【連載小説】第156話 もう一度、銀座へ

【連載小説】第156話 もう一度、銀座へ

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いつものように、玲奈は母・美幸の店へと急いでいた。

開店時間には、まだ少し早い。

それでも、店にはすでに常連客の姿があった。

19歳の玲奈は、以前とは見違えるほどスリムになり、どこか大人びた色気をまとっていた。

カウンターの中でお客様と楽しそうに笑い合うその姿は、夜の街のネオンにも負けないほど、明るい輝きを放っていた。

東京から戻ってきたばかりの頃、あれほど沈んでいた表情は、もうどこにもない。

お客様の話に耳を傾け、自然に笑い、時には冗談を返す。

人と接することが、いつの間にか玲奈の日常になっていた。

そのときだった。

店の重厚な扉が、静かに開いた。

入ってきたのは、一人の女性だった。

仕立てのよい高級な着物を凛と着こなし、背筋を伸ばして歩く姿には、ひと目でただ者ではないと分かる風格があった。

銀座の『クラブ・ヴィーナス』を経営する、高梨雅子ママだった。

『あっ、ママ! いらっしゃいませ』

玲奈は驚きのあまり、思わず声を裏返らせた。

『こんばんは。急にごめんなさいね。連絡もしないで』

雅子は、いつもの落ち着いた笑顔を見せた。

『この近くでお客様のお祝いがあってね。博多に来たついでに、玲奈ちゃんはどうしているかしらと思って、寄ってみたのよ』

『まあ、嬉しい! どうぞ、こちらへ』

玲奈は慌てて、店の奥にあるボックス席へ案内しようとした。

『あら、一人だからカウンターでいいわ』

そう言って、雅子は自然な身のこなしでカウンターの席に腰を下ろした。

その一連の所作は、まるで映画のワンシーンのようだった。

着物の袖を整える仕草、店内を見渡す視線、そして何気ない微笑み。

それだけで、その場の空気が変わった。

ほかのお客様も、思わず雅子に目を向けていた。

『ママさん、あのときは本当にご迷惑をおかけしました。突然辞めることになってしまって、申し訳ありませんでした』

奥から出てきた美幸が、丁寧に頭を下げた。

『美幸ママ、そんなに謝らないでください。いろいろ事情があったことは聞いていますから』

雅子は、気にする様子もなく微笑んだ。

『それより、今日はせっかくですから、皆さんと一緒に楽しませてもらいますね』

そう言うと、雅子は店で一番高いシャンパンを注文した。

さらに、カウンターにいたお客様にも振る舞い、久しぶりの再会を祝うようにグラスを合わせた。

たちまち店内は華やいだ空気に包まれた。

玲奈も、嬉しそうにグラスを並べていた。

けれど雅子は、会話を楽しみながらも、ときおり玲奈の様子をじっと見つめていた。

長年、銀座で店を経営してきた雅子は、数えきれないほどの女性たちを見てきた。

華やかな世界で成功する者もいれば、夢を抱いて上京し、いつの間にか姿を消していく者もいる。

美しさだけでは生き残れない。

愛嬌だけでも足りない。

人の心をつかむ力、自分を磨き続ける意志、そして何より、簡単には折れない心が必要だった。

雅子の目には、博多に戻った頃の玲奈とは違うものが映っていた。

すっきりとした体型。

以前にも増して磨かれた美貌。

そして、お客様と自然に笑い合う表情。

何より気になったのは、その瞳だった。

夢に破れ、傷ついていたはずの少女の目に、再び光が戻っている。

玲奈は、博多でただ慰められていたわけではなかった。

人と接する喜びを知り、自分の力でお客様を笑顔にすることを覚えたのだ。

雅子は、グラスを傾けながら、ふっと微笑んだ。

そして、玲奈に声をかけた。

『玲奈ちゃん、ちょっと聞いてもいいかしら』

『はい、何ですか?』

『もう一度、銀座で挑戦してみる気はない?』

その言葉を聞いた瞬間、玲奈の手が止まった。

銀座。

その二文字は、玲奈にとって、忘れようとしても忘れられない場所だった。

初めて上京したときの期待。

女優への夢。

思い描いていた未来と、現実との大きな隔たり。

そして、何も成し遂げられないまま博多へ戻ってきた、あの日の悔しさ。

いくつもの記憶が、一瞬にして胸の中によみがえった。

『銀座……ですか?』

玲奈は、小さな声で聞き返した。

『そうよ』

雅子は、玲奈の目をまっすぐに見つめた。

『以前、東京にいた頃の玲奈ちゃんは、女優になることばかり考えていたでしょう。夢が大きいことは悪いことじゃない。でも、あの頃は、目の前にいる人と向き合う余裕がなかったのかもしれないわね』

