢の「NARUTO」信者がアニメを貪るように見ていた。司書の女性が私の顔を覚え、私を見かけるたびに苦笑いするほど、私はトロント中央図書館に居座った。

三回目の受験で、TOEFLiBT一〇二点を叩き出した。オックスフォード大学には物足りない点。4科目でそれぞれ1問ずつ落とすことでかろうじて百点を超えたが、それでもギリギリだった。出願書類には、必須のエッセイに加え、早稲田時代の卒論「お台場臨海公園地域開発のメディア論的考察」を英訳した論文、そして三通の推薦状を同封した。誰もやらない過剰な武装こそが、勝機を開くと信じていた。

確信犯だった。結果は、完全勝利だった。ケンブリッジ大学からもオファーが届いたが、私は迷わずオックスフォードを選んだ。スクウェア・エニックスのモーションデザイナーが、世界最高峰の知の頂へ。

トロントでの最後の日々。私たちは湖岸の工業地帯にある、コンテナを改造したライブハウスへ行った。充満するマリファナの煙と、重低音にクラクラしながら、私は過ぎ去る日々を思った。ジョン・カビラの「J―WAVE GOOD MORNING TOKYO」のラジオで聞いた「世界最北端のマクドナルド」を目指して行ったイエローナイフ。そこで見上げた空に揺らめく、様々な色彩のオーロラ。どこまでも真っ直ぐに伸びる、白い雪原のアイス・ロード。

そのすべてが、過去になろうとしていた。私はトロント大学には進まなかった。その選択の先には、ハリー・ポッターのような魔法の世界が待っている。煌びやかなディナー、カレッジでの社交、英語圏最古の図書館。

だが、友を失い、英語という言葉の海で溺れることになる、新たな喪失の予感もまた、そこには待ち受けていたのだが。

◇

トロントから日本へ一時帰国し、オックスフォードへ発つまでの数ヶ月。私は札幌の実家にいたが、そこはもはや家と呼べる場所ではなかった。本宅の玄関をまたぐことすら拒絶し、私は祖父母が使っていた離れに荷物を運び込んだ。

壁一枚隔てた向こう側に、憎むべき父と母がいる。それだけで神経がすり減る音が聞こえるようだった。

「条件は分かってるな」

父の声が脳内で反響する。

『オックスフォードかケンブリッジ以外なら、金は一銭も出さん』

合格通知を手にした日、私は本宅のフローリングに膝をつき、額を擦り付けた。

「お願いします。学費を出してください」

屈辱で視界が歪んだ。寮費、学費、生活費、合わせて一千万円。私のプライドの値段だ。

「……分かった」

父の短い承諾は、慈悲というよりは契約の成立を告げるようだった。

札幌では、夕方から小さなゲームサポートの会社でアルバイトをした。社員十人ほどの狭いオフィス。私の仕事は、ゲームのバグに対するクレーム処理だ。

「ふざけんな! データが消えたぞ!」

「申し訳ございません。現在、原因を調査中でして……」

受話器の向こうから浴びせられる罵倒。私は謝罪のマシーンとなり、定型文を吐き出し続ける。夜になれば、実機に向かってひたすらバグの再現検証を行う。精神はささくれ立ち、他罰的な衝動が腹の底で黒く渦巻いた。

帰り道、真駒内駅から家へ向かう歩道。整備された花壇の花々が、無性に腹立たしかった。赤、黄、ピンク。その有機的な色彩が、私の灰色の視界を刺激する。

「死ねよ」

呟きと共に、持っていたビニール傘の先端を振り下ろす。

茎が折れる感触が手に伝わる。土が舞う。花弁が散る。毎日、毎日、花壇を蹴り倒し、殴りつけて歩いた。誰かを殺したいと本気で思うほどの殺意が、私の歩調を荒くさせていた。

ある夜、私は実家のピアノの上にあるアルバムを引っ張り出した。色褪せた写真の中で、幼い私が着物を着てすましている。両親が一番気に入っていた写真だ。「理想の息子」の遺影。

