青の教室/俊雄 第2話(3月15日) ――言葉にならない記憶のかけら――
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学び
第2話(3月15日)
――言葉にならない記憶のかけら――
夕方の光は、昨日よりも少しだけ赤みを帯びていた。
青の教室の窓から差し込むその光の中で、
俊雄は、そっと積み木に手を伸ばしていた。
昨日よりも、指先の動きが自然だった。
けれど、まだどこかぎこちない。
積み木を積むたびに、
胸の奥の何かがざわつくような気がしていた。
友彦は、俊雄の向かい側に静かに座った。
言葉を急かさず、
ただ、そこにいる。
俊雄は、積み木をひとつ置いて、
ぽつりとつぶやいた。
「……小さいころ、よく怒られてました」
その声は、積み木の影に隠れるように小さかった。
「どんなふうに?」
友彦は、声の高さを変えずに聞いた。
俊雄は、積み木を指でなぞりながら言った。
「……なんか、いつも“ちゃんとしなさい”って言われてて。
ちゃんとしようとしても、できなくて。
できないと、また怒られて……
だんだん、何が正しいのか分からなくなって」
言葉は、ひとつひとつ、
石を置くようにゆっくりだった。
「小学生のときは……
学校行くの、こわかったです。
怒られるのも、
できないのも、
自分が自分じゃないみたいなのも」
俊雄は、そこで言葉を切った。
積み木の塔が少し揺れた。
友彦は、その揺れを見つめながら、
胸の奥に、遠い記憶がよみがえるのを感じていた。
***
十数年前。
まだ青の教室を始めたばかりのころ。
数学の平行移動の授業で、
「目盛りの数だけ点を移動させる」
という単純な作業が、
どうしてもできない子がいた。
目盛りを数えようとすると、
視線が飛び、
数が抜け、
気づけば別の場所を見ている。
その子は泣きながら言った。
「数えようとしてるのに、
頭がどっか行っちゃうんです」
また別の子は、
母親の厳しさのもとで育ち、
ノートに文字を書いていると、
いつの間にか全く違う文章を書き始めてしまうと訴えた。
「自分が書いてるのに、
自分じゃないみたいなんです」
そして――
友彦自身も、
かつて同じような感覚を味わったことがあった。
文字が自分の意思と違う方向へ流れていく。
「自分が自分でいられない」
そんな瞬間が、確かにあった。
医療の言葉では説明できない。
けれど、確かに“ある”もの。
俊雄の言葉を聞きながら、
友彦はその記憶を静かに思い出していた。
***
「俊雄」
友彦は、積み木の塔を見つめながら言った。
「“ちゃんとしなさい”って言われ続けるとね、
心がずっと緊張したままになるんだよ。
できない自分が悪いんじゃなくて、
緊張が長く続きすぎたんだ」
俊雄は、少しだけ目を見開いた。
「……ぼく、悪くなかったんですか」
「悪くないよ。
むしろ、よくがんばってたと思う」
俊雄は、積み木を握る手を止めた。
「……がんばってた、のかな」
「うん。
ずっと、がんばってたんだよ」
俊雄は、積み木をひとつ積んだ。
その動きは、昨日よりも静かで、
昨日よりも確かだった。
「ここはね、俊雄が“がんばらなくていい場所”なんだよ」
俊雄は、ゆっくりとうなずいた。
***
夜。
俊雄が帰ったあと、
友彦は麻衣に電話をかけた。
「今日の俊雄くん、
少しだけ昔のことを話してくれました」
電話の向こうで、
麻衣が息をのむ気配がした。
「……どんなことを?」
「“ちゃんとしなさい”と言われ続けて、
何が正しいのか分からなくなっていた、と」
麻衣は、しばらく黙った。
その沈黙は、痛みを含んでいた。
「俊雄くんは、
怠けていたわけではありません。
集中力の問題でも、性格の問題でもない。
長い間、心が緊張しすぎていたんです」
「……そう、なんですね」
麻衣の声は震えていた。
「はい。
だから今は、ゆっくり積み直しているところです。
今日は、その二段目が積めました」
電話の向こうで、
麻衣が小さく息を吸った。
その息は、
昨日よりもずっと温かかった。
「先生……ありがとうございます。
俊雄のこと、少し分かった気がします」
「俊雄くんの色は、まだ見えません。
でも、確かに前に進んでいますよ」
麻衣は、涙をこらえるように言った。
「……そうなんですね。
そう思えるだけで、救われます」
***
電話を切ったあと、
麻衣はベッドに腰を下ろした。
天井を見上げると、
胸の奥に、
静かであたたかなものが広がっていくのを感じた。
俊雄の色はまだ見えない。
けれど、
その色がいつか見える日が来ると、
初めて思えた。
その夜、
麻衣は静かに目を閉じた。
胸の奥に広がった温かさは、
俊雄の歩みを信じられるようになった
最初の小さな灯りだった。