青の教室/陽子 第4話(3月13日) ――描くことでしか届かない場所――
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第4話(3月13日)
――描くことでしか届かない場所――
朝、陽子はゆっくりと布団から起き上がった。
胸の奥はまだ重い。
昨日の母との衝突が、身体のどこかに残っている。
けれど、今日は行こうと思った。
――行かないと、もっと苦しくなる。
そんな直感だけが、陽子を動かしていた。
***
青の教室のドアを開けると、
いつもの空気が、ふわりと陽子を包んだ。
「おはよう、陽子」
友彦の声は、
まるで深呼吸のように、胸の奥の重さを少しだけ溶かした。
「……おはようございます」
声は小さかったが、
その小ささを責める人はここにはいない。
陽子は席に座り、
教科書を開いたものの、
文字が頭に入ってこなかった。
昨日の美咲の言葉、
自分の返し方、
胸の奥のざらつき。
全部が、勉強の邪魔をした。
――今日は、無理かも。
そう思った瞬間、
ノートの隅に、ふと鉛筆を走らせた。
最初は、ただの線だった。
けれど、線はすぐに形になり、
形は輪郭になり、
輪郭は表情になった。
陽子が昔から描いてきた、
“自分だけの女の子”。
名前はない。
けれど、陽子の心の奥に住んでいる子。
今日は、その子がやけに描きたかった。
気づけば、陽子は夢中になっていた。
鉛筆の音だけが、静かに響く。
その様子を、友彦は少し離れた場所から見ていた。
そして、そっと近づいて言った。
「陽子、今日はその女の子の絵を完成させよう」
陽子は驚いて顔を上げた。
「え……でも、勉強……」
「大丈夫。
今日は“描く日”なんだよ、きっと」
その言葉は、
陽子の胸の奥にすっと入ってきた。
――描いていいんだ。
その許しが、どれほど嬉しいか。
陽子は、自分でも驚くほど素直にうなずいた。
「……はい」
そこからの数時間、
陽子は絵に没頭した。
線が生きて、色が息をし、
女の子の表情が少しずつ形になっていく。
描いている間だけは、
影がうずまなかった。
***
夜。
家に帰ると、
美咲がリビングで待っていた。
「今日はどうだったの?」
その声は、
いつもの“管理の声”ではなかった。
けれど陽子には、
その違いを感じ取る余裕がなかった。
青の教室で描いた絵のことを思い出す。
友彦に「完成させよう」と言われたときの嬉しさ。
描き終えたときの満たされた気持ち。
――でも、お母さんに言ったら怒られる。
その恐れが、
陽子の胸を一瞬で固くした。
「今日は……」
言いかけて、
喉がつまった。
美咲が少し身を乗り出す。
「なに? どうだったの?」
その“問い詰めるような姿勢”に、
陽子の影が一気に疼いた。
「……そんなの、どうでもいいじゃない!」
声が、思ったより大きく出た。
美咲が驚いた顔をする。
陽子はその顔を見るのがつらくて、
逃げるように自分の部屋へ駆け込んだ。
ドアが閉まる音が、
家の中に乾いた響きを残した。
***
リビングにひとり残された美咲は、
しばらく動けなかった。
陽子の言葉。
あの表情。
あの逃げ方。
胸の奥が、
じんわりと痛んだ。
――どうして、あんな言い方をされるの。
そう思う一方で、
昨日青の教室で見た光景が、
ふと頭をよぎった。
のびのびとした子どもたち。
陽斗とひかりの笑顔。
友彦の言葉。
“あおいも、りょうも、自分の形に戻っただけなんです”
美咲は、
ゆっくりと携帯電話を手に取った。
迷いながら、
青の教室の番号を押す。
呼び出し音が鳴る間、
胸がどくどくと脈打った。
――こんな電話、していいのかな。
けれど、
誰かに聞いてほしかった。
誰かに、
陽子のことを。
そして、
自分のことも。
電話がつながり、
友彦の声が聞こえた。
美咲は、
言葉を探しながら、
少しずつ話し始めた。
***
電話を切ったあと、
美咲はベッドに腰を下ろした。
天井を見上げると、
胸の奥がじんわりと熱くなる。
友彦の言葉が、
何度も頭の中で反芻された。
“陽子さんは、描くことで呼吸しているんです”
“怒られたくて描いている子なんて、いませんよ”
“お母さんも、苦しいんですね”
美咲は、
ゆっくりと目を閉じた。
胸の奥に、
昨日よりも少し大きな“ひび”が入っていた。
そのひびは、
痛みと同時に、
どこか温かかった。