「いらないんだよ、こんなもの」

指先に力を込める。ビリリ、という音が静寂を裂いた。一度破ると止まらなかった。ニューヨーク時代の友人の笑顔、卒業アルバム、文集。私の生きた証拠が、次々と紙切れに変わっていく。

庭の焼却炉に放り込み、ライターで火をつけた。

メラメラと炎が舐め、写真の中の私の顔が黒く焦げて縮んでいく。化学物質が燃える鼻をつく臭い。立ち上る煙を見上げながら、私は奇妙な安堵を覚えていた。

「どうせ気づかない。俺に興味がないからな」

部屋に戻ると、リビングのガラス棚に並ぶ父のコレクションが目に入った。高級ウイスキー、ブランデー。琥珀色の液体が満たされたボトルたち。

「これも、供養だな」

片っ端から栓を開け、トニックウォーターで割って喉に流し込む。三十本近いボトルが空になる頃、私の肝臓は悲鳴を上げていたが、父に咎められても私は悪びれなかった。

「俺が飲んだ。それだけだ」

会話はそこで途切れる。いつもそうだった。

英国への出発の日。成田空港のロビー。見送りの列の中に、父の姿があった。入学式にも卒業式にも一度も来なかった男が、そこに立っていた。父は私を見据え、短く言った。

「やっと俺に並んだな」

私は何も言い返せなかった。

機上の人となり、マキは隣に座る私の手を握った。

「やっと行けるね、イギリス」

マキが微笑む。

カナダから帰国後、ハイソサエティな社交場での処世術に順応するために、私は彼女にプロポーズしていた。「ガールフレンド」ではなく「ワイフ」として連れて行く。それは戦略でもあったが、彼女の存在が唯一の精神安定剤であることも事実だった。「TOEFL、頑張ったもんね」

「ああ。一〇二点。ギリギリだったけどな」

雲海の下に、灰色の島国が近づいていた。

十月。オックスフォード大学、セント・クロス・カレッジ。「マトリキュレーション(入学式)」の朝、街は黒いガウンをまとった学生たちで溢れかえっていた。サブファスクと呼ばれる正装。白い蝶ネクタイを締め、黒いガウンを羽織る。私は行列の中にいた。石造りの街並みと、黒い集団。まるで中世の葬列か、魔術の儀式のようだ。

「おめでとう!」

沿道から明るい声が飛んだ。マキだ。わざわざロンドンから駆けつけてくれたのだ。

「似合ってるよ、その格好」

式典の後、カレッジの中庭で彼女は私のガウンの襟を直しながら笑った。

「まるでハリーポッターの世界ね」

「ああ。でも、中身はもっとシビアみたいだ」

石造りの校舎を見上げながら、私は微かな違和感を覚えていた。この重厚な石の壁の向こうにあるのは、本当に知性なのだろうか。それとも、ただの古びた権威の空洞なのだろうか。

セント・クロス・カレッジでのPCセットアップ日。隣に座った金髪の男が、凄まじい速度でキーボードを叩いていた。画面を盗み見て、私は息を飲んだ。

「……日本語?」

Gmailの画面に並ぶひらがなと漢字。私が思わず呟くと、彼は顔を上げてニカっと笑った。

「ああ、日本の友達にメールしたんだよ」

流暢すぎる発音だった。

「すげぇな。どこで覚えたの?」

「日本に留学してたんだ。何年か住んでてさ」

日本への留学経験があり、日本語を流暢に操るアメリカ人。アニメのセーラームーンをこよなく愛する、陽気なゲイの青年だった。彼が打っていたメールの相手は、日本に残してきた恋人だという。

