【連載小説】第152話 銀座の洗礼

【連載小説】第152話 銀座の洗礼

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小説

雅子ママを覚えているだろうか。

美月を育てた、あの『クラブ ヴィーナス』のママである。

店は今も銀座で健在だった。

そして雅子ママもまた、その中心に君臨し、銀座という華やかな街を生き抜いていた。

そんなある日、博多の有名料亭のオーナー、瀬野から一本の電話が入った。

『実はね、知り合いのママの娘さんが、女優になりたいと言っているんだ。誰か芸能事務所を紹介してもらえないだろうか』

瀬野とは長い付き合いだった。

芸能関係に近いお客様も何人か知ってはいたが、まだ顔も見たことのない女の子を、いきなり紹介するわけにもいかない。

『そうね。一度、お母さんと一緒に会いに来てもらえる? どんなお嬢さんなのか、まずはお話ししてみましょう』

電話を切った雅子は、ふっと息をついた。

正直なところ、遠い博多からやって来る、見ず知らずの親子の面倒を見るのは気が重かった。

銀座で店を経営するということは、華やかな世界にいるようで、実際には気を配らなければならないことばかりだ。

自分の店のことでさえ手いっぱいなのに、芸能界を目指す若い女の子の世話まで引き受けることになるのか。

そんな思いもあった。

それでも、長年お世話になっている瀬野からの頼みを、簡単に断ることはできなかった。

数日後。

雅子は、銀座にほど近いホテルのラウンジで、博多から来た母娘と向かい合っていた。

落ち着いた照明に、静かな空間。周囲では商談らしい会話が交わされている。

母親の美幸は、少し緊張した面持ちで頭を下げた。

『はじめまして。瀬野さんからご紹介いただきました、一ノ瀬と申します。この子が娘の玲奈です』

『初めまして。遠いところ、わざわざありがとうございます。どうぞ、お掛けになって』

雅子は柔らかな笑顔で2人を迎えた。

美幸は、娘の手をそっと握り直してから、ゆっくりと話し始めた。

『瀬野さんからお話ししていただいたと思いますが、この子は小さい頃から女優になるのが夢でして……。親として、できることならその夢を叶えさせてあげたいと思っているんです。ご迷惑を承知で、こうしてお願いに上がりました』

雅子は玲奈に視線を向けた。

『玲奈ちゃんね。瀬野さんから、綺麗な顔立ちのお嬢さんだと聞いていたわ。本当に目鼻立ちがはっきりしていて、美人さんね』

これまで何百人もの女性を見てきた雅子には、人を見るときの独特の勘があった。

顔立ちの美しさだけではない。

目の動き、表情、ふとした仕草。そこから、その女性が持つ何かを感じ取ることがある。

玲奈にも、確かに人目を引く華やかさがあった。

けれど、雅子は一つだけ気になることがあった。

まだ十九歳という若さもあってか、玲奈の体つきは少しふっくらとしていた。女優という夢を叶えるためには、本人が思い描いている以上に、厳しい現実が待っているかもしれない。

それでも、今ここで可能性を否定する必要はなかった。

『まずは東京で生活しながら、いろいろな道を探してみましょう。芸能関係の知り合いにも、話を聞いてみます。ただ、すぐに事務所が見つかるとは限らないから、それまでは私のところで預からせてもらうということで、どうかしら』

