雅子ママを覚えているだろうか。
美月を育てた、あの『クラブ ヴィーナス』のママである。
店は今も銀座で健在だった。
そして雅子ママもまた、その中心に君臨し、銀座という華やかな街を生き抜いていた。
そんなある日、博多の有名料亭のオーナー、瀬野から一本の電話が入った。
『実はね、知り合いのママの娘さんが、女優になりたいと言っているんだ。誰か芸能事務所を紹介してもらえないだろうか』
瀬野とは長い付き合いだった。
芸能関係に近いお客様も何人か知ってはいたが、まだ顔も見たことのない女の子を、いきなり紹介するわけにもいかない。
『そうね。一度、お母さんと一緒に会いに来てもらえる? どんなお嬢さんなのか、まずはお話ししてみましょう』
電話を切った雅子は、ふっと息をついた。
正直なところ、遠い博多からやって来る、見ず知らずの親子の面倒を見るのは気が重かった。
銀座で店を経営するということは、華やかな世界にいるようで、実際には気を配らなければならないことばかりだ。
自分の店のことでさえ手いっぱいなのに、芸能界を目指す若い女の子の世話まで引き受けることになるのか。
そんな思いもあった。
それでも、長年お世話になっている瀬野からの頼みを、簡単に断ることはできなかった。
数日後。
雅子は、銀座にほど近いホテルのラウンジで、博多から来た母娘と向かい合っていた。
落ち着いた照明に、静かな空間。周囲では商談らしい会話が交わされている。
母親の美幸は、少し緊張した面持ちで頭を下げた。
『はじめまして。瀬野さんからご紹介いただきました、一ノ瀬と申します。この子が娘の玲奈です』
『初めまして。遠いところ、わざわざありがとうございます。どうぞ、お掛けになって』
雅子は柔らかな笑顔で2人を迎えた。
美幸は、娘の手をそっと握り直してから、ゆっくりと話し始めた。
『瀬野さんからお話ししていただいたと思いますが、この子は小さい頃から女優になるのが夢でして……。親として、できることならその夢を叶えさせてあげたいと思っているんです。ご迷惑を承知で、こうしてお願いに上がりました』
雅子は玲奈に視線を向けた。
『玲奈ちゃんね。瀬野さんから、綺麗な顔立ちのお嬢さんだと聞いていたわ。本当に目鼻立ちがはっきりしていて、美人さんね』
これまで何百人もの女性を見てきた雅子には、人を見るときの独特の勘があった。
顔立ちの美しさだけではない。
目の動き、表情、ふとした仕草。そこから、その女性が持つ何かを感じ取ることがある。
玲奈にも、確かに人目を引く華やかさがあった。
けれど、雅子は一つだけ気になることがあった。
まだ十九歳という若さもあってか、玲奈の体つきは少しふっくらとしていた。女優という夢を叶えるためには、本人が思い描いている以上に、厳しい現実が待っているかもしれない。
それでも、今ここで可能性を否定する必要はなかった。
『まずは東京で生活しながら、いろいろな道を探してみましょう。芸能関係の知り合いにも、話を聞いてみます。ただ、すぐに事務所が見つかるとは限らないから、それまでは私のところで預からせてもらうということで、どうかしら』
美幸の顔に、ほっとしたような表情が浮かんだ。
『ありがとうございます。本当に、何とお礼を申し上げていいか……』
隣に座る玲奈も、嬉しそうに目を輝かせた。
自分の夢が、いよいよ現実に近づいてきた。
そう思ったのだ。
こうして、玲奈の東京行きが決まった。
それから一か月後。
玲奈は、憧れの東京に降り立った。
空港から街へ向かう途中、窓の外には見たこともない景色が次々と流れていった。
高くそびえるビル。行き交う人々。どこまでも続いているように見える街並み。
すべてが新鮮で、すべてが輝いて見えた。
けれど、駅に着くと、その印象は少し変わった。
人々は誰もが目的地へ向かって早足で歩き、玲奈が立ち止まっていても、気に留める者はいない。
誰もが自分のことで精いっぱいで、見知らぬ人に声をかけるような余裕などなかった。
博多では、道を尋ねれば誰かが立ち止まって教えてくれた。
けれど、ここでは違う。
東京は、思っていた以上に大きく、そして素っ気ない街なのかもしれない。