「ねえ、飲みに行こうよ。いい店知ってるんだ」

その日の夜、ジェイクに連れられて行ったのはカレッジ近くの「イーグル・アンド・チャイルド」。トールキンやC・S・ルイスが議論を戦わせた伝説のパブだ。

「ここだよ、歴史が動いた場所は」

ジェイクは嬉しそうに店内を見回す。店内の空気は、エールの発酵臭と、古い木の匂いで満ちていた。私は「クローネンブルグ664」を注文した。

「フランスのビールか。珍しいね」

「日本ではサッポロが売ってるんだ。これが一番落ち着く」

泡を舐めながら、私たちは語り合った。

「日本のゲイシーンはどうなの?」

「さあ、詳しくはないけど……ジェイクは向こうでどうしてたんだ?」

「彼氏がいたよ。優しくて、シャイな日本人。君みたいにね」

彼はウィンクしてみせた。

それからの日々は、ジェイクと共にあった。昼休みには美しく刈り込まれた芝生でフリスビーを投げ合い、夜はパブからイタリアンレストランへ流れる。寮の部屋も行き来した。彼にとって、オックスフォードは学問の場ではなく、コネクションを作るための巨大な社交場だった。

「ねえ、勉強なんて程々にして飲みに行こうよ。ここは人脈を作るところだよ?」

彼はいつもそう言って私を誘い出した。彼の瞳には、私に対する友人以上の、どこか湿った好意の色が宿っていた。私はそれに気づかないふりをした。

ある時、日本から来ていた文学研究者の男と、ジェイク、そして私。三人で私の狭い部屋に集まり、安いワインで泥酔した。いい大人が三人、服を脱いで狭いユニットバスにぎゅうぎゅう詰めになって入ったり、ベッドの上でトランポリンのように飛び跳ねたりした。肌と肌が触れ合う。汗の匂いとワインの匂い。エリートたちが集う学問の府で、私たちはただの馬鹿な子供に戻っていた。英語を使わず、日本語だけで馴れ合うその時間は、異国のプレッシャーから逃れる唯一のモルヒネだった。

だが、学期の後半になると、その甘い時間は終わりを告げた。膨大なリーディングリストと論文の締め切りが、私の首を絞め始めたからだ。ジェイクに英語の論文の解説を頼んだこともあったが、「社会学の専門用語が多すぎて分からない」と匙を投げられた。

「今夜、飲みに行かないか?」たまのジェイクの誘いに、私は首を振る回数が増えていった。

「ごめん、無理だ。来週の課題が終わらない」

「またかよ。たまには息抜きも必要だろ?」

「毎週論文を五本読んでレポートだぞ。英語のハンデもあるし、間に合わないんだ」

私の机の上には、読みかけの専門書が山積みになっていた。教育社会学のゼミでは、教授に冷たく言い放たれていた。『君、本当に英語ができないね』統計学の授業にいたっては、数式が宇宙人の言語に見えた。

「分かったよ」

ジェイクの声が冷えた。

「オックスフォードは社交する場所だ。勉強だけしてても意味ないんだよ。友達と繋がらなきゃ」

私は余裕を失った。ジェイクからの「飲もうよ」というメールを、私は無視し始めた。一回、二回、そして永遠に。悪気はなかった。ただ、自分の生存で精一杯だったのだ。

久しぶりにカレッジの地下にあるバーに行った時のことだ。ジェイクが友人たちと談笑していた。目が合った。私は手を挙げようとした。

だが、彼は私を一瞥すると、すぐに視線を逸らし、何事もなかったかのように会話に戻った。その瞳の冷たさは、かつて私に向けられていた温かな好意が、凍りついて砕けた残骸のようだった。私はグラスを握りしめたまま、自分の身勝手さを飲み込んだ。

ジェイクとの関係が冷え切ってから、私の世界はカレッジの寮と、ボードリアン図書館を往復するだけの単純なピストン運動へと縮退した。

オックスフォードの石畳は、残酷だ。毎朝、中古で買った錆びついた自転車で石畳の上を走る。ゴツゴツとした不規則な凹凸が、硬いサドルを通して私の尾てい骨を突き上げ、その振動が背骨を伝って脳髄まで揺さぶる。ガガガ、ガガガ。

