先日、ココナラの小学生の生徒さんの教科書に「方丈記」が出てきた。小学生なので、細かいことはまだ必要なく、「竹取物語」「平家物語」「方丈記」「徒然草」の概要を学ぶもの。特に方丈記はここまで人生を長くやってきた私にとっては深く共感する作品だ。「小さな庵で一人静かにくらした鴨長明の、この世をはかないものだと感じる見方が表れています。」という解説がついていた。確かに。
「方丈記」に限らず、国語の教科書やテキストに取り上げられる文学作品を生徒さんと一緒にやっていていつも思うのは、「これが小学生に(または中学生でも)理解できるのだろうか」ということだ。まだこの世に生を受けて10年そこそこの成長段階にある生徒さんに、鴨長明の「この世ははかないものだ」がどう伝わるのか。私の感覚ではたとえ30代でもまだわからないのではないかと思うくらいだ。私は方丈記を生徒さんと学ぶときには、冒頭の「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。」というところを取り上げて、「川ってさ、いつもそこに流れているけど、よく考えてみたらそこに流れている水ってどんどん下流に動いていくから、水自体は決して同じ水ではないよね。それと同じように、この世の中はいつもここにあるけれど、そこにいる人々や家やお店は少しずつ入れ替わっているよね。一人一人の生活や物は、ずっと同じ状態にあるわけではなく、すぐに移り変わってしまう、それを作者は「はかない」と言っているんだね。」・・・などと話しをするのだが、こう説明したところでほとんどの生徒さんはわかったような、わからないような表情をする。無理もない。当然だろう。文部科学省も、小学生に「この世のはかなさ」を教えようとしているとは思えないので、講師としても「知識」としてこういう有名な作品があるよ、ということを教えればいいのだと思う。
このことは、考えようによっては「虚しい」とも言える。とうていわかってもらえないことを伝えようとすれば無力感に苛まれる。しかし、実は国語を教える楽しさはこういうところにあるように思えるのだ。「方丈記」にしても他の多くの作品にしても、自分が大いに気に入っている作品をこれから成長していく生徒さんに紹介する。今は到底その醍醐味を理解することは出来なくても、それについて説明したり、わからないながらも意見を交換したりすることで、その生徒さんの深いところにほんの小さなカケラでもその記憶が残ってくれて、これからの成長に何かしら影響を与えられるかもしれない、という小さな希望。
これからの予定としては、中学生の生徒さんと弓狩匡純氏の「平和のバトン」を学習する。広島の美術を学ぶ高校生たちが、原爆体験者と一緒にその体験を絵画で表現しようという試みについて書かれている。この課題を一緒にやることで、要旨、語句、漢字を学ぶだけでなく、原爆や戦争について生徒さんとお話をすることも講師の役割の一つだと感じる。私もしっかり予習をしよう。