私は今、自分の過去を私は今、過去を振り返る行動をしている。
これは、自己理解の再確認でもある。
下記は、私が中学2年の時に地元の文集に掲載された記事である。
テーマは、生活文。
タイトルは、「忘れない」
忘れない ○○中二年 ○○愛実
私の母は、慢性腎不全という病気に昔かかっていた。しかし、祖父からの腎臓移植により元気な体をとりもどし、自然分娩で私を産んでくれた。移植後、自然分娩で子供を産むことはめずらしく、世界でも例の少ないことだったという。
ある日、そんな話を両親から聞かされた。その時の私には命の重さなんて少しも分かってはいなかった。
私が七歳の時の冬、母は急に体調を崩し入院した。日に日に母の病気は悪くなっていった。母は「IC」という緊急の人が入る病室に入れられた。ある日私がそこへ行くと、目は白くなり、口びるは薬のせいで真っ黒になった母の姿があった。母は私に手を差し出した。私は母の手を軽く握った。しかしショックのあまりすぐにICを出て行ってしまった。それが最後だった。その日の夜、母は亡くなった。
病名がなんだったのか私はよく知らないが、その病気で死ぬことはとてもめずらしいことだったと聞いた。母は四十日間病院に入院していた。
急性の病気だったらしく有名な先生たちが何人も見てくれたそうだが手遅れだった。
最後にはいろいろな薬の副作用などでたくさんの病気にかかっていたそうだ。
苦しかったと思う。 悔しいと思う気持ちが強くて涙もろくに出なかった。あの時、母の手を握り続けることができなかった自分がイヤだった。
その日から私は一人っ子だったせいもあるのかすごくわがままになり、そして一人で泣くことが多くなっていた。心の中にはいつも不安とさびしさがあった。
しかし母が死んで四年程たったある日、私は新聞で祖父が、「善意の筒」というのを行っているのを知った。祖父は母が死んでからずっと、今も病気と戦っている人達のために少しでも役に立てばと毎年、市へ募金していたのだ。 私はその新聞を読んだ時、本当にうれしくて、心が軽くなった気がした。
母が死んでから私はずっと一人で悲しみをこらえてきた。友達や家族の前では、明るく楽しそうに笑って生きてきた。決して悲しいということを表には出さなかった。本当は悲しくて仕方がなかった。
だけどそれは自分だけではなかったとその新聞を読んで始めて気づいた。祖父の心の中に母が生き続けていることがうれしくてたまらなかった。
そして私は、どんなことがあっても負けない強い人間になろうと決意した。
その年は、私も少しの額だが「善意の筒」に募金した。その筒の中にはいろいろなものがつまっている。一言ではいい表せない、優しさも、おもいやりも、思い出も全部。だからそのお金がだれかの役にたってほしいと思う。
今までいろんなことを思った。二度と心から笑えなくなるんじゃないかとか、周りの人は私をどんな目で見ているのかとか、もう生きていくことさえイヤだとか。
だけどそう考えた時、友達や家族、周りの人たちが私を支えてくれていることが何度もあった。今も私の周りには私を支えてくれる大切な人達がいっぱいいる。
そんな人達にこの作文を通して「ありがとう」と一言いいたい。
そして最近は、苦しいことも悲しいことものりこえていくんじゃなくて、かかえて生きていけばいいと思うようになって、苦しいことも悲しいことも全部自分が生きるパワーにできたら私はきっと強 い人間になれるんじゃないかと信じたいと思っている。
私には将来なりたいものも、やってみたいこともないけど、人の命や、人を思う気持ち、家族の大切さを一人でも多くの人に伝えたい。
私は人に何かを伝えるために産まれて、そのために母と別れたのなら、母の死は決して悲しいものではないと思う。 私が、私の立場で、私にしかできないことを、見つけてだれかのために伝えていけるようになれたらいいと思う。
そしてこれからの私の願いは、祖父のように人を思いやる気持ちや、自分の体験した悲しい気持ちをいつも、いつまでも忘れない人間になることだ。
そして、心から優しさのある人間になりたいと今は思う。
それは、母の死が私にとって意味のないことにならないようにするためでもあるのだから。
評: この文章が書けるようなるには愛実さんにとって多くの時間と愛実さんを愛してくれる人との出会いがあったのでしょう。 書くことは新しい自分を創り出していくことでもあります。
(当時の国語教師より、評。)
以上が、私が14歳の時に書いた作文だ。
正直…推敲したい部分はたくさんある。(笑)
私は、14歳の私が書いた作文を 一人静かに読んだ。
号泣してしまった...
私... あの頃と何も変わっていない。
いや、む しろ14歳の愛実の方が強い子だ。
正確に言えば、「強がる事」でしか、生きて 来られなかったんだ。
当時は、きっと幼い心が傷つき、その形を維持するのに、作り笑いや、本当の気持ちを押し殺していたんだと…。少し思い出した。
何度も下書きを書いた記憶が微かに甦る。
原稿用紙に右利きの人間が、たくさん文章を書いていくと、鉛筆を握った右手の側面が真っ黒になる。
その感覚を思い出した。
それが、まるで…。
一つの勲章や、プライドの様に感じていたのかもしれない。
「私という、物書きとしての、原点である。」
私は、14歳の私に確かに、励まされた。
この作文を書いた事は、覚えている。
しかし、細かな内容は24年という長い月日の中で、否応なしに忘れていた。
文中には、「皆の前では笑顔で明るく振る舞っていた、しかし悲しくて仕方なかった。」とも記されている。
当時から、「原稿用紙の中」だけに本音を吐き出せたのかもしれない。
あんた(私)、どんだけの悲しみの中で。
どんだけ「強く、優しく」なろうとしてたんだよ....。
そして、ラストの文章を読んで、鳥肌が立った。怖いくらいに…。
14歳の私の言葉が、今の私そのものだと感じた。私の今の、執筆活動に名前などはない。
しかし、まるで。
「未来予知」をしているかのような衝撃的なラストだった。
私は知らず知らずのうちに、流れ流され。
「夢」という形すらなかった、当時の私の思いを
「今」叶えようとしているのだから。
「夢」とは、職業に限らないと。
当時から独自の感覚があったのだと、自分自身を、振り返った。
14歳の自身の作文との、再会は全て が繋がった、瞬間だった。
24年経った、今も変わらない気持ちと、無意識にそれを叶えようと必死に踠いている、私…。
重複になるが、載せさせて頂く。
『そして最近は、苦しいことも悲しいことものりこえていくんじゃなくて、かかえて生きていけばいいと思うようになって、苦しいことも悲しいことも全部自分が生きるパワーにできたら私はきっと強い人間になれるんじゃないかと信じたいと思っている。
私には将来なりたいものも、やってみたいこともないけど、人の命や、人を思う気持ち、家族の大切さを一人でも多くの人に伝えたい。
私は人に何かを伝えるために産まれて、そのために母と別れたのなら、母の死は決して悲しいものではないと思う。 私が、私の立場で、私にしかできないことを、見つけてだれかのために伝えていけるようになれたらいいと思う。
そしてこれからの私の願いは、祖父のように人を思いやる気持ちや、自分の体験した悲しい気持ちをいつも、いつまでも忘れない人間になることだ。
そして、心から優しさのある人間になりたいと今は思う。
それは、母の死が私にとって意味のないことにならないようにするためでもあるのだから。』
14歳の私へ。
24年経っても、その気持ち。
何も…
変わってはいないよ。
ありがとう。
「14歳の私」
※掲載許可は頂いております。