「なんだか、これまでの当たり前が通用しなくなっている」
そう感じているのは、私だけではないはずです。
選挙が始まり、社会の空気がざわつく中で、多くの人が「このままでいいはずがない」と感じているのではないでしょうか。
言葉にしきれない不安と期待が入り混じった緊張感を感じます。
歴史を振り返れば何度も訪れてきた「時代の転換期」がまさに今なのではないでしょうか。
今日はこんな2つの言葉から始めさせてください。
それは…
無位の真人(臨済録)
平らけき道うしなへる/ 世の中を/ ゆり改めむ /あめつちのわざ (橘曙覧)
この歌が詠まれたのは、幕末という激動の時代。
「平穏な道を見失った乱れた世を、天地が激しく揺さぶり、根本から揺さぶり動かし、一新させようとする。天地(宇宙)の神々による偉大な働きであることよ。」
そんな力強い意志と覚悟が、ここには込められています。
「ゆり改めむ」とは、単なる穏やかな”改め”ではありません。
それは、「人が作った正しさ」ではなく、「天地自然の理」によって
世界を立て直そうとする”意志”です。
人間の理屈や正義、政治的な駆け引きを超えたところから起こる、「天地そのものの働き」です。
「あめつち」とは、この世のすべて。
特定の誰かの意思ではなく、「宇宙の摂理」、「自然の理」、「八百万の神々の総意」とも言える流れです。
現代の私たちに語りかける、この歌の「あめつちのわざ」は、
今のカオスを「襲いかかる不幸」としてではなく、
避けては通れない必然のプロセスとして受け取る「覚悟」を示していると感じます。
🟡時代が大きく揺れるとき、真っ先に崩れるのは「位」
地位、肩書き、常識、正しさ、所属…
それらは私たちを守ってきたが、同時に縛ってもきた。
そして「位」が剥がれ落ちたとき、人は”丸裸”になる。
そのとき最後に残るのが、
「無位の真人」なのです。
無位の真人とは、何者でもないということ。
役割でも、評価でもない。
喜怒哀楽に染まる以前の、
生きて、見て、聞いて、動いている“働きそのもの”。
私たちには、「目耳鼻口」という感覚器と共に作用して、手足を動かしている、絶妙なエネルギーがあります。
それを私たちは「心」とも「魂」とも呼びます。
でもそれは、日常で言う「心」とはまったく別のものなんです。
「反応」、「物語」、「正しさ」。
私たちは自分で捏造したものにいつもコントロールされています。
しかも、気づいてすらいない。
混沌の時代に必要なのは、
外側の世界を力ずくで正そうとすることではないと感じます。
まず、自分の中心に「座」を据えることだと思うのです。
感情は入ってくる。
情報も、怒りも、不安も、期待も入ってくる。
それでも、自分の奥にある誰にも侵されない場所に、静かに自分を座らせる。
反応しながら生きる現実のただ中で、どっしりと静かに座る。
たとえ自分の期待通りにならなくても、
大勢の責任を背負っていても、
最後は「あめつちにまかせる」しかない
そんな局面があるんじゃないでしょうか。
それは、単なる諦めとは違います。
私たちの肉体の中には、そもそも何の肩書もありません。
「何不足、人は裸で生まれたに」
真実は、自由で絶対的な『真実の自分』が常に存在しているのです。
「無位の真人」は、それに気づけ!と説いた言葉なんです。
人間の力の限界を知った上で、今ここに「誠実に在る」という態度。
その「座」から見たときに初めて、
世界は少しだけクリアになると思うのです。
かき乱れた感情も、
「これが正しいはずだ」という物語も、
目の前の他者も、
すべてが「鏡」として立ち現れてくるのです。
🌿
時代に、正解はない。
正解があるのは「位」の世界だけ。
「ゆり改めむ時代」とは、
”無位の真人”としてしか立てない場所へ、私たち一人ひとりが押し出されている時代なのだと思います。
そして、そのことに、静かに気づいている人から、この国の本当の変化は始まっていくのかもしれません。
今日も最後まで読んで頂き、
本当に有難うございました。
エンパワLaboの有岐でした💖