その日も雨が降っていた。
夜の駅前。
濡れたアスファルトに信号の赤がぼんやり映っている。
車が通るたび、水たまりが小さく揺れた。
あさひたちと話していた。
ワインレッドのスーツの男性はコンビニの軒下で立ち止まっていた。
ネクタイは少し緩み、肩には一日の疲れが残っている。
片手にはホットコーヒー。
もう片方にはスマホ。
画面には保育士試験を受けた人たちの投稿が並んでいた。
”また社会福祉で落ちた”
”参考書にない問題出すのやめて”
”保育の現場で使うの?これ”
男性は小さく息を吐いた。
そのまま画面をスクロールする。
”子どもは好き。でももう無理”
その言葉で指が止まった。
コンビニの屋根を叩く雨音だけが響く。
駅前を歩く人たちは、傘を差しながら足早に通り過ぎていく。
またか…
“保育が嫌い”になったわけじゃない。
それでも
“試験で削られていく”。
そんな感覚の言葉だった。
男性はスマホを閉じた。
そして、雨の向こうに見える保育園の灯りをぼんやり見つめた。
翌日。
あさひとヨルがいるオフィス。
窓の外には、まだ昨日の雨雲が少し残っている。
ドアが開き、ワインレッドのスーツ姿の男性が再び入ってきた。
そのまま、スマホを机の上に置く。
「これ、見てもらえますか」
画面には昨夜の投稿。
あさひは静かに読む。
ヨルも横から覗き込む。
「……」
空気が少し重くなる。
男性はネクタイに手を添えて少し整えながら言った。
「最近、思うんですよ」
少しだけ目を細める。
「保育士試験って、“現場に必要な人”を見てるのかなって」
部屋が静かになる。
ヨルが腕を組んだ。
「急に核心」
男性は苦笑する。
「だって、おかしくない?」
あさひが紙コップを持ちながら話しに入る。
「現場では、確かに技能も知識も必要なのは分かってます」
「でも試験は“制度の細かい年号”とか
“ほぼ現場で使わない知識”で落とされる」
そして、少し前に身を乗り出した。
「だけど本当は」
指を折る。
”危険察知”
”保護者対応”
”子どもの変化に気づく力”
”不適切保育を見抜く感覚”
男性の指摘にヨルが静かにうなずく。
「もちろん知識は必要ですが」
ヨルが言う。
「“どの知識をどう使うか”がズレてる気がしますね」
窓の外では、まだ雨が降っていた。
「“また落ちたらどうしよう”って気持ちで、どんどん削られていく」
ヨルの頭の中にも、昔会った学生の顔が浮かぶ。
“子どもが好きなんです”
そう言っていた子。
でも最後は、
“もう向いてないのかも”
と言って消えていった。
男性が少し強く言った。
「違うんだよ」
「向いてないんじゃなくて、“試験との相性”で落ちてる人もいるんだよ」
沈黙。
そのとき、
コンコン、とオフィスのドアがノックされた。
入ってきたのはみき先生だった。
少し疲れた顔。
でも、以前より目が死んでいない。
ヨルは時計を見て慌てた。
「すみません今日面会でしたね」
男性はみき先生の雰囲気を見て”先生ですか?”と尋ね、
意見を聞かせてくださいと近くの椅子を引いた。
保育士試験の話をしていたんです」
「ああ…」
みき先生は笑った。
「自分も思ってましたよ」
コーヒーを受け取りながら続ける。
「現場で必要なのって、“この子、今日なんか違う”に気づけるかとかなんですよね」
「パートの方でも、早く試験に通ってほしいのに」
「教育原理と社会養護。社会福祉。子ども家庭福祉って難しいって言われるじゃないですか。そこら辺の科目で落ちてしまって、半年、1年、長いと3年。もっとの人もいます。その人たちを1カウントできないんです。パートの方ですごく仕事のできる人とかいるじゃないですか。子どもとの関わり方も上手い方」
男性もすぐ返す。
「でも試験は、“知識を覚えたか”寄りになってる」
みき先生が続ける。
「もちろん知識は大事です」
一度、区切る。
「でも、“その知識をどう現場で使うか”を問われた記憶、あんまりないんじゃないかな」
その言葉を聞きながら、男性はゆっくり立ち上がった。
「“判断力”が抜けてるんだ」
その瞬間。
部屋の空気が少し変わった。