向かう先は、ラドクリフ・カメラ。ドーム状の威容を誇るその図書館は、知の殿堂というよりは、死んだ知識を冷凍保存するための巨大な霊廟(れいびょう)に見えた。重い扉を開け、黴(カビ)と古い紙の匂いが充満する静寂の中に身を沈める。ここには世界中の叡智がある。だが、私が求めていたのは叡智ではない。修士論文を埋めるための「材料」だ。

私は、高性能なスキャナーになった。マーク・グラノヴェッター、ピエール・ブルデュー、ロバート・パットナム。著名な社会学者たちの理論を読み込み、脳内のハードディスクに複写する。書き始めようとして、手が止まる。

白い Wordの画面が、雪原のように広がっている。カーソルが点滅するたびに、私に問いかけてくる。

『で、お前の考えは?』

ない。どこを探しても、ないのだ。

イグザミネーション・スクールの大講堂。筆記試験の日。三時間という制限時間。数百人の学生がペンの音を響かせる極限のプレッシャーの中、私は水を得た魚だった。私は指定された席につき、首元の白い蝶ネクタイ「サブファスク」に指をかけた。

「始めてください」

そこからは、思考が停止した。いや、思考する必要などなかった。私の脳は、この三週間で叩き込んだ膨大な英文を保存しただけの外部ストレージと化していた。私は右手を動かす機械になった。カリカリカリカリ。静寂を支配するのは、数百本のペンが紙の上を走る摩擦音だけだ。

脳の奥底に沈殿させたテキストを、消えてしまう手前で強引に引きずり出し、ペン先から叩きつける。手は小刻みに震えていた。掌は脂汗でじっとりと湿り、ペンが滑りそうになる。しかし、頭の中だけは氷のように冷たく、恐ろしいほどに冴え渡っていた。

「出力します。該当データ、ロード完了」

週末、私は逃げるようにロンドンへ向かった。バスで五十分。二階建てバスの二階席に座り、マキと落ち合う。長期休暇には、二人でバックパックを背負い、イギリス一周の旅に出た。北のスコットランドから南下し、「コッツウォルズ」と呼ばれる地域に足を踏み入れた。蜂蜜色の石灰岩で造られた家々が並ぶ、世界で一番美しい村。

「うわあ、すごい!」

マキが両手を広げ、深く息を吸い込んだ。

「見てよ、この景色。空気がキラキラしてるみたい。本当に絵本の中に入ったみたいだね」

私は足元に視線を落とした。そこには、長い年月をかけて踏み固められた石畳があった。雨上がりなのか、石の表面はずっしりと湿り気を帯び、隙間からは濃い緑色の苔がびっしりと生えている。

「……死んでるな」

思わず口から漏れたのは、そんな言葉だった。

「え?」

「この村だよ。時間が止まってる。まるで、死んだ時間をホルマリン漬けにした標本みたいだ」

古い石造りの建物からは、何百年分の雨とカビが染み付いたような、独特の冷たい匂いが漂ってくるようだった。

だが、同時に私は強烈な羨望も感じていた。これだ。私がなりたいのは、これだ。生々しく変化し、老いていく有機体ではなく、このように美しく保存され、永遠に風化しない「標本」になりたいのだ。

西の果て「ランズエンド(Land’s End)」、そしてスコットランドの古びたレストランで食べた「ハギス」。羊の内臓のミンチ。そのグロテスクな成り立ちが、私には妙に心地よかった。

帰国する飛行機の中、私は修士号の学位記を膝に置いていた。卒業式でガウンを纏い、帽子を投げ上げた学生たちの笑顔が、遠い世界の出来事のように思い出される。

◇

石垣島のホテルで、私はエアコンのリモコンを手に取った。

液晶に、十九度という数字が青白く光っている。

あのバス停で、マキが私の腕を掴んだ力を思い出した。ダウンジャケット越しに伝わってきた、彼女の体温。私が重荷だとしか思わなかった、あの温もり。

ボタンに親指をかけた。

それから、リモコンを枕元に戻した。温度は、変えなかった。

(了)

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