「愛されてなかった」とは言いたくない。
でも、「愛されていた」とも、素直に思えない。
そんな気持ちを、ずっと奥にしまい込んできた。
思い出すたびに、「わたしが悪かったのかな」と思ってしまうから。
それに、「あの頃の母も精一杯だった」と、わかっているから。
でも最近、ようやく少しずつ、
“わたしの感じていたこと”をそのまま受けとめていいんだって思えるようになってきた。
誰かを責めたいわけじゃない。
自分を正当化したいわけでもない。
ただ、ずっと言えなかった「ほんとうの気持ち」を、
今のわたしが、静かに聞いてあげたくなった。
“愛されなかった”とは言いたくないわたし
「愛されなかった」と言ってしまうのが、ずっと怖かった。
それは母を責めることになるようで、
どこかで母を守りたい気持ちもあったから。
母には母の事情があった。
母なりに、できることをしてくれていたと思う。
だからこそ、「愛されてなかった」と決めつけることに、強い抵抗があった。
「愛された記憶」より「満たされなかった感覚」が残っている
でも正直に言うと、
わたしの中に強く残っているのは、「愛された」という記憶より、
「満たされなかった」という感覚のほうだった。
たとえば、気持ちをわかってもらえなかったこと。
どう伝えていいかわからずに、黙り込んでしまったこと。
伝えても、伝わらないと感じて、あきらめてしまったこと。
言葉にしてもらった記憶が、あまりない。
「だいじょうぶ?」「どうしたの?」
そんなふうに気持ちをたずねられたことがあったか、今もよく思い出せない。
だから、次第に**“感じること”そのものをあきらめて、ただやり過ごすようになっていった**。
“わかってほしかった”わたしと、“伝えられなかった”母
本当は、わかってほしかった。
怖かったこと。悲しかったこと。
どうしていいかわからなかった気持ち。
でも、母に伝えるのはむずかしかった。
伝えたところで、通じる気がしなかった。
通じなかったときの寂しさを思うと、最初から黙っていた方が楽だった。
それでも、母の中にぬくもりがなかったわけじゃない。
小さな頃、母の胸に顔をうずめて、ただ安心していた記憶がある。
大きくてやわらかいその胸に触れていたわたしを、母は嫌がらなかった。
それだけで、もしかしたら母なりに受けとめてくれていたのかもしれない。
…そう思えるようになったのは、ごく最近のことだ。
「愛されたのか?」という問いとともに進む整えの旅
「わたしは愛されていたのか?」という問いに、
まだ明確な答えは出せていない。
だけど今は、それでもいいのかもしれないと思っている。
答えを見つけることが目的ではなく、
その問いとともに、わたし自身を整えていくことが大切なのかもしれないから。
感じることを取り戻すこと。
過去のわたしが感じていたことを「それでよかったんだよ」と肯定すること。
そして、いまのわたしが過去のわたしに寄り添い直していくこと。
それが、わたしにとっての“整え直し”なのだと思う。
今、“愛されなかったのかもしれない”と思っている誰かへ
このブログを読んでくれているあなたが、
もし今「わたしは愛されてなかったのかもしれない」と思っているなら──
どうかその気持ちを、そのまま抱えていてもいいと伝えたい。
それは、誰かを責める気持ちではなく、
あなた自身の感情が、ようやく声をあげてくれた証なのだと思う。
わたしも、まだその問いの途中にいる。
でも今はもう、「問いの中にいるわたし」を、わたし自身が見捨てずにいようと思っている。
だから、あなたもどうか、
自分の中に浮かんできた「わからない気持ち」を、否定せずにいてあげてほしい。
これは、「愛されていたのか」わからなかったわたしが、
過去の自分に宛てた、静かな手紙です。