『こんばんは』
『いらっしゃい。今日はずいぶんご機嫌ですね』
湯浅はカウンターの向こうから、玲奈の顔を見て苦笑した。
『マスター、いつものちょうだい』
玲奈は少し足元をふらつかせながら、ようやくカウンターの椅子に腰を下ろした。
あの日、初めて湯浅に出会ってからというもの、玲奈は毎晩のように『Bar Mute』へ足を運ぶようになっていた。
お客様と一緒のこともあれば、店の女の子たちと連れ立って訪れることもある。理由は何であれ、気がつけば玲奈の一日の終わりには、湯浅のいるバーが欠かせなくなっていた。
その夜は珍しく一人だった。
店では雅子ママの誕生日祝いが盛大に行われ、何本ものシャンパンが次々と抜かれた。お客様から勧められるままにグラスを重ね、玲奈はすっかり酔いが回っていた。
『玲奈さん、今日はもう飲まないほうがよさそうですよ』
湯浅は、カウンターに肘をつく玲奈を見ながら言った。
『マスター、そんな意地悪言わないで。私、まだまだ飲めますよ』
そう言った直後、玲奈の身体がぐらりと傾いた。
今にも椅子から落ちそうになり、湯浅が慌てて手を伸ばす。
『危ないですよ。今日はもう帰ったほうがいい』
『いや! まだ帰りたくない』
玲奈は子どものように首を振った。
そして、ふと思い出したように湯浅の顔を見上げた。
『そういえば私、マスターのこと何も知らないのよね』
『えっ?』
『年齢とか、どこに住んでるのとか、結婚してるのとか……』
『それって、個人情報そのものだよ』
湯浅は困ったように笑った。
『だって、知りたいんだもの』
玲奈は少し甘えるような声で言った。
湯浅はカウンターの中を見回した。
そろそろ閉店の時間だった。
片付けを始めていたところでもある。
『今日はもう閉店にしようと思っていたところだから、自宅まで送っていきますよ』
『ええ、嬉しい! マスターと一緒に帰れる!』
玲奈は無邪気に喜んだ。
ところが、そう言ったかと思うと、今度はカウンターに突っ伏して眠ってしまった。
『玲奈さん、玲奈さん。お家はどこですか?』
何度声をかけても、返事はない。
湯浅はしばらく困った顔で玲奈を見つめていたが、やがてタクシーを呼び、彼女を乗せた。
行き先を尋ねても、玲奈はなかなか目を覚まさない。
『玲奈さん、住所を教えてください』
何度目かの問いかけに、ようやく玲奈が小さく口を開いた。
湯浅は聞き取った住所を運転手に伝え、玲奈のマンションへと向かった。
部屋に着いてからも一苦労だった。
玲奈のバッグから鍵を探し、ようやく玄関のドアを開けると、
湯浅は彼女を支えながら寝室まで連れていった。
ベッドに寝かせようとした、そのときだった。
玲奈の腕が、湯浅の首に回った。
『帰らないで……』
かすれた声で、玲奈がつぶやいた。
湯浅は動きを止めた。
『玲奈さん、もう休んでください』
そう言いながらも、彼女の腕は離れない。
普段の玲奈からは想像もできないほど、無防備で甘えた表情だった。
湯浅は、彼女の顔を見つめた。
店ではチーママとして堂々と振る舞い、誰に対しても物怖じしない玲奈。
その女性が今、自分の前では別人のように弱く見える。
その夜、2人の間にあった一線は、静かに揺らいでいった。
翌朝、玲奈はどこまで覚えているのだろう。
昨夜のことを思い返しながら、湯浅の顔を思い浮かべた。
それからというもの、玲奈の中で湯浅の存在は、ますます大きくなっていった。
仕事が終わると、彼の店へ行きたくなる。
彼の声を聞きたい。
顔を見たい。
少しでも同じ時間を過ごしたい。
それまで仕事一筋で走り続けてきた玲奈の心に、いつの間にか湯浅という男が深く入り込んでいた。
恋というものは、時に人を大胆にし、時にひどく不器用にする。
銀座でどんな男性にも臆することのなかった玲奈が、一人の男の前では、自分でも持て余すほどの感情を抱くようになっていた。
その恋がどこへ向かうのか、まだ玲奈自身にも分からなかった。