「夏目漱石『夢十夜』解説」~珠玉のラブストーリー~

「夏目漱石『夢十夜』解説」~珠玉のラブストーリー~

記事
コラム
私は昔から近代文学が大好きでして、その中でも夏目漱石が特に好きです。漱石に関しては、大学在学時にゼミで何度も学んだ記憶があります。漱石の思想と作品は、現在の私に少なからぬ影響を与えています。

数ある彼の作品の中で、私が今回、語りたいのは短編集「夢十夜」についてです。私はこの作品をこよなく愛しておりまして、事あるごとに読み返して、感慨に浸っております。漱石の魅力は、その卓越した文章表現力と緻密に構成された文章の美しさにあります。彼の流麗な文体には、読む度に感服させられますし、自分もいつかこんな文章を書いてみたいと創作意欲を刺激されます。

この「夢十夜」に収められた十作品のうち、私が特に好きなのは冒頭の「第一夜」です。第一夜はラブロマンスでして、これが極めて美しい、至高の愛の物語になっております。私はこの作品を読み返す度に涙が溢れて止まらなくなるので、あまり頻繫には読まないようにしているくらいです。

この珠玉のラブストーリーの魅力に一度気付いてしまったら、皆さんもきっとこの作品の虜になることは間違いないと思います。機会がありましたら、是非とも一読されることを強くお勧め致します。

この作品には二人の登場人物がいます。主人公の男と、その恋人と思われる女です。女は冒頭部分で、自身の命の灯がもう消えかけていることを男に告げます。男は動揺して、女がこの世を去ることに対する悲しみに打ちひしがれ、そのうちにその事実を受け止めます。

女が死んで行くところの描写はとても繊細で、精緻なものです。世の中にこんなに美しい表現があるんだと、否が応でも感嘆させられます。

「する と、 黒い 眸 の なか に 鮮 に 見え た 自分 の 姿 が、 ぼうっと 崩れ て 来 た。 静か な 水 が 動い て 写る 影 を 乱し た よう に、 流れ出し た と 思っ たら、 女 の 眼 が ぱちりと 閉じ た。 長い 睫 の 間 から 涙 が 頬 へ 垂れ た。 ─ ─ もう 死ん で い た。」

夏目漱石. 夏目漱石全集: 104作品収録 (p.5438). Fukkousienbunko. Kindle 版.

この表現の美しさと言ったら、本当に「至高」の一言に尽きます。漱石の才能はまさしく神に愛されたものである、と感じます。

女は死ぬ前に自分の遺体を庭に埋めるように男に言い、その上で「待っていてください。きっと逢いに来ますから」との言葉を遺し、静かに息を引き取ります。

女は男に、「百年待っていてください」と言います。男はただ、待っていると答えます。女の遺言に従って、男は庭に真珠貝で穴を掘り、女の遺体を埋めます。その際の描写も、他に例えようもない美しさで、読者の胸に迫って来ます。

「真珠貝 は 大きな 滑 かな 縁 の 鋭 どい 貝 で あっ た。 土 を すくう たび に、 貝 の 裏 に 月 の 光 が 差し て きらきら し た。 湿っ た 土 の 匂 も し た。 穴 は しばらく し て 掘れ た。 女 を その 中 に 入れ た。 そうして 柔らかい 土 を、 上 から そっと 掛け た。 掛ける たび に 真珠貝 の 裏 に 月 の 光 が 差し た。」

夏目漱石. 夏目漱石全集: 104作品収録 (pp.5438-5439). Fukkousienbunko. Kindle 版.


本来なら陰鬱なこの場面においても、その美しさは際立っています。月の光が時折、真珠貝に反射してきらきらと光る様が、何とも流麗で読む者の感情を揺さぶります。大変印象的なシーンです。

男は女を埋めた後、星の破片を拾って来て、それを女の墓標とします。男はそれから墓標の脇の苔の上に座り、百年という途方もなく長い時間を過ごすのです。

やがて東から陽が昇り、男の頭の上を通り越して、西の空へ落ちて行きました。男は「一つ」と数えます。それから数え切れない程の赤い陽が男の頭上を通り越し、沈んで行きました。男は次第に、どのくらいの時が経ったのか分からなくなって行ったのです。

男は何時までも約束の百年が訪れないことに疑問を抱き、終いには自分が女に騙されたのではないかと思い始めます。ここに来て、男に一抹の疑念が生まれたのです。

しかし、そのとき、運命の歯車が動き出します。墓石の下から男に向かって青い茎が伸びて来て、男の胸の辺りで止まりました。と思った瞬間に、茎の先端で首を傾けていた蕾が、ふっくらと花弁を開いたのです。花は真っ白な百合で、非常に強く香っていました。

そして、天上から一滴、露が花弁に落ち、ふらふらと動いているその花弁に男は接吻します。男は花弁から顔を離す刹那に、遠い空を見上げます。すると一つの暁に輝く星を見付けるのです。男はこの瞬間、約束の百年が既に来ていたことを悟ります。

ストーリーとしては大体、こんな感じです。いかがでしょうか?とても美しく、儚い物語だと私は思います。

とても印象的な物語ですよね。自分がこの状況に置かれたとして、果たして恋人を百年も待っていられるかな、と思ってしまいます。この美しくも儚い物語は、愛の素晴らしさと愛し合う者同士の絆の強さを後の世に伝えています。

少し解説させて頂きますと、女の墓石から伸びて来た青い茎が男の胸のところで止まったのは、そこに二人の「心」があるからです。恋しい男の下に、女は花となって帰って来たのですが、その花弁に男が口付けをする場面は本当に感動的で、素晴らしいですよね。女の心情を表すような花弁の描写も見どころです。

因みに、この花が何故、「百合」だったのかについてもきちんと意味がありまして、お気付きの方もいらっしゃるとは思いますが、これには「百年経って合う」という意味が含まれています。漱石が世の読者に送った、美しくも儚い愛の物語の贈り物は、令和という私たちの生きる新時代にも、色褪せない輝きを放っています。



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