以下の文章は、イギリスの哲学者、思想家として著名であったバートランド・ラッセルが1929年に出版した『結婚と道徳』からの自由な抜粋である。この文章を素材にして、「現代社会における男女の愛の理想的なあり方について」という主題で、あなた自身の見解を800字以内で述べなさい。なお、自分の論述の要旨を、解答用紙の指定された欄に80字以内で書くこと。
ほとんどの社会における愛に対する支配的な態度は、奇妙なことに、二重である。一方では、愛は詩、小説、劇の主要なテーマであり、他方では、それは大部分のまじめな社会学者に完全に無視され、経済的あるいは政治的な改革の諸計画に必要なものの一つとは見なされてはいない。私はこうした態度が正当だとは考えない。愛とは、その語を正しく用いた場合は、両性間のいかなる関係またはあらゆる関係を指すものではなく、少なからぬ感情を含む関係のみを意味し、肉体的であると同時に心理的でもあるような関係を意味する。私は、愛を人間生活における最も重要なものの一つであると見なすし、その自由な発展に不必要に介入するようないかなる制度をも、悪と見なす。
たとえば、現代世界では、愛にはひとつのきわめて危険な敵がある。それは仕事と経済的成功という信条である。現代の典型的な職業人の生活、とりわけアメリカにおけるそれを考えて見るがいい。彼は大人になったそのときから、彼の最良の思考と最良のエネルギーのすべてを、金儲けのうえでの成功にささげる。若いときには、彼はそのときどきの肉体的な欲求を娼婦によって満足させる。結婚するや、彼の興味は妻のそれとはまったく違うので、彼は決して妻と本当に親密になることはない。彼は会社から夜遅く、疲れて帰宅する。朝は妻が目覚める前に起きる。日曜日はゴルフをして過ごす。なぜなら、金儲けの闘争に適応するためには運動が必要だからだ。彼には結婚における愛のための時間がないのと同様、不倫の愛のための時間もない。しかし、もちろん、仕事で家を空けるときには、ときどき娼婦を訪れることはあるかもしれない。
愛は性交への欲求をはるかに超える何物かである。愛は、人生の大部分を通じて大半の男女を苦しめる孤独から逃れるための主要な手段である。情熱的な相互の愛は自我の固い壁を壊し、二人が一つに融合した新しい存在を生み出す。自然は、人間をひとりぼっちでいるようには作らなかった。なぜなら、人間は、もう一人の援助なしには自然の生物学的な目的を達成することができないからだ。そして、文明人は、愛なしに彼らの性的本能を十分に満足させることはできない。その本能は、肉体的と同じくらいに精神的でもある人間の全存在がその関係の中に入らない限り、完全には満足されないのである。幸福かつ相互的な愛情がもつ深い親密さと熱烈な一体感をまったく知らない人々は、人生が提供する最良のものを見逃したことになる。したがって、情熱的な愛に正当な位置を与えることは、社会学者の関心を引く問題であるべきだ。なぜなら、もしもこの経験を手に入れ損なうならば、男女ともに十分な成長を達成することはできないし、世界のほかの人々に対して、それなしには彼らの社会的活動がまったく確実に有害なものとなるような、そのような種類のたっぷりとした暖かみを感じることもできなくなるからだ。
ほとんどの男女は、適当な条件があれば、彼らの人生のある時期に情熱的な愛を感じるものである。しかし、そうした経験のない人々にとっては、情熱的な愛をたんなる性的渇望から区別することはきわめて困難である。とりわけこのことがあてはまるのは、育ちのよい娘たちであり、彼女たちは、愛している男性でない限りとてもキスする気持ちにはなれないはずだと教えられてきた。娘が結婚するときに処女であることを期待されている場合には、性的経験のある女性であれば容易に愛から区別できるような、一過性の取るに足らない性的魅力の罠にはまってしまうということが非常にしばしば起こるものである。これは疑いもなく、不幸な結婚のよくある原因になってきた。
他方、現代の解放された人々のあいだでは、われわれが、問題にしているような真面目な意味の愛は新たな危険にさらされている。つまらない衝動に駆られるたびに性交するということに対する、いかなる道徳的な抵抗をも人々が感じなくなると、彼らは、性を真摯な情感から、また、情愛に満ちた感情から分離して考える習慣におちいる。愛から切り離された性交は、本能に対していかなる深い満足をももたらすことはできない。私は、愛から切り離された性交が決してあってはならないと言っているのではない。なぜなら、これを確実なものにするためには、われわれは、愛もまたきわめて困難になるほどの厳格な障壁を設けなければならないからである。私が言っているのは、愛から切り離された性交はほとんど価値のないものであって、主として、愛を目指す実験行為と見なされるべきだということである。
人間生活において公認された地位を要求する愛の主張は、非常に強力である。しかし、愛は無政府的な力であるから、もしも自由に放任されるならば、法律や慣習によって設定されたいかなる限界のなかにもとどまろうとはしない。子供を巻き込まない限り、このことは大した問題ではないかもしれない。しかし、子供が登場するやいなや、われわれは別の領域に入るのであり、そこでは、愛はもはや自律的ではなく、人類の生物学的な諸目的に奉仕するのである。子供と結びついた社会的倫理が存在しなければならず、それは、情熱的な愛の諸要求と対立するならば、それら諸要求に優越するかもしれない。しかしながら、賢明な倫理はこの対立をできる限り最小にするだろう。というのも、愛はそれ自体としてもよいものであるばかりでなく、両親が愛し合っているならば、子供にとってもよいものだからである。子供の利益と両立する限り、できるだけ愛に干渉しないことが、賢明な性道徳の主目的の一つであるに違いない。