人はなぜ「癒し」や「許し」を求めるのか考えてみたことはありますか?
私は、「許し」を求めたことはありません。どちらかというと冷酷であるほうだとおもいますし、自分のした行いで恨まれたときはそのまま受け入れ哀しみ憎み人間らしくもだえます。それには一つの理由があります。
自分が霊感を持っていたこと
私は生まれつき霊感がありましたが、その霊感が良いものだとは思えませんでした。死んだ人間の末路を見ることになるからです。最初に見たものは水場にうずくまり水を飲もうとしている痩せた虫のようなものでした。
それが人間とはわかりませんでしたが、ある日地獄絵図を見て、「餓鬼」であることを知りました。自分にだけこれが見えるのかと思っていましたが、霊能者が多い地域でいたので一生これを見るのかと思って人生をあきらめていました。
視えることは、ステージでも賜り物でもない。ただ、人間の「無明」を知るだけです。無明とは仏教の「煩悩の一つで、根本的な無知や迷い、悟りがない状態」といいますが、悟る必要はないです。死ねばただ例としてこの世にとどまるだけなんです。
死臭と呪詛の飛び交う人々の心を見ながら、微笑んでいるしかない。
人間に期待などできないのがこの世界です。そしてそれを誰にも言えず、抱えて歩くしかない。見えなくなる時がきっと幸福の瞬間です。
かの霊能者の江原氏も、見えていた時は本当にお辛そうでしたが今はそうでもなくにこやかな顔で本当に良かったと思います。
スピリチュアルを通じて「希望」や「癒し」に出会いたい人が多いこと
私もまた、この現象から逃れたくてスピリチュアルに出会いました。
ただ、大きな違和感が生じてきました。私には醜い物しか見えません。人間の姿をとどめなくなって本能だけでついてくるんでしょうけれど。
生きているときも自分にだけしか集中していなかった人の末路です。
瞑想や、いろいろな魔除けグッズを買いましたが全く効かず。
事故物件とかにも住んでいましたが、それよりもさらにそういうものを付けるほうがひどくなりましたね。もう友達がくれたパワーストーンをアクセサリーとして付けるぐらいです。
スピリチュアルに違和感を持ち続けたこと
そこらへんで、スピリチュアルに違和感を持ち始めたのは、「きれいな世界」を皆さんは視ているらしいのです。私は、彼らは何を見ているのだろうと考えてみました。今まで死者たちは言いました。
「地獄も天国も存在しない。この世に私たちがいて、見えないだけ」
「善悪の基準などない」
地獄も天国も「この世に重なって存在している」
善悪の基準は「時代や立場によって常に揺れる」
私はこの事実を知っているので人を呪おうが地獄に堕ちることはないことを知っています。死ねばこの世に魂みたいな何かが残るのでしょう。
もしくは念だけか。
「見える人は、きれいなものを見るはず」という幻想
スピリチュアルにある概念では「内面が満たされていないから、霊を見てしまうのだ」とか、高次元の存在を見れるはずとありますが次元を上昇することは生きたままでは不可能です。ただし、死んだときに少し上のほうに浮くことはできるように生きることはできます。下のほうにいる時点でまともな生き方をしていなかったんです。
現実を見ないで生きた人間の末路です。
血まみれの死者たちと生きる
「死人に口なし」といいますが存在は一応しているのでスルーはしつつも彼らには何もしません。あちらもなにもしません。私はなにも望んでいないし彼らに何かしてほしいとも有名になりたいとも思っていないからです。
死んだ者に情を与えない
死人に情けをかけない、憐れまない。
あなたもいずれ死にます。だからこそ「死」を受け入れること。腐敗しテイク己を受け入れること。生きながらでも人間は腐ります。腐らぬように生きるにはどうしたらいいのか?
スピリチュアルとの決定的な断絶
わたしが瞑想サークルでの違和感をかんじたのは、この瞑想にて彼らが別の何かを必死で見ようとしていることです。「神の声を聴く」「光の存在とつながる」などの主張への不信感と、癒しを語りながら、現実から逃げているように感じたこと。この人たちは、死後、どうなるのか。想像もしたくないですね。
瞑想はやめて、禅をすることにしました。禅の半眼は、現世を見ています。
そして、現世を見ることは天国と地獄を見ることです。
霊能者としての孤独と選択
同じ霊感を持つ人たちとさ「孤独」だった。
神も地獄も幻想なら、あるのは人間の業と選択だけ。
だからこそスピリチュアルに背を向けて自分で修行の道に入ります。己の足で立つために。
最後に
だから私は“見える”ことを、誇りではなく責任として持っています。
呪いでも光でもない、「言葉」にして伝えることにしています。でも死人とかかわる必要はないし、そもそも悪霊の区別とか今の人間が勝手に決めているだけです。
視えてしまう人、感受性が豊かな人。それをさらに苦しませるより、生き方に光をともしたい。快楽のスピリチュアルでもなくどう生きれば今が楽しいか。
死後は皆、同じです。現実を楽しむしかない。でも、その現実さえも怪しげなスピリチュアルにすがると苦しみが苦しみを呼ぶことになります。
同じように『視えてしまった人』のための灯火になるように、はじめて自分のことを書きました。生きてください。自分から目をそらさないでください。