美幸の顔に、ほっとしたような表情が浮かんだ。

『ありがとうございます。本当に、何とお礼を申し上げていいか……』

隣に座る玲奈も、嬉しそうに目を輝かせた。

自分の夢が、いよいよ現実に近づいてきた。

そう思ったのだ。

こうして、玲奈の東京行きが決まった。

それから一か月後。

玲奈は、憧れの東京に降り立った。

空港から街へ向かう途中、窓の外には見たこともない景色が次々と流れていった。

高くそびえるビル。行き交う人々。どこまでも続いているように見える街並み。

すべてが新鮮で、すべてが輝いて見えた。

けれど、駅に着くと、その印象は少し変わった。

人々は誰もが目的地へ向かって早足で歩き、玲奈が立ち止まっていても、気に留める者はいない。

誰もが自分のことで精いっぱいで、見知らぬ人に声をかけるような余裕などなかった。

博多では、道を尋ねれば誰かが立ち止まって教えてくれた。

けれど、ここでは違う。

東京は、思っていた以上に大きく、そして素っ気ない街なのかもしれない。

玲奈は慣れない電車を何度も乗り継ぎ、ようやく雅子ママのもとへたどり着いた。

住まいは麻布にあったが、その近くで一人暮らしをするとなれば、家賃は簡単に払える金額ではない。

そこで雅子は、銀座にも通いやすく、家賃も比較的抑えられる場所を探してくれていた。

慣れない土地での生活。

初めての一人暮らし。

不安がなかったわけではない。

それでも、玲奈の胸は期待でいっぱいだった。

東京に来たのだ。

これから芸能事務所を紹介してもらい、女優になるための道を歩き始める。

そう思うと、何もかもが輝いて見えた。

ところが、現実は玲奈が想像していたものとは少し違っていた。

芸能事務所が見つかるまでの間、玲奈は『クラブ ヴィーナス』でアルバイトをすることになったのである。

雅子は玲奈に、こう説明した。

『玲奈ちゃん、女優になりたいのなら、いろいろな人と話をする経験も大切よ。ここには、さまざまな仕事をしているお客様がいらっしゃるでしょう。人の話を聞いて、相手が何を考えているのかを知ることも、きっと役に立つわ』

雅子なりの考えがあった。

銀座のクラブには、会社経営者もいれば、会社員もいる。職業も年齢も考え方も違う人々が、毎晩のように集まってくる。

相手に合わせて会話をし、その人が心地よく過ごせる時間をつくる。

それは、確かに簡単なことではない。

人の心を知るという意味では、女優を目指す玲奈にとっても、何かを学べる場所になるかもしれなかった。

しかし、玲奈はまだ、その意味を理解できていなかった。

彼女が思い描いていたのは、芸能事務所を訪ね、オーディションを受け、カメラの前に立つ自分だった。

まさか、銀座のクラブでお客様の隣に座り、会話をしなければならないとは思ってもいなかったのだ。

それでも、ここでお世話になる以上、嫌だとは言えなかった。

玲奈は、自分なりに頑張ろうとした。

ところが、いざお客様の席に着いてみると、何を話せばいいのか、さっぱりわからなかった。

相手が何を求めているのかもわからない。

何か話さなければと思うほど、言葉が出てこなくなる。

話題を振られても、短い返事しかできない。

結局、玲奈は困ったときになると、

『私、人見知りなんです』

そう言って、会話を終わらせてしまうのだった。

心のどこかで、こんな思いもあったのかもしれない。

――私は、クラブで働くために東京へ来たんじゃない。

そう思うと、目の前のお客様に向き合うことさえ、次第に苦痛になっていった。

そんなある日のことだった。

その日、玲奈が初めて一対一で接客することになったのは、小関という40代の男性だった。

不動産を中心に幅広く仕事をしている小関は、若いながらもさまざまな店で飲み、接待の経験も豊富だった。

銀座のクラブで飲むことも、彼にとっては日常の一部だった。

その日は、約束していた相手が急に来られなくなり、珍しく一人で店を訪れていた。

玲奈は緊張した面持ちで、小関の隣に座った。

『こんばんは』

『やあ、新人さんかな?』

『は、はい』

『そうか。どうした、緊張してるの?』

『……』

玲奈は、うまく笑うこともできなかった。

何を話せばいいのかわからない。

目の前の男性の顔を見ることさえ、どこか落ち着かなかった。

『名前は何ていうの?』

『玲奈です』

『玲奈ちゃんか。まだ、この仕事に慣れていないんだね』

『ええ……私、人見知りなので』

その瞬間、小関の表情が変わった。

声を荒らげるつもりはなかった。

けれど、客として何度も銀座のクラブに通ってきた彼には、どうしても伝えておきたいことがあった。

小関は、少し声を落として話し始めた。

『玲奈ちゃん、ちょっと聞いてもいいかな』

『……はい』

『お客さんが、どうして高いお金を払ってクラブに来るのか、考えたことはある?』

玲奈は答えられなかった。

『仕事の接待で来る人もいるし、仲間と楽しく飲みたい人もいる。気に入った女の子と話したくて来る人だっているだろうね』

小関は、玲奈の顔を見ながら続けた。

『でもね、みんなが求めているのは、お酒だけじゃないんだよ。普段は仕事で気を張っている人が、ここでは少し肩の力を抜きたい。自分の話を聞いてほしい。楽しい時間を過ごしたい。そういう気持ちもあるんだ』

