私が生きていく上での大前提として、自分にとって「正しいこと」と「正しくないこと」は人それぞれだと常に思っています。正直言って10人いれば10通りの考え方があり、それぞれ自分が正しいと思う道を考えて行動しています。時に意見が食い違ったりすることはありますが、どちらかが100%正しくてどちらかが間違っているのではなく、6割方正しいとか、少し間違っているとか、白黒ではなくグレーの濃さなのだと思っています。
まず個人的に苦い思いをする場面の例をあげてみます。私のような自分が全て正しいということはないと思っている人にとって、しばしば経験するのが、自分が100%正しいと思って私を批判してくる人に対して尻込みして強い意見を返せないことです。つまり自分の場合、自分がある程度正しくある程度間違っていると自己判断しているので、絶対に正しいと思いながら私に強く意見してくる人には、まず、「自分の悪いところは正しい方向に持っていかなければ」という責任感というか、義務感が生じてしまい、強い意見に流されがちになってしまうのです。和をもって尊しとなす日本人特有の奥深しさと表現される場合もありますが、ディスカッションを苦手とする自分の弱さであるともとれます。私自身それほど間違っていないはずなのに、間違っているような不快な気分にさせられるのと、ちゃんと自分の権利・主張を即座に守りにいけない自己嫌悪に襲われとても嫌な気持ちになります。1時間後になって反対意見を述べてもいまいちパッとしません。怒りに任せて1秒で反論するのは建設的ではないため、3回深呼吸をして5〜10秒くらいで私自身の考えをしっかりと相手に伝えていくのが重要だと考えています。
もう一つ大事だと考えていることは、集団の中に一人だけ自分の意見を曲げられない人がいた場合にその人をどうするかです。例えば、今まで数十名の社会人が知恵を絞って数年間安定した業務を行なっていたと仮定します。その中に新年度からそこそこ経験のある人材が加わった際に、今までのやり方に異を唱える事象が起きた場合です。それはもちろん建設的なある側面から見れば「正しい」とも思われる意見であったとします。でも、その方針ではなく、今まで通りの方針で数年間うまくやっていたわけですから、それまでの業務もある意味「正しい」はずなのです。新しい人材に100%自分の意見が正しいから今までの業務は是正するべきだと指摘を受けた場合に、それが前から業務を行なってきた人々全員に受け入れられるほど正しい意見でなければ、半分程度採用するとか何らかの妥協点を見つけるべきです。しかし100%正しいと思っていて柔軟に対応できない人の場合に妥協案が見つからなくなってしまいます。新しい意見であるように見えて、実は以前に吟味され不採用となったものであったり、一見正しいように見えて、顧客からすればむしろ不利益であったりする場合があるのですが、自分が100%正しいと思っている人には話してもなぜか分かり合えません。そのような場合でも、事情があってその業務からその人物を外せない場合には業務が全くといっていいほど機能不全に落ちいってしまうのです。お互いのためにも柔軟な考え方ができない人にはやめてもらった方がいい事が多いのですが、誰かが三行半を突きつけることになるので、やめてもらうことを告げる役割の人の精神的なストレスは大きくなってしまいます。しかし、大人同士の社会において100%どちらかが正しくて、100%間違いなどはそうそうあるはずもなく、そういったことが理解できない人材にはやめてもらうほかないと私自身は思います。
自分が正しいと思うことを主張する、行動する。自分が正しくて他の人や社会が間違っていると思うことを発言する、訂正する。こういったことは人の社会を形成する上でとても重要なことです。でも根本にこれまで多くの人々が培ってきた物の上に今の社会が成り立っていることも忘れてはいけないと思います。自分の行動に自信がなさすぎるのも問題ですが、自信がありすぎて他者と相容れないのでは恐らくうまくいきません。「白か黒」ではなく灰色の濃さを話し合うといった心の持ちようが大切なのではないかと私自身は考えています。