玲奈は、何も答えなかった。

確かに、あの頃の自分はそうだった。

どうすれば綺麗に見えるか。

どうすれば芸能界に近づけるか。

どうすれば誰かに認めてもらえるか。

そんなことばかりを考えていた。

目の前のお客様が何を求めているのか、自分と話すことでどんな気持ちになってくれるのか。

そこまで考える余裕はなかった。

『でも、今の玲奈ちゃんは違うわね』

雅子は、穏やかな声で続けた。

『さっきから見ていたけれど、お客様との接し方が自然になったわ。無理に自分をよく見せようとしていない。相手の話を聞いて、ちゃんと笑っている。そういうことは、教えられたからといって、すぐにできるものじゃないのよ』

玲奈は、少し驚いたように雅子を見た。

自分では、何かが変わったという自覚はなかった。

ただ、毎日店に立ち、お客様と話していただけだった。

けれど、その積み重ねが、いつの間にか自分を変えていたのかもしれない。

雅子は、さらに言葉を重ねた。

『博多に戻ったことは、決して無駄じゃなかったと思うわ。東京で一度傷ついたからこそ、今の玲奈ちゃんがあるんじゃないかしら』

その言葉が、玲奈の胸に静かに染み込んでいった。

『銀座はね、綺麗なだけでは通用しない世界よ。お客様も、そこで働く女性たちも、それぞれに事情を抱えている。楽しいことばかりじゃないし、思いどおりにならないこともたくさんある』

雅子は、少しだけ表情を引き締めた。

『でも、そこで人と向き合い、自分を磨いていけば、玲奈ちゃんにしかできない仕事が見つかるかもしれない。私は、今のあなたなら、もう一度挑戦する価値があると思っているの』

玲奈は、息をのんだ。

以前、雅子から東京へ行くよう勧められたときとは、何かが違っていた。

あの頃は、女優になりたいという夢に背中を押され、何も分からないまま東京へ飛び込んだ。

今は違う。

人と接することの楽しさを知った。

お客様に喜んでもらうことの嬉しさも知った。

そして、自分がどんなときに笑い、どんなときに人の役に立てるのか、少しずつ分かり始めていた。

『玲奈ちゃん。もう一度、私と一緒に銀座へ来てみない?』

雅子の言葉は、静かだった。

けれど、その一言には、玲奈の未来を変えるだけの重みがあった。

玲奈は、すぐには答えられなかった。

博多には、母がいる。

自分を温かく迎えてくれるお客様もいる。

ようやく見つけた居場所を、また離れてしまっていいのだろうか。

それに、東京には、もう二度と傷つきたくないという思いもあった。

一度は夢に敗れた街。

自分には向いていないのかもしれないと、諦めかけた場所。

そこへ、もう一度戻る。

それは、簡単な決断ではなかった。

美幸は、黙って娘を見つめていた。

本音を言えば、もう東京へは行かせたくなかった。

ようやく笑顔を取り戻した娘が、また傷つく姿を見たくはない。

けれど、今の玲奈は、上京した頃とは違う。

自分の意志で考え、自分の足で歩き始めている。

母親だからといって、その道を決めてしまうわけにはいかなかった。

やがて玲奈は、ゆっくりと雅子の顔を見た。

『ママ……。私、もう一度、銀座に行ってもいいのかな』

雅子は、優しく微笑んだ。

『もちろんよ。ただし、誰かに連れていってもらうつもりでは駄目。自分で決めて、自分の足で立つのよ』

玲奈は、静かにうなずいた。

その言葉を聞いたとき、胸の奥で、何かが動き始めた。

女優になりたい。

そう願って東京へ来た。

けれど、夢を追いかける途中で、自分の知らなかった世界に出会った。

人と接すること。

人の心に寄り添うこと。

自分の言葉で、誰かを笑顔にすること。

それもまた、自分が輝ける場所なのかもしれない。

そして、銀座には、まだ知らない自分が待っているのかもしれなかった。

玲奈は、母の顔を見た。

『ママ……。私、もう一度、東京へ行きたい』

美幸の目が、わずかに潤んだ。

『本当に、いいのね?』

『うん。今度は、誰かに夢を叶えてもらおうと思って行くんじゃない。自分で頑張って、自分の力で生きてみたいの』

その言葉を聞いて、美幸はゆっくりとうなずいた。

『分かったわ。玲奈が自分で決めたことなら、ママは応援する』

玲奈は、母の手を握った。

東京へ行くことを決めたあの日とは、違う気持ちだった。

あの頃は、華やかな世界への憧れしかなかった。

今は、どんなことが待っているのか分からない怖さもある。

それでも、もう一度挑戦したいという気持ちが、それを上回っていた。

雅子は、そんな玲奈を見つめながら、静かに微笑んだ。

この少女が、銀座でどんな女性に成長していくのか。

まだ誰にも分からない。

待ち受けているのは、華やかな成功だけではないだろう。

人間関係の難しさ、思いがけない裏切り、悔し涙を流す夜もあるかもしれない。

それでも、玲奈は自分で選んだ道を歩いていく。

一度、夢に敗れた少女が、今度は自分自身の力で人生を切り開くために。

こうして玲奈は、再び銀座へ向かう決心をした。

それは、ただ東京へ戻るということではなかった。

自分の人生を、誰かに委ねるのではなく、自分の手でつかみ取るための、新たな出発だった。
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