玲奈は、黙って聞いていた。

『だから、上手に話せなくてもいいんだ。最初から何でもできる人なんていないからね。ただ、相手と向き合おうとすることは大切だと思うよ』

小関は、できるだけ穏やかに伝えようとしていた。

『ベテランか新人かは関係ない。お客様と向き合う気持ちがなければ、この仕事は難しいんじゃないかな』

その言葉は、決して間違ってはいなかった。

けれど、玲奈には、その言葉を受け止める余裕がなかった。

自分は女優になるために東京へ来た。

どうして、ここでこんなことを言われなければならないのだろう。

私は、そんなに駄目なのだろうか。

いろいろな思いが胸の中で絡まり、何も言えなくなった。

そして――。

玲奈の大きな瞳から、ぽろりと涙がこぼれ落ちた。

小関は、はっとした。

『ああ、ごめん、ごめん。ちょっと言いすぎたかな』

そのとき、2人の様子に気づいた雅子が、そっと席にやって来た。

『小関さん、どうかなさいました?』

『いやいや、何もないよ。ちょっと新人さんに、接客の話をしていただけだから』

雅子は玲奈の顔を見た。

涙をこらえようとしているのか、唇を固く結んでいる。

『玲奈ちゃん、ここは大丈夫だから。ちょっとお化粧を直していらっしゃい』

玲奈は小さくうなずくと、何も言わずに席を立った。

そして、逃げるように化粧室へ向かった。

鏡の前に立った玲奈は、涙で滲んだ自分の顔を見つめた。

せっかく東京まで来たのに。

お母さんは、あんなに応援してくれたのに。

自分は、何をしているのだろう。

女優になるという夢は、まだ何一つ始まっていない。

それなのに、目の前のお客様と話すことさえできない自分が、情けなくて仕方がなかった。

『私……何をしに東京へ来たんだろう』

声に出した途端、また涙がこぼれた。

一方、席に残った小関は、申し訳なさそうに雅子を見た。

『ママ、ごめんね。新人さんを泣かせちゃったな』

『いいえ、小関さんが悪いわけではありませんよ』

雅子は、苦笑いを浮かべた。

『実はね、玲奈ちゃんは知り合いから頼まれて預かっている子なの。女優になりたいという夢があってね。芸能事務所が見つかるまで、うちで働いてもらうことになったんだけど……』

雅子は、少し言葉を切った。

『まだ、お客様とお話しすることにも慣れていないみたいで。どうしたものかと思っているところなのよ』

小関は、化粧室の方へ目を向けた。

『そうだったんだ。でも、顔立ちは本当に綺麗だよね。あれだけ華やかな顔をしているんだから、ちゃんと人と話せるようになれば、この店でも十分にやっていけると思うけどな』

『そうでしょう』

雅子の目に、かすかな光が宿った。

『私もね、玲奈ちゃんには何か可能性があるような気がするのよ。今はまだ何もわからないけれど、ひょっとしたら化けるかもしれない。そんな勘があるの』

『へえ。ママがそう言うなら、楽しみだね』

2人は、それ以上、玲奈のことを話題にしなかった。

けれど、雅子の胸の中には、まだ小さな期待が残っていた。

人は、最初から完成されているわけではない。

今は未熟でも、何かをきっかけに変わる女性がいることを、雅子は長年の経験から知っていた。

ただ、その可能性がどこへ向かうのかは、まだ誰にもわからなかった。

その夜、玲奈は最後まで笑顔を取り戻すことができなかった。

東京へ来れば、何かが変わると思っていた。

自分の人生が、華やかな世界へ向かって動き始めると思っていた。

けれど、現実は違った。

目の前にあるのは、慣れない仕事と、思い描いていた自分とはかけ離れた毎日だった。

女優になるという夢が、急に遠くへ離れてしまったような気がした。

それでも、玲奈はまだ、諦めたわけではなかった。

そして、それから一か月後。

雅子ママのもとに、思いがけない知らせが舞い込んできた。

お客様の知り合いに、芸能事務所を紹介できる人物がいるというのだ。

玲奈の夢へとつながる、新たな扉が開こうとしていた。

しかし、その扉の向こうに何が待っているのか――。

このときの玲奈には、まだ知る由もなかった。
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