例えば、プロフィール写真を撮るとき。
私は「この人のどこを切り取るか」について、
あまり考えていない。
正確に言うと、
考えていないというより、
探している。
その人自身が気づいていない、
その人の「何か」を、探しているのだ。
撮影を始めると、大抵の方が
「どんな顔をすればいいですか」と、
聞いてくる。
そして私はいつも
「何もしなくていいですよ」と答える。
表情を作ってもらうより、
ふとした瞬間に現れる、
その人自身の「何か」を撮りたいからだ。
そのような瞬間の写真は、
「私、こんな表情をするんだ」
「素敵。自分じゃないみたい」
「新しい自分に出会えた気がする」
と、驚くことが多い。
鏡で見る自分とは違う自分が、
そこに写っているからだと思う。
話を聴くときも、そうだ。
相手が「これが自分の問題です」と
話している内容を、
そのまま受け取ることはない。
…というと、冷たく聞こえるかも
しれないけれど、
その人が言葉にできていない「何か」の方が、
私にとっては興味深い。
お話を聴いていると、
本人が「問題」だと思っているものと、
本当の問題については、
ズレていることがよくある。
そのズレを言葉にして、
そっと目の前に置く。
「本当は、こういうことが気になって
いるんじゃないですか?」と。
実は、タロット占いのときも、
自分の中では同じことが起きている。
私の鑑定は、カードの意味を辞書のように
当てはめていくことは、しない。
カードから、
その人の状況や
感情の輪郭のようなものが
浮かびあがってくる瞬間を
待っている。
その瞬間のメッセージを捉え、
言葉としてお届けしている。
「当たった、外れた」という話ではなくて、
「今まで、そういう見方をしたことがなかった」
「それは盲点だった」
「そんな風に思われているなんて思ってもみなかった」
という反応が返ってくることが多い。
写真も傾聴もタロット占いも、
私の中では本質的に何も変わらないと気づいたのは、
それほど昔のことではない。
だから私がやっていることは、
全部同じだと思っている。
「見つけて、差し出す。」
押しつけることは、しない。
「あなたはこういう人だ」と
断定するつもりもない。
ただ、「こういう見方もできますよ」と、
そっと目の前に差し出す。
受け取るかどうかは、
相手が決める。
カメラのファインダーを覗くときも、
カードを並べるときも、
誰かの話を聴くときも、
私がやっていることはそれだけだ。
選択肢が一つ増えるだけで、
人は、少しだけ楽になれるし、
ちょっとだけ生きるのが楽しくなったりする。
これまでそう信じてきたし、
きっとこれからもそう思い続ける。