主日に考える「信じる」ということ

記事
コラム
主日という言葉が日曜日と同義だとご存じでしょうか?

信徒数1200万人を誇る浄土真宗派、の数多ある檀家の一つに生を受けた私。

当然のように(?)強い信仰心もなく、せいぜい法事の時に

「そういえば、うちって浄土真宗の家なんだなー」くらいの認識です。



そんな私が日曜学校に通いだしたのは、小学校の低学年でした。

プロテスタント系の教会です。

日曜日イコール主日、と知ったのもこの頃だったと思います。

当時の私は、聖書に書かれている神の教えに感銘を受け日曜学校に通って……

いたわけでは当然なく。

教会の庭で友達と遊ぶのが目的でした。

あとは時々もらえるお菓子も!

小学生の私には「友達と遊べてお菓子までくれる場所」

それが教会でした。

讃美歌の本の端っこにパラパラ漫画を描いたり

危ないから、と言われていた庭の木に登ったり

思い出すと悪戯ばかりしている、罰当たりな子供です。

本当にごめんなさい。大反省。

そんな私(と友人)をいつも優しく窘めてくれたのが牧師先生。

おじいちゃん先生と呼んでいましたが、案外若かったのかもしれません。

絶対に怒らないし、悲しいときは親身になって話を聞いてくれる。

私たちは子供心におじいちゃん先生のことを

「先生が優しいのは神様を信じてる人だから」と思っていました。



あれは私が5年生か6年生のころ。

漫画で見た「カトリックの法王は神の代理人」というフレーズがカッコよくて

おじいちゃん先生に聞いてみたことがあります。

プロテスタントの牧師さんに、です。

そのとき私は初めて、おじいちゃん先生が不機嫌になるのを見ました。

もちろん怒られたりはしませんでしたが、

「どんな人も神様の前では平等なんだ」

そんな意味合いの言葉を聞いたと記憶しています。



おじいちゃん先生は本当に優しい人で

信仰心に厚い先生だったんでしょう。

中学生になり教会に通わなくなってからも

毎年私の誕生日には、先生から手書きのBDカードが届いていました。

それは私が実家を離れても続いています。

もちろん私の友人の家にもです。

私も(多分友人も)、今でも先生が大好きです。



先生に注意されたことで、子供ながらに気づいたことがあります。

それは信じることの『純粋』さです。

純粋だから、見逃せないこともあったのでしょう。

純粋さはその人の、最もデリケートな部分です。

柔い、守らなければならない場所です。

どんな人も、きっと持っている心の聖域。

神様を信じている人

お金を信じている人

自分の才能を信じている人

その対象はヒトだったりモノだったり、コミュニティだったり

分かりやすい人も、見えにくい人もいます。

誰だって自分の聖域を侵されれば腹が立ちます。

私はおじいちゃん先生みたいに人間ができていないので

相手に悪意がなくても、嫌いになってしまうかもしれません。

試行錯誤しながら、私もようやく自分の聖域を守れるようになりました。

ときどき失敗して傷つけられたりもしますが

慰めるのはおてのものです。



自分の信じるものを他人に傷つけられないように

人の聖域を侵さないように

そうやって生きていければ幸いです。



因みに家族も私も、あいかわらずゆる~い仏教徒です。









サービス数40万件のスキルマーケット、あなたにぴったりのサービスを探す ココナラコンテンツマーケット ノウハウ記事・テンプレート・デザイン素材はこちら