玲奈は慣れない電車を何度も乗り継ぎ、ようやく雅子ママのもとへたどり着いた。
住まいは麻布にあったが、その近くで一人暮らしをするとなれば、家賃は簡単に払える金額ではない。
そこで雅子は、銀座にも通いやすく、家賃も比較的抑えられる場所を探してくれていた。
慣れない土地での生活。
初めての一人暮らし。
不安がなかったわけではない。
それでも、玲奈の胸は期待でいっぱいだった。
東京に来たのだ。
これから芸能事務所を紹介してもらい、女優になるための道を歩き始める。
そう思うと、何もかもが輝いて見えた。
ところが、現実は玲奈が想像していたものとは少し違っていた。
芸能事務所が見つかるまでの間、玲奈は『クラブ ヴィーナス』でアルバイトをすることになったのである。
雅子は玲奈に、こう説明した。
『玲奈ちゃん、女優になりたいのなら、いろいろな人と話をする経験も大切よ。ここには、さまざまな仕事をしているお客様がいらっしゃるでしょう。人の話を聞いて、相手が何を考えているのかを知ることも、きっと役に立つわ』
雅子なりの考えがあった。
銀座のクラブには、会社経営者もいれば、会社員もいる。職業も年齢も考え方も違う人々が、毎晩のように集まってくる。
相手に合わせて会話をし、その人が心地よく過ごせる時間をつくる。
それは、確かに簡単なことではない。
人の心を知るという意味では、女優を目指す玲奈にとっても、何かを学べる場所になるかもしれなかった。
しかし、玲奈はまだ、その意味を理解できていなかった。
彼女が思い描いていたのは、芸能事務所を訪ね、オーディションを受け、カメラの前に立つ自分だった。
まさか、銀座のクラブでお客様の隣に座り、会話をしなければならないとは思ってもいなかったのだ。
それでも、ここでお世話になる以上、嫌だとは言えなかった。
玲奈は、自分なりに頑張ろうとした。
ところが、いざお客様の席に着いてみると、何を話せばいいのか、さっぱりわからなかった。
相手が何を求めているのかもわからない。
何か話さなければと思うほど、言葉が出てこなくなる。
話題を振られても、短い返事しかできない。
結局、玲奈は困ったときになると、
『私、人見知りなんです』
そう言って、会話を終わらせてしまうのだった。
心のどこかで、こんな思いもあったのかもしれない。
――私は、クラブで働くために東京へ来たんじゃない。
そう思うと、目の前のお客様に向き合うことさえ、次第に苦痛になっていった。
そんなある日のことだった。
その日、玲奈が初めて一対一で接客することになったのは、小関という40代の男性だった。
不動産を中心に幅広く仕事をしている小関は、若いながらもさまざまな店で飲み、接待の経験も豊富だった。
銀座のクラブで飲むことも、彼にとっては日常の一部だった。
その日は、約束していた相手が急に来られなくなり、珍しく一人で店を訪れていた。
玲奈は緊張した面持ちで、小関の隣に座った。
『こんばんは』
『やあ、新人さんかな?』
『は、はい』
『そうか。どうした、緊張してるの?』
『……』
玲奈は、うまく笑うこともできなかった。
何を話せばいいのかわからない。
目の前の男性の顔を見ることさえ、どこか落ち着かなかった。
『名前は何ていうの?』
『玲奈です』
『玲奈ちゃんか。まだ、この仕事に慣れていないんだね』
『ええ……私、人見知りなので』
その瞬間、小関の表情が変わった。
声を荒らげるつもりはなかった。
けれど、客として何度も銀座のクラブに通ってきた彼には、どうしても伝えておきたいことがあった。
小関は、少し声を落として話し始めた。
『玲奈ちゃん、ちょっと聞いてもいいかな』
『……はい』
『お客さんが、どうして高いお金を払ってクラブに来るのか、考えたことはある?』
玲奈は答えられなかった。
『仕事の接待で来る人もいるし、仲間と楽しく飲みたい人もいる。気に入った女の子と話したくて来る人だっているだろうね』
小関は、玲奈の顔を見ながら続けた。
『でもね、みんなが求めているのは、お酒だけじゃないんだよ。普段は仕事で気を張っている人が、ここでは少し肩の力を抜きたい。自分の話を聞いてほしい。楽しい時間を過ごしたい。そういう気持ちもあるんだ』