男性はタブレットを開く。
ペンで文字を書き始める。
【保育士】その下にもう一つ【保育志】
みき先生が小さく笑った。
「なんですか、それ」
男性は振り返る。
「“資格”です」
「“保育士試験”じゃなく、“保育志試験”」
部屋が静まる。
男性はタブレット画面に次々と書き始めた。
・子どもの異変に気づけるか
・危険を予測できるか
・不適切保育を見抜けるか
・保護者とどう関わるか
・チームで連携できるか
「現場で本当に必要な力を問う」
ヨルが少し前に身を乗り出した。
「ケース問題中心?」
男性は首を横に振る。
「ううん。事例だけじゃないようにはなると思う」
「でも、今の試験みたいに“これどっちだ?”って迷わせる引っかけにはしない」
タブレットを操作する。
・⭕️❌
・過去の事故やニュースを参考にした問題
・日常保育に沿った問題
・量刑や責任も学ぶ問題
・情景が浮かぶ事例問題
・級制度導入
(1級:園長レベル/2級:主任レベル/3級:保育者レベル)
「クイズは一問一答形式で」
「仮に2時間で300問くらい」
「300!?」
みき先生が目を丸くする。
その驚きの反応に男性は少し笑った。
「300の“場面”を想定するイメージ」
そしてタブレットを見せた。
「例えば、こんな感じ」
『6歳児の思考のしくみ』
園庭のすみに、小さな虫かご。
中には、ぴょんぴょん跳ねる一匹のバッタ。
その前にしゃがみ込む、6歳児のEくん。
横で見守る保育者が、ふと聞いてみた。
「もしこのバッタに、1日に10回もエサをあげたら、どうなると思う?」
するとEくんは、ちょっと真剣な顔で即答。
「え…それはさ、バッタ、目がまわって死んじゃうよ。だってバッタも虫だけど、そこは人間と同じだもん。」
その場にいた保育者たちは、「なるほど〜!」と、思わずうなずいたのでした。
Eくんの発言に見られる子どもの考え方の特徴として、正しいものは?
クイズ
子どもの考え方は、生物を理解する入り口として大切であり、大人は尊重しつつ、その限界を補う関わりが求められる。
⭕️か❌か
「こんな感じかな」
「これは心理学系ですね」
あさひが言う。
「そう。ちなみに答えは⭕️」
男性はさらに画面を切り替える。
『やさしさの距離ってむずかしい』
軽度な発達の遅れがある4歳のTちゃん――
問題を読み終えたあと。
みき先生が静かに言った。
「“この場面でどう判断するか”って問題ですね」
あさひも続ける。
「知識だけじゃなく、“考え方”を見てる」
男性はうなずく。
「もちろん、保育所保育指針を参考に構成する」
「だから、“きちんとした対応が存在する」
ヨルは別のタブレットを操作した。
「実際の保育士試験って、こういう感じですよね。これは令和8年[前期] 保育士試験 及び 地域限定保育士試験だね」
『次のうち、地域包括支援センターに関する記述として、適切なものを1つ選びなさい――』
みき先生が二つを見比べる。
「保育士試験を否定したいわけじゃないです」
静かに言う。
「でも、“現場で生きる力”を測る軸は別に必要だと思う」
雨音が少し弱くなっていた。
「もちろん、既存の保育士試験を超えることはできない」
男性はゆっくり言う。
「保育園を作るなら、“保育士資格”を持ってる人が必要だし、それを超えることはできない」
「でも、別のアプローチはあっても良いんじゃないかな」
少し間を置く。
「試験問題も現場で働く人たち10人〜20人くらいで作っていきたい」
「“現場の声”が反映されてるなら、意味あると思いますね」
あさひが言った。
“保育を支えたい”
“保育の味方でありたい”
タブレットに映る【保育志】の文字。
まだ、何も始まっていない。
制度もない。
権威もない。
ただの理想かもしれない。
しかし
“子どものために、本当に必要な力は何か”
それを現場から問い直すことはできる。
窓の外、
雨が少しずつ止み始めていた。
「保育士から保育志へ」
彼のその言葉は静かに。
でも確かに。
男性はゆっくり頭を下げた。
「手伝ってほしいんです」
真っ直ぐな声。
「力を貸してください」