TAKARUBA男性スタッフ(生まれてから小学卒業まで)

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こんばんは、TAKARUBAというサービスをココナラで提供しているTAKARUBA男性スタッフのTAKAです。今日から数回に分けて僕の生い立ちについてお話していこうと思います。
まず、第一弾は生まれてから小学生になるまでのことを少しお話したいと思います。その前に、まず最初にTAKARUBAとは何か??なぜこのサービスを始めていこうと思ったのかをお話しさせてください。
TAKARUBAは発達障がいで苦しんでいる人や、その疑いがある方に対して、相談に乗ったり、当事者コミュニティーを開催している団体になります。
なぜこの団体を始めようと思ったかというと、僕自身がADHDと境界知能と知ったのは、大人になってからでした。
実は、小学生の頃に診断は下っていたそうですが、それがわからず今TAKARUBAの運営を一緒にしている女性スタッフから指摘され自分が、発達障がいであることを知りました。
その時に全てのことが繋がった気がしました。なぜかというと、生活をする上で、困りごとがたくさん発生していました。例えば、コミュニケーションが苦手だったり、極端に忘れ物が多いなどの困りごとがありました。
最初は、小学生の頃から周りに馴染めずに、いじめられていたのでそれが、原因だと思っていましたがこれが全てではありませんが、発達障がいが起因していました。自分の体験を元に同じく困っている人がいるのではないのかな?と興味を持ち始め、大人の発達障がいについて調べるようになりました。
そこで、困っている人がいるいることや発達障がいに対する理解の低さを感じ、このサービスを提供したいと強く思うようになりました。このブログを等うして、僕という存在を知っていただき、少しでも皆さんのお役に立てるように頑張りますので、よろしくお願いします。
では、話を戻して僕の幼少期についてお話していきます。僕は日本人の父とフィリピン人の母の間に生まれました。父と母は歳の差婚で、父親はTHE昭和男子という感じのお父さんでした。小さい頃はキャッチボールをしてくれたり、運動会で色々してくれてたみたいですが、全然覚えていませんでした。
母親は、まだ日本に来たばかりで僕と一緒にテレビを見ながら日本語を勉強していたようです。僕は一歳になる頃には、保育園に通うようになりました。最初は、母と別れるのが嫌でずっと泣いていたそうです。
その当時からコミュニケーションをとることが苦手で友達とどう遊べば良いのかわからず、変なことして注目を集め、変な人だと思われていました。中々馴染めていませんでしたが、母の友達の子供等とは仲良く遊ぶことができました。
その時が、一番自分の素を出せていたのではないのかなと思います。家では、父と母は帰りが遅いことが多かったので、家ではおばあちゃんといることが多かったです。その分毎日喧嘩をしていたみたいです。
母も父もいつも忙しそうで中々自分の本音を話せずにいました。そして、小学校にあがる前におばあちゃんが事故でなくなってしまいました。
僕は、おばあちゃん子だったため、本音を言える唯一の存在がいなくなってしまいました。おばあちゃんとは、ランドセル姿見せるから待っててねと言ってたのですが、それが叶うことはありませんでした。
だんだん大きくなるにつれて違和感をウケるようになりました、他の子はアニメなど見てたり、ゲームをしたりしていましたが、父は僕に少しでも勉強ができるようになのかゲームやテレビを見ませんでした。
その頃は、小学生になって、保育園のメンバーとはまた違うメンバーを加えての学校生活でした。学校生活では、ルールなどを僕が、理解できなかったり他の子と一緒に集団行動ができないなどの症状が出てきてしまいました。
友達もだんだん僕を遠ざけるようになり、学校では孤独だったのを覚えています。うちは、あまり裕福な方ではなかったので、母が夜勤など仕事を掛け持ちして、学校に通わせてもらいました。僕は、正直寂しかったです。
唯一素を出せるのは母だけだったので、誰にも言えずに小学校高学年になると誰にも言わなくなりました。父は、勉強勉強という人でした。昔の考えのいい大学を出たらいい会社に務めることができると考えていたのでは、ないのかと思います。
今思えば父も中々お金がなく、苦労してきたみたいなので、僕を苦労させたくなかったのかもしれません。小学校高学年になると周りからは、変人扱いされたり、僕の問題行動を過激になってきました。従業中静かに出来ない。
自分もうるさいのに、他の人がうるさいと怒ってしまうや暴力行為をあったそうです。そのため、ハサミなどは、先生が管理していました。小学校5年生になるときに、新しい教頭先生がきました。
その先生は、僕に親身になってくれて、問題行動を起こしてしまった時には、一番に駆けつけてくれて僕を守ってくれていました。
その先生がきっかけで、その当時は全然わかりませんでしたが、発達検査(絵を見たり・図形の問題をやったり)したのを覚えています。
検査を行って病院にも通っていたそうです。その時は、イライラを抑える薬と言われていましたが、それが今のADHDの多動・衝動性の部分の薬として処方されているのかな?と思います。
このタイミングでことばの教室に通ったりはしていましたが、先生や親から自分が発達障がいだということは一切聞いたことはありませんでした。
自分だけ周りとは違っていたので、不思議には感じていましたが、僕を見て!!が強かったので隣にずっと居てくれて正直嬉しかったのを覚えています。
小学校の時は、少年野球やそろばん、ピアノをやっていましたが、どれも長続きしませんでした。唯一の取り柄は元気でした。誰にでも挨拶する元気な少年だったそうです。今回は、ここまでにしようかなと思います。最後までご覧いただきありがとうございました。次回は小学生から高校生のあたりまでのお話をしていきたいと思います。

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