青の教室/俊雄 第1話(3月14日) ――青に触れる少年――
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青の教室/俊雄 第1話(3月14日)
――青に触れる少年――
夕方の光が、教室の窓から斜めに差し込んでいた。
友彦は、誰もいない机の列をゆっくりと歩きながら、
その光の色を確かめるように目を細めた。
青かった。
空の青ではない。
海の青でもない。
もっと静かで、もっと深くて、
誰のものでもない、透明な青。
――子どもを染めない青。
それが、自分が教育者として立ち続けるための唯一の色だと、
友彦はいつからか信じるようになっていた。
しかし、現実はいつも青を曇らせる。
学校の成績、親の期待、社会の圧力。
子どもたちの色は、いつもどこかで削られ、
塾に来る頃には、ほとんど見えなくなっていることもある。
「今日も、誰かの色を守れるだろうか」
黒板に手を触れながら小さく息を吐いたそのとき、
ドアが開く音がした。
振り返ると、ひとりの少年が立っていた。
俊雄(としお)だった。
***
俊雄は、細い肩をすぼめるようにして立っていた。
視線は床に落ちている。
けれど、その足は確かにここへ向かってきた。
「いらっしゃい、俊雄」
友彦が声をかけると、
俊雄はほんの少しだけ顔を上げた。
「……こんばんは」
声はかすれていた。
けれど、そのかすれの奥に、
“来たかった”という気持ちが微かに見えた。
俊雄は中学2年生。
去年の秋から学校へ行っていない。
理由はひとつではない。
けれど、その中心にあるのは――
母・麻衣(まい)の、かつての“管理”だった。
麻衣は、以前は厳しかった。
正しさを盾に、俊雄を追い詰めてしまった。
それが俊雄の心を閉ざし、
学校へ行けなくなった。
しかし今、麻衣は変わろうとしている。
俊雄を包み込もうとしている。
けれど俊雄は、その優しさに触れるたび、
“歴史”がうずく。
優しさは、時に痛い。
***
「今日はね、積み木を出しておいたよ」
友彦が机の上に置いたのは、
木の香りがするシンプルな積み木だった。
俊雄は、少しだけ眉をひそめた。
「……積み木?」
「うん。
勉強は、今日はしなくていい。
まずは、手を動かすところから始めよう」
俊雄は、しばらく積み木を見つめていた。
その視線は、
“やっていいのか”
“やっても怒られないのか”
そんな迷いを含んでいた。
やがて、そっと手を伸ばした。
ひとつ、積む。
もうひとつ、積む。
少し傾く。
直す。
また積む。
その動きはぎこちない。
けれど、確かだった。
友彦は、少し離れた場所から見守っていた。
俊雄の指先が、
積み木の角を確かめるように触れる。
積み上がるたびに、
ほんの少しだけ背筋が伸びる。
――この子は、まだ折れていない。
友彦はそう思った。
「俊雄、いい形だね」
声をかけると、
俊雄は一瞬だけ手を止めた。
「……別に」
そう言いながらも、
その声にはわずかな誇らしさが混じっていた。
積み木は、
俊雄の“いま”を映していた。
不安定で、
揺れやすくて、
でも、確かに積み上がっている。
***
しばらくして、俊雄がぽつりと言った。
「……ここ、静かですね」
「うん。
俊雄のペースでいられる場所だからね」
「……家とは、ちょっと違う」
その言葉には、
痛みと、安堵と、戸惑いが混ざっていた。
「家では、どう?」
俊雄は積み木を見つめたまま、
小さく息を吐いた。
「……お母さん、最近やさしいんです。
前よりずっと。
でも……なんか、こわい」
「こわい?」
「うん。
やさしいのに、こわい。
なんでか分からないけど……
前のこと、思い出すから」
友彦は、すぐには答えなかった。
俊雄の言葉を、
そのまま受け止めた。
「俊雄。
やさしさがこわいって、
すごく自然なことだよ」
俊雄は、ゆっくりと顔を上げた。
「自然……?」
「うん。
だって、俊雄は“歴史”を持ってるから。
心の傷は、急に消えない。
でもね、積み木みたいに、
少しずつ積み直せるんだよ」
俊雄は、積み木を見つめた。
その塔は、少し傾いていた。
けれど、倒れてはいなかった。
「……積み直せる、か」
「うん。
今日は、その一段目だね」
俊雄は、ほんの少しだけ笑った。
笑ったというより、
口元がゆるんだ。
それだけで十分だった。
***
帰り際。
俊雄は積み木の塔を見て、
そっと指で触れた。
「……また来てもいいですか」
「もちろん。
俊雄の場所だからね」
俊雄はうなずき、
夕暮れの中へ歩き出した。
その背中は、
来たときよりも、
ほんの少しだけまっすぐだった。
***
そして、同じ時間帯――
別の世界では、陽子が自分の影と向き合い、
母・美咲が初めての“ひび”を抱えていた。
同じ青の教室。
同じ夕方の光。
けれど、流れている物語は違う。
陽子の世界には陽子の時間があり、
俊雄の世界には俊雄の時間がある。
二つの物語は交わらない。
けれど、どちらも“青の教室”という
ひとつの場所を通りながら、
まったく別の色を探している。
俊雄の色は、まだ見えない。
けれど確かに、
今日、ひとつ積み上がった。