玲奈は、黙って聞いていた。
『だから、上手に話せなくてもいいんだ。最初から何でもできる人なんていないからね。ただ、相手と向き合おうとすることは大切だと思うよ』
小関は、できるだけ穏やかに伝えようとしていた。
『ベテランか新人かは関係ない。お客様と向き合う気持ちがなければ、この仕事は難しいんじゃないかな』
その言葉は、決して間違ってはいなかった。
けれど、玲奈には、その言葉を受け止める余裕がなかった。
自分は女優になるために東京へ来た。
どうして、ここでこんなことを言われなければならないのだろう。
私は、そんなに駄目なのだろうか。
いろいろな思いが胸の中で絡まり、何も言えなくなった。
そして――。
玲奈の大きな瞳から、ぽろりと涙がこぼれ落ちた。
小関は、はっとした。
『ああ、ごめん、ごめん。ちょっと言いすぎたかな』
そのとき、2人の様子に気づいた雅子が、そっと席にやって来た。
『小関さん、どうかなさいました?』
『いやいや、何もないよ。ちょっと新人さんに、接客の話をしていただけだから』
雅子は玲奈の顔を見た。
涙をこらえようとしているのか、唇を固く結んでいる。
『玲奈ちゃん、ここは大丈夫だから。ちょっとお化粧を直していらっしゃい』
玲奈は小さくうなずくと、何も言わずに席を立った。
そして、逃げるように化粧室へ向かった。
鏡の前に立った玲奈は、涙で滲んだ自分の顔を見つめた。
せっかく東京まで来たのに。
お母さんは、あんなに応援してくれたのに。
自分は、何をしているのだろう。
女優になるという夢は、まだ何一つ始まっていない。
それなのに、目の前のお客様と話すことさえできない自分が、情けなくて仕方がなかった。
『私……何をしに東京へ来たんだろう』
声に出した途端、また涙がこぼれた。
一方、席に残った小関は、申し訳なさそうに雅子を見た。
『ママ、ごめんね。新人さんを泣かせちゃったな』
『いいえ、小関さんが悪いわけではありませんよ』
雅子は、苦笑いを浮かべた。
『実はね、玲奈ちゃんは知り合いから頼まれて預かっている子なの。女優になりたいという夢があってね。芸能事務所が見つかるまで、うちで働いてもらうことになったんだけど……』
雅子は、少し言葉を切った。
『まだ、お客様とお話しすることにも慣れていないみたいで。どうしたものかと思っているところなのよ』
小関は、化粧室の方へ目を向けた。
『そうだったんだ。でも、顔立ちは本当に綺麗だよね。あれだけ華やかな顔をしているんだから、ちゃんと人と話せるようになれば、この店でも十分にやっていけると思うけどな』
『そうでしょう』
雅子の目に、かすかな光が宿った。
『私もね、玲奈ちゃんには何か可能性があるような気がするのよ。今はまだ何もわからないけれど、ひょっとしたら化けるかもしれない。そんな勘があるの』
『へえ。ママがそう言うなら、楽しみだね』
2人は、それ以上、玲奈のことを話題にしなかった。
けれど、雅子の胸の中には、まだ小さな期待が残っていた。
人は、最初から完成されているわけではない。
今は未熟でも、何かをきっかけに変わる女性がいることを、雅子は長年の経験から知っていた。
ただ、その可能性がどこへ向かうのかは、まだ誰にもわからなかった。
その夜、玲奈は最後まで笑顔を取り戻すことができなかった。
東京へ来れば、何かが変わると思っていた。
自分の人生が、華やかな世界へ向かって動き始めると思っていた。
けれど、現実は違った。
目の前にあるのは、慣れない仕事と、思い描いていた自分とはかけ離れた毎日だった。
女優になるという夢が、急に遠くへ離れてしまったような気がした。
それでも、玲奈はまだ、諦めたわけではなかった。
そして、それから一か月後。
雅子ママのもとに、思いがけない知らせが舞い込んできた。
お客様の知り合いに、芸能事務所を紹介できる人物がいるというのだ。
玲奈の夢へとつながる、新たな扉が開こうとしていた。
しかし、その扉の向こうに何が待っているのか――。
このときの玲奈には、まだ知る由もなかった。